現実は残酷に
社長は黙ったままマンションのベランダから飛び降りた。蝶のようにふわりと。着地も衝撃や音を全く感じなかった。
久恩も童の姿で音を立てずに着地した。どこにでも何でもできる人、というのは存在しているらしい。ただ、そのレッテルを煩わしく思うことはないのだろうか。辛い、逃げ出したいと願うことはないのだろうか。
「お前さま、もういいのか? 」
問われた質問に社長は答えない。口を堅く結んだまま歩き出す。
社長の考えは私には分からない。どうやらそれは久恩も同じようだ。社長は複雑怪奇な思考回路を持っているようで、私を連れ歩いていることも含めて謎の塊だ。
夏の日差しが容赦なく二人を照らしている。アスファルトの上に陽炎が揺れる。
人間界で細々と暮らしている妖がこちらを興味津々な様子で眺めているが社長は全く気に留めない。久恩はちょこまかと駆けていっては話しかけているようだった。
社長は静かに歩き続ける。緑の隻眼は澄んだまま多くを語らない。
何度目かの角を社長が曲がった。
先に見えてきたのは学校だ。監獄用にも見える門。その先には白い校舎。外から出も中の廊下の様子が見える窓。屋上の給水タンクの下には針時計が据えられている。
校門を潜り抜けると左手には砂埃が舞うグラウンド。何処かのクラスが体育をしているようだ。遠目にでもさかーをしている様子がやけにはっきり見えた。
同時に心をざらついた手で撫でられたような感じを覚えた。
学校というものは牢獄に似ている。表向きは厳しい規則と時間に従い、❛いい人間❜を社会の生み出すためのところ。裏は深く暗い。人間同士の腹の探り合い。他人を蹴落とすための穴を探している。息が詰まるような場所。心の奥がギシギシと痛み出す。
ここには行きたくない。だけど、そんな私の気持ちは社長に通じない。社長はどんどん校舎に近づいて行った。
社長は生徒玄関をすり抜け、校舎内に侵入した。ここまでくると他の人の目に見えないのが不思議でしょうがない。自分という存在がここに存在していないようにすら思えてくる。
校舎内は授業中で静かだ。ここは高校。もうすぐ昼休みになるだろう。さっき見た針時計の進み具合を思い出しながら頭の片隅で考えた。
社長は日差しから解放され、手ぬぐいで汗を拭いていた。
久恩は社長から見えるところの距離で行内にいた妖と何やらしきりに話し込んでいる。楽しそうな感じではない。大事な話をしているように見える。だけど、ここから会話を聞くことは出来なかった。
重々しいチャイムの音が鳴った。授業から解放され、昼休みとなる合図だ。雪崩のように教室から廊下へと生徒が出てくる。大半が男子生徒で、購買に駆けていくつもりらしい。
「人は何度見ても忙しないのう。昼食をそっちのけで追いかけっことは」
久恩がため息を深々と零し憐れむように人を見る。
社長もまた、久恩が見ている方向へ視線を滑らせながら静かに頷いた。
「全くだ。そうやってゆとりがねぇ奴ほど生き急ぐ……。勿体ねぇ話だ」
二人の視線の先には一つの机が。主の居ない空の席。
机の上には花瓶があり、立派な花が活けてある。何とも言えない光景だった。いや、何とも言ってはいけない空気があった。
クラスの何人かの女子が通り過ぎていく。傍に居ることにすら気づかずに。
誰一人として主を失った席を振り返る者などいない。誰一人として、その話題に触れようともしない。
皆、笑って通り過ぎていく。ありきたりのどうでもいい話をしながら。自分の日常へと帰っていく。殆ど思い出すことすらしないで忘れて記憶の欠片の欠片になる。若しくは潔く忘れるのだろう。美しくも残酷な現実がそこに存在していた。
「死んじまったらこの程度さ。何にもなりゃしねぇ」
社長が小さく呟いた。久恩が大きな赤い瞳で社長を振り返った。
何でもねぇよ、と久恩の頭を撫でながら社長は再び歩き出した。
生徒がひっきりなしに上り下りする中央階段をゆったりと上っていく。
見慣れた制服と廊下の灰色が目に染みる気がする。
やがて、生徒の姿が消えた。ここは屋上へと進む階段。社長の目指している行き先がようやく分かった。
スッと鉄の扉をすり抜けた。青い青い空が広がっている。白い入道雲が遠くの方に見えるぐらいでとても快晴だった。ようやく息ができたような気がして肺いっぱいに綺麗な酸素を吸い込んだ。少しだけど気持ちが落ち着く。
久恩がきょろきょろし始めた。そして、突然屋上の奥の方へ駆けだした。向かう先には黒い靄のようなものがある。
社長は止める訳でもなく煙管を取り出し、火をつけた。他の『相談屋』のメンバーが見ていたら何しに来たんだ、と突っ込まれそうな絵である。
久恩が近づくと靄は逃げ惑うように屋上を移動した。何度かその動きを繰り返す。
痺れを切らした久恩が本来の九尾姿に戻る。その大きな体で靄の行き先に立ちふさがり、狡猾に社長の方へと追い込んだ。
靄が社長の横を通り過ぎようとした。社長は煙管の煙を吐き出した。吐き出された紫煙は靄を包むように囲んだ。
『———ねえねえ、そこは楽しいかい? いや、楽しくなんかないよね? 皆、君のことを忘れてさ、楽しくやっている。憎くないかい? 憎いよね』
どくん。
『僕も憎い。君がここで燻っている理由なんかないよ? 僕が君をその檻から逃がしてあげるよ。だから、思いっきり暴れなよ。祟りなよ』
誰かが笑いかける。三日月型の口で。