15. peony peony and lilies その② ☆
カフェ・ファーブルトンのフロアマネージャー、ロイド・ドゥカブニーは胸をなで下ろしていた。
昨日から仕事に復帰したテス・ブロンだったが、事故の後遺症も見られず、笑顔で接客に当たっている。
事故の一報を聞いたときも驚いたが、その後彼女の身柄が行方不明になったと聞いたときはもっと驚いた。
店の常連客と一緒に暴走車のひき逃げ事故に巻き込まれたと云うことだったが、この平和なロクム・シティで、白昼堂々目抜き通りの真ん中、万人の目の前でそんな事件が起きるなどとは思ってもいなかったからだ。
悪いことは重なるもので、現場付近では電気系統に突然原因不明の混乱が生じて、一帯は大騒ぎになったとも。2ブロック離れたカフェ・ファーブルトンは難を逃れていたが、復旧まで付近は立ち入り禁止措置まで取られていたと後から聞いていた。
平日の昼下がり、比較的客足がまばらな時間帯とはいえ、あれだけの騒ぎがニュースにならなかったのは不思議な話だった。
もっと納得がいかないのは、目撃者が多数いたというのに暴走車の行方も跳ねられた老人の行方もわからず、事件は未解決のままになっている事だ。
従業員が被害者のひとりと云うこともあって、常連客達からも事故後の様子等を尋ねられたりしたのだが、噂ばかりで正確な情報がなく答えようもない。
警察は何をしているのだろうかと、彼は不信感を募らせていた。
そんな中、事件の後も謂われの無いトラブルに遭遇したとはいえ、テスが無事帰って来られたのは、大きな幸運なのかもしれないとドゥカブニーは安心を通り越して感心していたのである。
常連客達もテスの無事を喜んでくれているのだから、終わりよければすべてよしと云うことで、細かいことは詮索しない方が良いのかもしれない。
ともあれ、これでカフェ・ファーブルトンは通常に戻ったのだと、フロアマネージャーはうなずいていた。
そのテスは健気に仕事を熟しているが、ややもすると表情が沈んでいた。
注意をすればすぐに笑顔に戻るのだが、なんと言っても病み上がりだ。本人は平気だと言い張るのだが、あまり無理はさせられない。
勤務時間を早めに切り上げさせることにしよう。
ドゥカブニーは知っていた。
彼女の不調の理由は、体調ばかりでは無いことを。
同じ給仕係で大学の先輩でもあるニナ・レーゼンバーグから、リック・オレインと恋人の関係を解消したと聞いていたのだ。
似合いのふたりと影ながら見守っていたドゥカブニーとしては残念だったが、本人達がそう決めたというのならば仕方ない。
ドゥカブニーは彼女の仕事先の上司なのであって、親でも兄弟でも親戚でもないのだから、業務に支障を来さない限り、私事に口出しすることは極力避けねばならないと考えていた。
今日もロクム・シティ一番の繁華街であるフロランタン大通りの名物カフェは盛況で、開店と同時に席が埋まり始める。
天気が良いので、テラス席はあっというまに客で溢れた。
店内席も八割方埋まっている。
立ち飲みカウンターに陣取っていた常連客がドゥカブニーの顔を見て挨拶をし、手にしたパナシェのジョッキを持ち上げて見せたので、彼も丁寧に挨拶を返した。
時計は、もうすぐ正午を示そうとしていた。ランチを注文する客が増え始める。
厨房はにわかに活気立ち、料理人達の動きもせわしなくなり始めた。
給仕係のジョン・グラムが、足早に店内を横切って行った。先程テラス席に座った客に呼ばれ、本日のおすすめ料理の説明をしている様子だ。
同じく給仕係のニナ・レーゼンバーグがメニューを片手に、彼の目の前を大股で通り過ぎて行った。
テスはサラダとオムレットを運んでいる。
見渡せば、すでに店内も満席となっていた。
