泥沼の見る夢
社長は右手を懐の上に持っていく。
もう、暖かさを感じることは無かった。冷えた手がゆっくりと撫でていく。
社長の左腕がみるみるうちに紫に変色していく。怨霊の“穢れ”に触れた部分だ。
「この、じゃじゃ馬姫が」
社長が低い声で呟いて懐からある欠片を取り出した。まだ澄んでいるものの、うっすらと紫に染まっている。悪霊から取り出した魂の欠片。少しずつ少しずつ紫になっていく。
「何者かに結界が破られたな。やってくれるじゃねぇか」
社長が口端を上げる。それはそれは挑発的に笑った。見えない敵がそこにいるかのように錯覚するほどの凶悪な笑み。
久恩も夢月も無言で距離をとった。
ただならぬ雰囲気を感じたのだろう。
「けぇるぞ。もうあんまり時間がねぇ。急がねぇとあの天狗に取られんぞ」
社長が立ち上がる。先ほど倒れたとは思えないほどしっかりと立っていた。
夢月がはっとして指笛をならした。透き通った高い音がビルの間を駆け抜け何処までも響き渡っていく。
しばらくすると西の方角から目にも留まらない速さで何かが駆けてきた。ビルの山を軽々と飛び越え、あっという間に夢月の隣に並ぶ。
銀色の毛並みが多様に照らされ眩しい。優美なそれは虎だった。
久恩が軽く目を見張り、声を漏らす。
「噂には聞いていたがそれが式神じゃの? 」
久恩の言葉に夢月が笑む。
式神。
人の配下になった神様のことを言う。
太古、安倍晴明という陰陽師が十二神将という神の末端を式神にした。式神はそれ以前にも以降にも存在しなかった。
だが、夢月はその記録を塗り替えた。
どういう訳か、安倍晴明と同じように十二神将を式神にしたというのだ。それは嘘か現実か分からない噂として妖界でも話題になっていたという。
目の前には西の方角を司る白虎がいた。
目を瞬いている間に青年の姿になっていた。
銀髪の髪は何処か逆立っている。瞳は金色で猫目だ。はだしの足首には鈴がついた紐が巻かれている。頬には虎の名残のように黒い模様が入っている。
見るからに美青年だ。しかも、地面からわずかに浮いている。
「どうしたんだ? 」
明るい声が真っ直ぐ響いてくる。夢月の視線を真っ直ぐに金色の瞳。
夢月は青年姿の白虎を撫でる。優しく、ゆっくりと。
それだけで互いが大事な存在だとみていて分かるほどの光景で。心の中をどろりとしたものが這う。同時に自分がどうしようもない悪になってしまったと痛感する。痛くて辛くて、逃げ出してしまいたい。
社長が緑の隻眼を細める。
思い出したように夢月が白虎に語り掛ける。
「この私の友人達を妖界のあの村に送り届けてくれ。送り届けるだけで良い。ただ、一人“穢れ”を患っている馬鹿……奴がいる。だから、お前の神聖な風で送って欲しいんだ」
言いなおした言葉に社長の目の鋭さが増した。
白虎は一度だけ社長と久恩を正面から見据えた。そして、夢月に向かって明るい笑顔で頷いた。
社長を金色の瞳が捉える。
「妖界のごたごたに巻き込まれんのは嫌だから、送るだけだからな」
一言前置きをして白虎は両手の手の平を合わせる。そこから風が溢れ出し、私達を包み込んだ。体が重力に逆らい持ち上がる。
それを最後にかろうじて保っていた私の意識は泥沼へと吸い込まれて行った。
もう、二度と戻ることが出来ない気がした。このまま、この闇に任せてしまおうとほとんど諦めの心境だった。
人は醜い。他人を妬み、憎しみ、争い合う。常に誰かを見下さなければ生きていけない。なんて悲しい生き物なのか。
だけど、その実態を誰も見ようとしない。見つめようとしない。平和だの友情だのを謳いながら、平気で裏切り傷つけてゆくのだ。それが当たり前だと言うように自分の行動を振り返ることもしなければ、反省することも無い。
結局、人間は自分が一番なのだ。自分さえ良ければ、自分さえ救われればそれで満足。誰が傷つこうが、誰が泣こうが知らんぷり。見たくない事から目を逸らし、現状維持。
そうして流された血と涙は一体誰のためのものだというのか。誰に届くと言うのか。
でも、そう書いている私だって何も変わらない。批判している人たちと同じ。心の中で自分さえ良ければと思っている。
私は、“いい子”何かでは無い。
皆に期待され、可愛がられる“いい子”など私が必死に作り出していた虚像。本当の私を知る者なんて何処にもいない。どこにも。
ならばいっそ何もかも壊したっていいじゃないか。全てなくなってしまって、それでいいじゃないか。
本当の自分さえも殺して、泥沼に浸かって居よう。きっとそこが私の本当の居場所だから。