3. 隅の老人 その③
※後半、残酷なシーンが出てきます。苦手な方はご注意ください。
「どうした、テス」
いきなりあたしは現実に引き戻された。
目の前には「隅の老人」が訝しげな顔をして座っている。
あたしを追い詰めた巨大な眼は、老人の丸縁眼鏡の奥で、静かにこちらを見ていた。もちろん、通常サイズだ。
思わず、周りを見回した。そこには溶けて消えたはずの、カフェ・ファーブルトンのいつもの昼下がりの情景があった。
(…い……、今の、なに!?)
(夢?……、夕べの夢の続き……なの!?)
(でも、でも、……だって……)
頭の中は、パニック状態だ。
身体中に鳥肌が立ち、震えが止まらない。悪夢への恐怖からなのか、そこから解放された安堵感からなのか、また涙が出てきた。嗚咽をこらえようと、両手で口を覆う。
「落ち着きなさい、テスよ。これしきのことで動揺して、どうする。おまえは、まだ――――なのだから……」
(なに、なに、なにを言っているの!? 肝心なところが、うまく聞き取れないの。もう一度言って!!)
「――で、――――だな」
老人のこめかみに、青筋が浮かんでいる。
怒りと、失望と、諦めと、悲しみがごちゃ混ぜになった感情が視える。
落ち窪んだ大きな瞳が、爛々と光っている。なにを言っているのかわからないけど、彼はあたしのこの状況を把握しているの?
(ねえ、あたし、どうなっちゃったの!? 教えて!!)
だって! ――あのねっとりした液体の感触が、まざまざとこの手に、身体に残っている!!
(……あれは、あれは、――――なに!!)
また頭痛がぶり返してきた。じくじくと、痛み出す。
「早く……安定させることだな。――と云って、おまえひとりじゃ無理のようだが。その依存心の強さを、なんとかせい。せっかくの……」
なにを思ったのか、老人は少し口を濁した。
「テスよ。もしその彼氏と仲直りをしたいというのなら、早急が良い。時間を置けば置くほど、困難になるぞ。わしのように後悔を繰り返すことになる。
ただし、一度ひびの入った関係は、まったく元通りとはいかんからな。それは、ふたりの覚悟の程だ」
老人は上着のポケットから懐中時計を取り出すと、時間を確認した。そして今までとは明らかに口調を変え、どこか憐れむような目をしてこう言った。
「その男がおまえの支えになるというのなら、……それもいいかもしれんな。なに、老婆心だよ。気にするな。ただ、わしのように後悔だけは残すな。これは忠告だ。
さて、そろそろ時間だな」
老人は腰を上げた。ステッキに身体を預けながら、ゆっくりと歩きだす。
コツコツと小さく響くステッキを突く音が、あたしの怯えを増幅させ続けた。
♡ ♡ ♡
老人が立ち去ると、ニナとアマンダがすっ飛んできた。
「ちょっと、どうしたの? テス」
「なにを言われたの?」
ふたりして口々にあたしの涙の理由を聞いた。
そういわれても、老人の昔話聴いていたらとっても怖い白昼夢を見て、そのあとなんだか怖い顔で叱られて、最後に慰められた気がするんだけど、あたし自身展開についていけてないんだってば!!