その時、ドゥカブニーは隅のテーブルの客と目が合った。注文らしい。テスが担当の席なのだが、別の席の客の注文を受けている最中で、直ぐには対応できそうにない。
しかもテスの顔色はどうにも冴えない。無理に笑顔を作っているのが見え見えだ。
これでは早めどころか、ランチタイムの繁忙時間が過ぎたら、すぐに上がらせた方が良いかもしれないと考えを改めた。
週末で店はいつも以上の忙しさに追われているが、ディナータイムまではジョン・グラムとニナ、それにドゥカブニーが補助に入れば切り抜けることが出来るだろう。
(しかし……)
ドゥカブニーは思った。
忙しいのはいつもの事とはいえ、以前は、もう少し勤務態勢に余裕があった様な気がするのだ。
テスの長期欠勤ばかりが理由ではない。シフトを組んでいて、どうにも腑に落ちないような感覚に陥ることがある。
(ひとり人員が足りていないような……)
と云って、2ヶ月ほど前にテスを加入させた他には、従業員の変動は覚えが無い。彼がどんなに頭を捻っても、無理矢理歪められたような感覚が埋まることは無いのだ。
あれこれ悩み出せば、また胃が鈍い痛みを訴えてくる。
フロアマネージャーのドゥカブニーはいつの間にか強張らせていた肩の力を抜くと、すっきりしない気持ちを抑え込んで客の方へと歩いて行った。
♡ ♡ ♡ ♡
ランチタイムが終わる少し前、フロアマネージャーのドゥカブニーさんがあたしを呼んだ。
顔色が悪いから今日はもう仕事を上がりなさい、って。
困ったな。
仕事をしていた方が、いろいろ考え事しなくてラクなのに。
まあ、体力的にはちょっとツラいけど。でもお客様と会話したりとか、仕事仲間とのやりとりとか、あのことと関係ないことをお喋りしていると、気分がちょっとだけでも上向きになるんだもん。
無事に、大学にもバイトにも復帰したわ。
本当にマリアの記憶改ざん工作は完璧で、ドゥカブニーさんもカフェの仕事仲間も疑うこと無くねつ造された事実を信じている。申し訳ないくらい。
大学の方はオーウェンさんが手を回してくれたようで、単位を落とさずにすみそう。
感謝です。
だって、単位落として留年なんてことになったら、奨学金がもらえなくなっちゃう。そしたら、自主退学だよぉ……。
故郷のパパやママ、妹弟たちに顔向けが出来ないっ!
あたしがリックと別れたことは、どういう経路からなのか不明だけど、しっかり噂が広まっていた。
さらに事故で記憶喪失になった上に病院側の手違いでさらなる災難に遭った(……ということに表向きはなっている)ことも相まって、周囲は好奇心やら哀れみやらいろいろな視線を投げかけてくれるのよ。
もちろんクリスタやメリルのように親身になって心配してくれる人もいれば、そうでないイヤ~な気持ちにさせるような言葉をわざわざ投げつけてくる人もいる。
別れたとはいえリックとは友人として普通に接しているし、相変わらず優しい。でもそれが気に入らない人も大勢いるって事なのよね。
彼は、人気者だから。
なんにでも文句を付けたがる人はどこにでもいる。だから絶対気にするなって、クリスタから言われた。
気にしないようにしているよ。
でもクリスタがいないと、いつもより視線が痛い気がする。
ダメ、ダメ。
こんなことじゃ、ダメだよね。また気分が落ち込んできたよ。
しっかりしよう、あたし。
こんなに気分が暗いのは、きっと「うつ」だからよ。
あのね。あたし軽度のうつ病ですって。
精神的ストレスと身体的ストレスに重度の疲労が重なって、脳に機能障害が起きているらしいの。
そのせいで超常能力も使えなくなった。
使えなくなっちゃったけれど、心身が落ち着けばまた復活するかもしれない、っていうのがヨーネル医師の見解。
それであたしは、今も『レチェル4』に週イチで通っている。ヨーネル医師のカウンセリングを受けるために。
もう、どっちでもいいのに。超常能力なんて。
むしろ、要らない!
