曇りのち……
翌朝。
私は、一睡もできないまま朝を迎えた、どうやって部屋に帰ったのか思い出せない。
社長にお疲れ、下がれ、と言われたのを最後に記憶が空白化している。
布団に潜ったものの、睡魔はやってこず、目は冴える一方だった。
久恩から聞いた話によれば、『相談屋』に宣戦布告してきたのは、間違いなく小雪という人物だろう。
久恩が百鬼夜行を抜けた腹いせに。
なんてやつなのだろう。
「美姫? いつまで寝てるの?」
乃愛が声をかけてきたことで、私の思考は中断された。
布団からのそり、と起き上がる。
「ちょっと、すごい隈よ!? ちゃんと寝れたの? それとも、何か悩みでもあるの?」
乃愛が私の顔を覗き込んで言葉を失った。
鏡を見なくても、今の私が酷い顔をしていることは容易に想像できた。
「いや、ちょっと蒸し暑くて。寝れなくなっちゃって」
用意していた言い訳をスラリと並べることができた。
簡単に久恩の話をしてはいけない気がした。
どうして、社長や久恩が私に話すことを選んだのか、私は知らない。でも、それだけ信用してもらえていたとしたら。それを裏切るわけにはいかない。
私の中では妙な責任感が生まれていた。
「そう。じゃあ、無理しないようにね?」
乃愛が私の顔をのぞき込んで、心配したように言う。
「うん、任せて」
そうは言ったもののどうすればいいのか分からない。いつも通り、通常業務をしていいものか、それとも別に何か行動を起こすべきなのか。
「じゃあ、朝食はしっかり食べないとね! こういう時こそ、栄養はちゃんと取らないと!」
乃愛の言葉に背中を押され、共に食堂に向かうことにした。
今日のことは朝ごはんを食べながら考えればいいか、なんてそんな米考えをしながら、廊下を進んで食堂へ向かった。
食堂は前はいつもより人が多い気がした。
並んで待ってみても一向に進む気配がない。
「えっと、何で進まないのかな?」
乃愛が不安そうに尋ねてくる。
質問されても同じ時間に並んだのだ。状況は私にも分かるはずがなくて、首を傾げることしかできない。
「どうしたんですか?」
前にいる社員に声をかけてみる。
「久恩さんが怪我したらしい。上から瓶が落ちてきたってよ」
その言葉を聞いて、胸の奥が冷たい氷の手で撫でられたような気がした。
久恩から話を聞いていたのに。きっと久恩の旧知である小雪という人が私怨を抱いているということも。その小雪という人が久恩の命を狙うだろうということも、予想ができたはずなのに。
私は何をしていたんだ。
どうせ一睡もできないのなら、久恩にもっと気を使うべきだったのに。
「ちょっと、美姫!?」
乃愛の声が後ろで聞こえた。
だけど、私は振り返ることもできなかった。そんな余裕はとうに失われていた。
人混みを掻き分け、食堂に転がり出た。
丁度、久恩が運ばれていくところが見えた。
頭に瓶が直撃したのだろう。綺麗な銀髪が赤色に染まっていた。
床にも同じ色が広がっていて。
私の心を逆なでていく。私が死んだとき、久恩の話、赤く燃える火、家族の会話、様々な記憶が私の脳内を駆け巡っては消えていく。
呼吸が詰まり、それでも久恩へと手を伸ばす。
「久恩、さん……!」
このまま見送ってはいけない。このままにしては駄目だ。そんな気持ちが心の底からこみあげてくる。
そんな私の肩を誰かが後ろから掴んだ。
「離して!」
今、久恩を見送ったら二度と会えないような気がして。
「落ち着け!」
聞きなれた低い声がいつになく大きな声で聞こえた。
振り向けば社長が居て、いつの間にか妖格化していた私の長い爪が所長の頬に真っ赤な線を残していた。
「そんな姿で行ったら奴さん驚いて死んじまうだろうがよ」
社長が軽口を言ってのけた。
少し冷静さを取り戻した私はあわてて、人間の形を象る。
まだ、自分が怨霊になってしまったという実感が湧かないのだ。ちょっと感情が昂ってしまうだけで、妖格化してしまうとは。
「お前さんは、自室で休んでろ。何があっても出てくんな。おい、乃愛!」
私が妖格化を解いたのを確認すると、社長が乃愛を呼びつけた。
人混みを掻き分けて、乃愛が私の前に姿を現した。
「は、はい!」
「自室に連れていけ。その後、お前も待機だ」
社長の言葉に乃愛は頷く。
乃愛の白い手が私の腕に触れた。
「……でも、久恩さんが」
「行くよ」
乃愛にしては珍しく私の言葉を遮った。
だから、私もこれ以上、我儘は言えないのだと理解して口を噤んだ。
乃愛に腕を引かれながら、私は何度も久恩のことを振り返った。
力なく運ばれていく久恩。
そして、支持を飛ばす社長の姿。
すべてが珍しいことだらけで。
私の心は不安で満たされていった。
「大丈夫よ、そんな顔しなくても」
乃愛が私に告げる。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。分からない。
「だって、社長と久恩さんよ? 大丈夫よ」
乃愛が振り返って私に笑いかける。
そうだといい。というか、そうであってほしい。
だけど、居ても立ってもいられない私が居る。