「あら、これ『隅の老人』の忘れ物かしら?」
アマンダが、椅子の下に落ちていた銀色の懐中時計を見つけ拾い上げた。
大事そうに見せてくれた、老人の宝物だ。
「貸して、アマンダ!」
彼女からひったくるように時計を受け取ると、くるりと踵を返し、ドアへと走り出す。
「おおい、テス。もう今日は上がっていいぞ」
途中で通り越したマネージャーが声を掛けてくれたけど、あたしの足は止まらなかった。
「お客様の忘れ物、お渡ししてきます!」
呆然と見送るマネージャーの横を通過し、店の入り口までたどり着く。
ドアを開けようと手を伸ばしたら、いきなり外からドアが開き、店に入ってきたお客様と鉢合わせをしてしまった。
「きゃあ!」
「お…わっ!!」
軽々と弾き飛ばされてしまったあたしは、床にしりもちをついた。
「……痛っ…たぁぁ…」
「……って、なんなんだよ。まったく……」
聞き覚えのある声が、文句を言っている。大きな人影。まさかと思い、痛みを堪えて相手を確認したら、やっぱりリック・オレインだった。
「まあ、リック!」
後ろから、アマンダが声を上げる。
リックはぶつかった相手があたしだとわかると、一瞬気まずそうな表情を浮かべたけど、すぐに手を差し伸べて助け起こしてくれた。
「――あ~、テス。もう仕事終わるんだろ。話があるん…だ……」
言葉尻まで、あたしは待てなかった。飛ばされても手放さなかった懐中時計を、彼の鼻先にかざす。
「リック。懐中時計なの! 忘れ物! 渡したいの! おじいさん見なかった? ステッキ付いた、足の悪い、小柄なおじいさん!!」
掴み掛りそうな勢いで、リックを問い詰める。
とはいえ、196センチの長身のリックと155センチの小柄なあたしでは、ビジュアル的には大人と子供の会話みたくなってしまう。
迫力に欠けるのは否めないけど、そんなこと言っていられない。豆鉄砲食らった鳩みたいに、ポカンとしたな顔で立ち尽くすリックに畳み掛ける。
「パナマ帽かぶって、白髪を後ろで結わえてるの。それから紺色の夏用のスーツを着て、えっと……」
「リック、テスはお客様に忘れ物を届けようとしているの。それでね……」
追いかけて来たアマンダが、助け船を出してくれた。ところが声がだんだん尻つぼみになっていくので、不思議に思って彼女の視線を追っていくと、リックがあたしの手を握ったままだ。
さっき助け起こしてもらった時、手を引っ張ってもらって……。
「リック、手を離して」
「ああ……」
でも、リックは手を離してくれない。
「リック」
「あ……」
まだ、離してもらえない。
もらえないどころか、バスケ選手らしいがっしりとして厚ぼったい手でぎゅーっと強く握りしめられてしまい、あたしの小さな手は悲鳴を上げていた。
しかも今まで見たことも無い複雑な表情で、まじろぎもせずこちらを見ている。
どうしよう。
アマンダの冷たい視線と、漂う微妙にマズい空気をどうしようかと思案し始めた時、カランと云うベルの音とともに、再びドアが開いた。反射的に口が動く。
「いらっしゃいませ! あれ、クリスタ!」
最高に良いタイミングなのか、悪いタイミングなのか。
カフェ・ファーブルトンのドアを開けたのは、あたしの親友だった。
颯爽と店内に足を踏み込もうとしたクリスタだったけど、いきなり固まり、言葉を失ってしまう。
そりゃ、そうよね。数時間前にすったもんだで別れた、もしくは別れさせたはずのふたりが、手をつないでぼーっと立っているところを目撃したら、愕然とするでしょ。
彼女はあんぐりと開いた口を2~3度パクパクさせた後、速攻で感情を立て直した。
「なんでここにいるんだよ! リック・オレイン!!」
「げっ、クリスタ!」
モッフルの森の続きが始まりそうな一触即発の雰囲気に、店内はざわめきたった。
トラブル発生を感知したマネージャーが近づいてくる。
あたしはこの隙に、急いでリックの手を振り払うと、クリスタの横をすり抜けて、大通りへ飛び出した。
「テス、どこへいくのさ!?」
「おい、待てよ。テス!!」
リックとクリスタの大声が後ろから追いかけて来たけれど、今のあたしは「隅の老人」に懐中時計を返したい、ただそれだけだった。