能力のおかげでオーウェンさんはじめアダムとディーやマリア、ヨーネル医師とも会うことが出来たわ。
けど、これのせいでクリスタやメリル、そしてリックには、もの凄い迷惑をかけちゃったもの。
それにアマンダとも。
だから復活なんてしなくていいの。
……そう思っている。
その、アマンダの話だけど。
大学でもバイト先でも、アマンダの痕跡は消えていた。彼女と関わっていた人たちの記憶から、アマンダ・カシューと云う人物のことはスッポリ消えていて、誰も覚えていないの。
あたしの記憶だって、思い出せるのは名前と最後に聞いた言葉くらい。それさえ明日には忘れてしまいそう。
<あたしたちが強い潜在能力を持っているからこそ、そいつらは……>
アマンダ(本物)ってば、なにを言いたかったんだろう?
明日には、この疑問さえ忘れちゃうんだわ。
エミユさんにも、あれから会っていないなぁ。
きちんとお礼も言っていないから、いつかちゃんとご挨拶に行かなくっちゃ。手造りのクッキーとか持っていったら、喜んでくれるかなぁ。
あれ、どこに行けば会えるの?
『紅棗楼』?
や~ん、あそこへ足を向けるのはツラいわ。
お店自慢の美しい庭園を壊しちゃったの、あたしとア……――
(――――……ぁ……ぁぁ!?)
あれ、なんて言ったっけ? あの未確認の能力者の名前。
いっしょにバイトしてたんだよ。確か。
ああん、さっきまで覚えていたよね、あたし。
はれ?
ウソでしょ、ホントにわかんなくなっちゃった。
確か、ええと……。ええっとぉ……?
ふぇ~~ん!!
♧ ♧ ♧ ♧
マヌエル・アルバレス・早乙女がその連絡を受けたのは、時計の針が午後2時をまわった頃だった。
場所は惑星レチェルの首都バクラヴァ。
折しもセントラルステーションにレイモンド・ヤンを見送り、サブレ地区にあるギモーヴ観光開発コーポレーションのオフィスへ戻ろうとリムジンの後部シートに身体を滑り込ませた時である。
ジャケットの裏ポケットに手を忍ばせフォンを取り出すと、早乙女は通話スイッチをオンにする。
静かな起動音と共に立ち上がった立体画面には、全身を10センチ程度に縮小された黒服の人物が現れた。
立体映像フォルムの人物は、静かに頭を下げる。それは南の大陸の某所にある館の老執事であった。
彼の顔を見るのは、内密の相談事を持ち掛けられたあの桜の宵以来だ。
そんなことを思い出した途端、あの夜の満開の桜と古風な撥弦楽器の音色が脳裏に浮かび、早乙女の頬が緩む。
だが、すぐに引っかかりを覚えた。
「コンエック。どうしたんだい」
この老執事の方から彼に連絡を取ることは珍しい。その上、いつも笑みを絶やさない穏やかな顔に緊張が走っているのを見て取り、なにごとかと早乙女は身を乗り出した。
「お忙しいところ申し訳ございません。緊急にお伝えしなければならないことが持ち上がりました。……お姿が、見当たらないのでございます」
館に滞在中の人物の行方が不明になった、と老執事コンエックは言うのだった。
「君になにも告げずにいなくなってしまった、というのかい?」
「はい。朝食を召し上がり、散歩に行くとおっしゃいました。
自室に戻られた――までは使用人も目撃しておりますし、館内に設置された防犯装置の記録も確認できたのですが、その後はお姿がぷっつりと消えてしまったのでございます」
冷静を失うまいとする老執事の顔を眺めていた早乙女だったが、事の次第を聞き終わると、意見を求めて向かい側シートに座る同乗者の顔にちらりと視線を走らせた。
けれどもその人物は、最新式のタブレット端末を操作する手を止めはしたが、無言のまま少し困ったように形のよい眉をひそめてみせるだけだ。
「それで、もしや――と思いましてお預かりしたものを確認致しましたところ、無くなっていたのでございます」
「無いって……。送られてきたあれが、かい?」
「はい。香合がございません。お言い付けどおり内密にしておりましたが、どこでお耳に入ったものか……」
