15. peony peony and lilies その④ ☆
奈落の底に落ちる穴は、いつも突然口を開けるものらしいわね。
グラリと意識が揺れたあと、ふわりと宙に浮く感覚。筋肉が硬直し固まったした後、ガクンというショックを感じ身体を重力に鷲掴みにされた。
あたしはまた地の底へと落ち始める。
寸前、目の前の美しいひとが慌てて立ち上がり、こちらへと手を延ばすのが見えたけど、救いの手はあたしまで届かなかった。
花弁の唇が、あぶないって動いた。
駒が散らばる。
転がる女王の駒。
対局の途中だったのに邪魔してごめんなさい。
伸ばされた指先。
どこかで見覚えがあるような……。
(はらはら、ひらひら)
花びらが舞う。
どこまで行くの――。
落ちていくあたしの前に現れるうさぎ。丸縁眼鏡をかけた足の悪いうさぎ。
懐中時計を探しているの?
(はらはら、ひらひら)
巨大な時計の針が、反対回りで近づいてくる。逃げなきゃ。
もがいても、穴底へと導かれる身体は言うことを聞いてくれないの。
どうしてこの幻覚が反復されるんだろう?
どんな意味があるの? なにを伝えたいの?
(誰か助けて!)
ループホールは無限の深さ。
新たな幻覚の波が押し寄せて来たわ。今度は、なに?
彼方でうさぎが顔を歪めている。
笑っているのか、泣いているのか。判断がつかないのが厄介ね。
ザザザッ……と目の前をかすめたのは、薄紅色の破片。
払い除けた先に見えたのは――。
楽器を弾くひと。
さんざと降る花の雨。
そうだ、これは以前に視た風景。
逆再生される幻視の記憶。
(はらはら、ひらひら)
重ねた手のひら。
強く引っ張られてくぐるサイズの小さなドア。
ドアの向こうから誘う手。
そうだ! あたしの前に差し出されたあの手。
あれはあなただったの?
予知夢だったというの?
どこまで行けばいいの?
これは幻覚だってわかっているのに、入り込んだらここから抜け出せないの。
なぜ?
♡ ♡ ♡ ♡
「あぶない、お嬢さん」
がっしりとした手が、あたしの肩を捕まえた。
その手の力強さで意識は現実に戻される。
あたしは卒倒するところだったらしい。ひっくり返りかけた身体を後ろから支えてくれたのは、カッコよさと思慮深さを兼ね備えた素敵なおじさまだった。
止まっていた呼吸が戻ると、店内のBGMやら談笑の声が一挙に耳に飛び込んできた。賑やかな空気が温かく感じる。
体内時計ではずいぶん落下を続けていたけど、実際には数秒にも満たない間の事だったらしいわ。
「大丈夫ですか?」
2〜3秒、おじさまの端正なお顔に見惚れてしまった。
長身で、なおかつスーツの上からでも筋肉質の引き締まった肉体の持ち主なんだろうな、と想像できちゃう均整の取れた姿態ね。
身に着けている品も高級だし、風貌も手を抜いていないし、嫌味のない大人の香り。年齢からいっても、それなりに地位のあるビジネスマンといった様子なの。
空いたままの口を急いで閉める。かなり間の抜けた顔を見られちゃった気がする。
急いでお礼を告げて離れようとしたんだけど、急激に血圧の下がった身体は思い通りに動いてくれなくて、結局また素敵なおじさまに支えてもらうことになってしまった。
ああん、恥ずかしい。
「だ……大丈夫です。ひとりで立て……ま……」
気付くと花のようなあのひとが、あたしのすぐ横に立っていた。眉を寄せ、心配そうな眼差しで。
そんな表情さえも綺麗だなって思ってしまうあたしって、どうかしている?