なぜだろう。老人は毎日お店に来るのだから、懐中時計を返すのは、明日でもいいはずよね。
なのに、どうしても、今返さなけれはいけないって気がするの。だって、これは思い出の品で、とっても大切なものなんですもの。
大通りの人込みを抜けながら、老人の後ろ姿を探す。どっちに行ったんだろう。足が悪いんだから、まだそんなに遠くへは離れていないはずよ。
キョロキョロしていると、ワンブロック先に老人を見つけた。交差点を渡ろうとしている。呼び止めようとして、ふと気が付いた。
あたし、「隅の老人」の名前を聞いていない。そうよ、老人が名乗ろうとした時、あたしのお腹が……。
ああん、自分のお腹が恨めしい……。
だめだめ、今はそんなこと言っていられないわ。こうなったら、走って追いかけるしかない。あたしは走り出す。
「…おっ、お客さ…まぁ~~。待ってぇぇ~~」
にぎわう大通りの雑踏の中、小柄な後姿を追いかける。
老人は足が悪い割には、歩速が早い。
一方あたしは、運動神経がそれほど良い訳でも無く、鈍足。ついでに田舎育ちのなので、人混みに慣れていない。ロクム・シティに来て2か月以上経つけど、歩いている人と人の間をすり抜けるという行為が、今もって身に就かないのよぉ。
老人の背中を確認したのに、簡単に追いつけない。
何度か人にぶつかりそうになりながら、ようやく交差点手前まで来たときには、老人は横断歩道を渡り終えるところだった。
「おっ、お客様ぁ~!!」
切れた息を整え、声を上げて、もう一度呼びかける。あたしの声が届いたのか、老人が振り返った。
「おや、テス。どうした?」
「わっ、忘れ物…ですぅ~~。こっ、これ、これ!」
懐中時計をかざして見せる。
老人はポケットを探り、時計を確認するけど、あるはずもない。
「おお、わしの……」
器用にステッキを捌き、方向転換をして、老人はこちらへ引き返そうとする。信号の点滅が始まっているのに、足の悪い老人が渡りきるのには、この横断歩道の距離は長すぎると思う。
「あ、あたしが行きま~す。そこで、待っていてくださ~~い!」
と、車道に飛び出した時だった。
交差点に一台の暴走車が突っ込んでくるのが見えた。
(――危ない!!)
そこから、時間の流れは出来の悪いストップモーション・ムービーになった。
実際には、そう感じていただけかもしれない。
でもその一瞬の出来事は、ショッキングな静止画を下手くそに何枚もつなぎ合わせ、恐ろしくゆっくり、あたしをいたぶるように進行していった。
暴走車は、あたしの手前を横切る。
避けようと体のバランスを崩し、後ろへ倒れるあたし。
スピードを落とすことなく、あっという間に走り去る車。遠ざかるテールランプ。
ポーンと宙に跳ね上げられた、老人の小さな身体。壊れた人形みたく、力の抜けた、たよりない姿勢で落下してくる。
そして地面に叩きつけられ、ぐにゃりといびつに捻じ曲がった姿。
虚ろに開かれた金壺眼が、こちらを見ている!
あたしは、凍りついた。
「――――いっ、いやぁ……いやぁ…ぁぁ……、きゃぁぁぁぁ…………!!」
ありったけの声を絞り出して、あたしは叫んでいた。
声が枯れるまで、叫び続けた。それでも足りない――奔流のように、込み上がってくるなにかが、あたしを叫ばせていた。
声にならない声で空気を振動させ、行き先を見失った荒れ狂う感情と攪拌している。
燃えるように、身体が熱い。
頭の中で、なにがが蠢き始めた。その感覚に吐き気を催す。
大きな震えが全身を走り、あたしの体内のさらなる奥底から、言い表せないモノが、のそりと這い出てくるのが視えた。
不気味なザラついた感覚が、あたしを襲う。
ドクンドクンと波打つ感触は手先足先にまで伝わり、五感を支配する。
呼吸が乱れ、視界がかすむ。
(――イヤ、嫌ッ。こんなの……嫌ッ!!)
口から飛び出す、獣のような咆哮。
あたしが、あたしでなくなっていく!!
(…………て…ぇ…すぅぅ……)
目の前が、真っ白に光った。
――――そのあとのことは、記憶に無い……。
2022/02/05 加筆・改稿により②→③となりました。