やれやれと、早乙女は肩をすくめて見せた。
老執事コンエックは決して無能ではない。かの館の管理を、長きに渡って任され続けている男である。
その彼が目を光らせていたにも関わらず、送られてきた香合をこっそり探し当てたとなると、姿を消した人物の才腕を戒めるべきなのか褒めるべきなのかと早乙女は悩んでしまう。
だが問題はそこではなく――。
「なるほど。すると、行き先は『カフェ・ファーブルトン』か」
映像の老執事がうなずく。
「左様かと思われます。午前中にこちらを発ったのならば、今頃はもうロクム・シティにお着きになる頃合いではないかと――」
「……だろうねぇ」
「いかが致しましょう。かの御仁に会われるお積もりなのでしょうか?」
老執事は沈痛な面持ちのままだ。
「そうだね。会ってみたいのかもしれないね。でも……」
早乙女が口篭もる。
「――わかったよ。コンエック。心配しなくていい。私が様子を見に行こう」
「お願い致します。あの方の身になにかございましたら、わたくしはヤンの旦那様に申し訳が立ちません」
老執事はカエルに似た顔を青く強ばらせていた。
「大丈夫だよ、安心おし。決して大事になるようなことはないから」
通話を切ると、早乙女はリムジンの自動操縦システムに目的地の変更を告げる。
リムジンのAIによる認証チェックにより、それが早乙女本人による指令だと確認されると、直ちに走行プログラミングの変更がなされた。
シートベルトが搭乗者の身体を固定すると、車体が浮揚し、滑らかに動き出す。
その頃には、これ以降の時間帯に組まれていた早乙女の面会や会合の予定は、全てキャンセルもしくは変更されていた。同乗者の機転のよるものだ。
「いつもながら、手回しがいいね」
菫色の瞳を細めたその人物は、銀髪をかき上げた。
黒いリムジンはバクラヴァの中心市街地を速やかに抜けて行く。
郊外のジャンクションから高速道路に乗り越え、一路ロクム・シティへと飛ばしていた。眼下には、のどかな田園風景が拡がっている。
が、早乙女の心中は実りの秋を迎えたぶどう畑の様子を楽しむ気分ではなかった。
それでも気を紛らわすためなのか、仕事熱心が災いしているのか。今年のぶどうの出来や収穫量、相場の動きに及ぶまで同乗者を相手に話し続けていたのだが、ロクム・シティまであと2キロの道路標識が見えた頃、ポツリと本音がこぼれた。
「さて。素直に聞き分けてくれるだろうか。優しい顔をして、なかなか頑固なところがあるからね」
サンルーフの天井から見える秋晴れの空を眺めながら、わざとらしくため息をついてみせる。
「甘く見るのですもの。案外……悪賢いのよ」
早乙女が口端を歪め、大仰に肩を持ち上げてみせると、向かい側シートに座っていたエミユ・ランバーはクスリと笑った。
さて。この物語、『テスとクリスタ』とヒロインたちの名前と連ねている割には、結構おじさま率が高いと云うことに改めて気がつきました。
前々回のオーウェン&ヨーネルに続き、今回はついにカフェ・ファーブルトンのフロアマネージャー、ドゥカブニーの再登場です! パチパチパチ……って、喜んでいるのはきっとわたしだけなのでしょうね。
次回は「きれいどころ」出します。出す予定です。たぶん……ね。
後半にもおじさまがふたり。マヌエル・アルバレス・早乙女とコンエックという老執事が出てきました。
覚えておいででしょうか? このおふたり、初出演ではありません。
第4章 月光華 その④ ですでに登場済み。(早乙女はもう一カ所、さりげなく出演している箇所があります)
あの時届いた荷物の中身が誰かに持ち出されたと物騒な会話をしていました。持ち出した犯人は悪意がある訳ではなさそうでが、それを持ってカフェ・ファーブルトンにやってくるのでしょうか?
その人物とは……。
クリスタの留守中だというのに、なんとなくトラブルの気配!?