立ち姿はスラリとして、想像していたより身長が高かった。あたしより、頭半分以上は高いよね。
クリスタみたいにモデルのお仕事でもしているのかしら? それとも女優? 根拠のない妄想が猛然と浮かんで来て。
こんな状況にもかかわらず、惹かれた心は剥がせない。
(peony peony and lilies――。どうか、声を聴かせて)
その美人さんが小さく息を吐き、紅い唇が動こうとした瞬間。
そのひととあたしの間にスッと影が入り込んで、視界を遮った。
「まあ、テス。こんなところで会えるなんて奇遇ね」
月の光を集めた様な銀の髪、柔らかなベルベットボイス。
「エ、エミユさん!」
それはあたしも、です!
どうしてここに。ダメだ、また頭が混乱してきた。脚に力が入らない。
「おや、知り合いなのかい」
「ええ。この間の『紅棗楼』の一件の――」
おじさまとエミユさん、あたしを挟んで、さりげなく目配せを交わす。
背筋にヤバい予感が走る。
ふええ。エミユさんとおじさまはお知り合いで、しかもあの一件でお話が通じる仲なのね。
そんなことより、エミユさんあの日のことを覚えている!?
っていうことは、マリアの記憶改ざん工作、彼女には通用しなかったんだわ。能力者同士だと、相手の目を欺くにはより強い能力が必要だとも言っていたけど。
マリアの感応能力よりエミユさんの方が格上って事なのかぁ。
(情報ガ何処マデ漏レテルコトヤラ……)
それで、このおじさまはどなた?
ああん、また頭の中がぐ~るぐる……。
そこへドゥカブニーさんがすっ飛んできた。
「申し訳ございません。お騒がせいたしまして」
「いや、構わないよ。それよりこのお嬢さんはまだ顔色が悪いようだけど、いいのかな」
「ご迷惑をおかけしました。すぐに下がらせますので」
ドゥカブニーさんが頭を上げる。店内が異変を感じてざわめき出した。
「テス。こっちにいらっしゃい」
フロアマネージャーと一緒に駆けつけたニナがあたしを引き寄せて、周囲から庇うように抱きかかえると、バックヤードへ向かって歩き出した。ゆっくりと、あたしの歩調に合わせて。
「ごめんね。ニナ」
「焚き付けたのは、あたしだからさぁ。謝るのはこっちだわ。
マネージャーからのお小言は引き受けとくから、テスはアパートメントに帰ってベッドに直行するのよ。わかった?」
あたし、うなずく。
「でも、まさか、あのふたりが揃って来店するなんて」
ニナがチラリと視線を後方へ飛ばした。
その先にはあのおじさまとエミユさん。
「……え? あのお客様達、誰だか知っているの?」
「ギモーヴ社のマヌエル・アルバレス・早乙女とエミユ・ランバーでしょ。別の仕事先で見かけたことがあるの」
ニナも苦学生で、掛け持ちでお仕事しているのは知っていたけど、あの日『紅棗楼』にいたことは後からオーウェンさんから聞かされてビックリした。
当然、彼女もあの時の記憶は消されているから騒動は覚えていない。
もうひとつ。オーウェンさんからの入れ知恵だと、『紅棗楼』の経営母体はギモーヴ観光開発コーポレーションと云って、この惑星ではかなり大手の企業らしいわ。
だからなのかしら。「接触には細心の注意をしてね」って、アダムとディーそれにマリアにも言っていたような。
特にあたしは、例の一件のこともあるからと念を押されていたんだっけ! ふええっ。ごめんなさい、オーウェンさん。これは不可抗力です。
「もう、ひとり……」
「あの美人? さあ、それは知らないわ」
そうだ!
その美人さんに、あたしは伝えなきゃならないことがあるんだった。「隅の老人」のこと、なくしちゃった懐中時計のこと。それから……。
(それから?)
あたしは後ろを振り向いた。
でももうあの隅の席にも、その周囲にもあのひとの影はない。フロアマネージャーや早乙女様とか言うおじさまの後ろに隠れてしまったわけでもない。
どこに!?
店内を見渡して、急いで姿を探す。カフェ・ファーブルトンはこぢんまりとしたお店だから、分けなく店内を見渡すことが出来る。けど――。
見当たらない。
どうしたことかといぶかしがるニナに、美人さんを探してくれるようお願いする。
だって、「隅の老人」のように、このまま会えなくなってしまうのはイヤよ。
ううん。うさぎ――老人が、見失うなってあたしを睨んでいる。
焦るあたしの耳に、ドアを開閉するチャイムの音。直感に促されそちらに顔を向けると、エミユさんに背中を押され、出て行こうとするあの人の後ろ姿が見えた。
黒髪が名残惜しそうに揺れている。
「あ、待っ……」
(peony peony……)
無情にもドアが閉まる。
(……and lilies!)
反射的に追いかけようとするあたしの身体を、ニナががっしりと抱え込み引き留めた。
「テス、ダメだったら! あんたは、自分の体調が良くないってわかってる? それに闇雲に追い掛けて行って、この間みたいに事故に遭ったらどうするの!?」
ニナはあたしのことを気遣って止めたんだって、わかっている。
でも。でも。
「……行っちゃう……わ」
ガラス窓の向こうに遠ざかるあのひととエミユさんが見えた。大通りの雑踏が、すぐにふたりの姿を隠してしまう。
そのふたりを追うように、早乙女様も退店された。
ドアベルの音が以上って言っているように聞こえる。
気のせいかな。ドアが閉まる前、一度だけエミユさんがあたしを見たような気がするの。そして「だめよ」って、たしなめられたような。
咎められたような。
意味は不明だけど……。
あああぁ。せっかく会えたのに!
なにも伝えられなかった。なにも出来なかったよ。
今はそっちの方が重大な問題。
なんてことなのよ!
全身から力が抜けちゃった。
あたしは床にへたり込んでしまい、狼狽えるドゥカブニーさんの様子も眼に入らないほどの放心状態になってしまった。
――その代わり、うさぎが哀しそうにうつむく姿が視えていたの。
♡ ♡ ♡ ♡
ニナの助けを借りてようやく控え室まで戻ると、自分の不甲斐なさに涙が出てきた。泣くことさえ忘れちゃうほどの放心状態だったのに、思い出した途端悔しくて哀しくてボロボロと涙が溢れてくる。
泣いたって仕方ないのに。でも今は泣くより他に手立ても無くて。
ああん、ますます情けなさが募ってくるよう。
嗚咽と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、つい擦ろうとしたとき、突然メリルの言葉が浮かんできた。
「顔を擦ってはいけないとあれ程申し上げたではありませんか!」
はい。覚えてます。
またお小言を言われそうなので、しゃくり上げながらもエプロンのポケットを探る。いつもここにハンカチを入れているの。ところが、
「――――ン!?」
指先は柔らかいハンカチ以外の感触を探し当てていた。
堅い。大きさはピルケースより、一回りくらい大きいかな。
なにかしら?
おかしいな、このポケットにハンカチ以外のものを入れた記憶なんてないんだけど。
訳がわからないまま、あたしはその異物を掴んで取り出してみる。
「ひぇ、これ……」
出てきたのは小さな小物入れだった。
特徴のあるデザインだから、見覚えがある。寄せ木細工とか言うもの。こんな細かい凝った細工の施してある工芸品なんて、博物館の収蔵品かと思っちゃったもん。
チェスをしながら、長い指が何度も所在を確認していたっけ。
そうよ。これは「隅の老人」の待ち人の持ち物よ!!
「peony peony and lilies」
この呪文の出典は、当然「隅の老人」が「あのひと(妻)」を形容した「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」でしょうね。
はぁぁ、ようやく第3章で蒔いておいた種が咲きましたよ。よかった~。
3章と8章の伏線がようやく繋がり出しました。途中でエタちゃったら、なんだこれ!? でしたものね。
でも、ちょっとおかしいなぁって感じておいでの方が、いらっしゃるかも。そう、まだ謎は続いています。
いよいよ姿を現わした「あのひと」。
今回は声を聞くことさえ出来なかったテスですが、果たして「隅の老人」の想いを伝える事が出来るのでしょうか?
事態はさらなる展開を!?
次回をお楽しみに! (次回から新章突入。でもタイトル決まっていないの……(T-T))