3. 隅の老人 その②
※前半は老人のラブロマンスの昔語りですが、後半少々グロテスクなシーンがでてきます。ストーリー展開上どうしても必要なシーンなので、苦手な方はご注意の上お読みいただきたく存じます。
「若い頃、わしは偶然、ひとりの女性と知り合った。
本来なら会うことも無いような、全くかけ離れた環境で生きてきた女性だ。出会ったこと事態が、間違いのようなものでな。だからあの女のことが、これほど忘れられん存在になろうとは、思いもよらんことだった」
(ソンナコト、思ッテモイナイクセニ……)
どこからか、不思議なつぶやきが聞こえた……気がする。嫌味を含んだ、冷たい声なんだけど。
誰よ? 周りにはお客様もいないし。
身体の奥底で、かすかに響いたような。不快感のある声。男性とも女性とも区別がつかないんだけど、聞いたことあるような……ないような……。
んんん……?
訳のわからない疑問に小首をかしげたら、老人はそれを自分の言葉への反応だと思ったらしい。大きな目を、ますます大きく見開いた。
それはそうよね、この声はあたしにしか聴こえていないんだから。誤解するわよ……ね……
――って……、あれ?
(なに、なに、なに~。あたし、今なにを考えたのぉぉ~~!?)
内心ジタバタするあたしを置いて、老人の話は進んでいっちゃう。
あん、待って待って、置いていかないで。「隅の老人」の恋バナの続き、続きを聞きたいんだからぁ。
あたしは慌てて聞く態勢に戻る。
「――年寄りの世迷いごとと笑ってくれて構わんぞ、テス。それでもな、まさに紆余曲折の末、わしは彼女の心を射止めたのよ。
……というより、あの女の方が熱心だったかな。こんなわしのどこが良かったんだか……。今でも不思議で仕方が無い。
ふふん、『運命の悪戯』とは、こんなものやもしれんがな」
老人は遠い目をしながら、シニカルな笑みを漏らした。
「しかし互いの仕事と立場から、ふたりの関係は内密のものとなった。
おかげで会うこともままならない日々が続いたが、それでも良かったのだ。あの女のうれしそうな顔を見られるのならば、それで満足だった。滅多に素顔をさらさないあの女が、わしの前では無邪気に笑ってくれたのだから。
やがてあの女は仕事を辞め、一緒に暮らすようになったのだが、そのころからわしの仕事が……難しくなった。わしにとってその仕事は夢だったから、なりふり構わず追いかけていたのさ。
あの女が寂しそうな顔をするようになったとは感じていたんだが、どうしていいのか、わしにはわからんかった。もともとそう云うことには、疎いんでな。
そのことがわしらの溝となっていたことを知ったのは、情けないことに、彼女が別れを告げた時だよ。お粗末な話だ」
老人の今の風貌からは、ちょっと想像ができないラブロマンスだ。人は見かけによらないわよね。
あら、失礼。
「テスはまだ若いからわからんかもしれんが、時間は待ってはくれん。残酷なものだな。忙しく過ぎ行くが、気づいた時にはもう戻れん。時間とは一方通行なのだと理解したのは、あの女が姿を消してからだ。
人の気持ちも、似たようなものだ。一度壊れた関係は、元には戻せない。戻したつもりでも、なにかが違っておる。
それでも、わしは時間の針を戻したくて、あの女を探した。いやいや、戻すなどとは驕りだな。ひと目でいいから、もう一度……会いたいのだよ」
彼は胸ポケットから、古い懐中時計を取り出した。
鈍く、銀色に光る。
「あの女からの、最初で最後のプレゼントだ。皮肉なものだろう」
いとおしそうに、時計を掌で包み込む。でも口調は相変わらず、平淡だ。ひどくアンバランスな感じが拭えない。
「探して、探して、ようやく半年ほど前に、この惑星にいることを突き止めた。
あの女がここにいるのかと思うと、矢も盾もたまらず――まあ、抜け出すのに多少時間がかかったが、会いたさ一途に、のこのことこんな遠くまで来てしまった。……愚かなことだ」
「そのひとって、恋人なんですか?」
急いでケーキを呑み込んだあたしは、ボトムのビスケット地にむせながら相槌を打つ。
「妻だった女性だよ。ここで会いたいと、連絡をしたのだが……ね」
なるほど。それで毎日同じ時間にご来店いただいていた訳か。
「あっ、まあ、そうだったんですか。奥様、……おいでになるといいですね」
あたしは素直にそう言った。
心の片隅がピリッとする。
あの正体不明の声も、もう聴こえなくなっていた。
「どんな方なんですか?」
単純な好奇心だった。
「そうさな……。テスは、知っているか。『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』……これは美しい女性を讃える古い例え文句だが、あの女はまさにそんな感じだな。大輪の花のような美貌の持ち主だったよ」
臆面もなく老人は言ってのける。あはは。二の句が継げられなくなっちゃった。
要するに、文句なしの美人さんだってことよね。
老人は奥様にベタ惚れだったみたい。おそらく、今でもその気持ちは変わらないんだろうな。
う~~ん。なんとなく……恋に不慣れな屈折した青年と、それなりに世慣れした美女の、不器用なラブ・ストーリーと云う構図が浮かんできた。なんだか映画みたいだ。
でもなぜ今になって、もう一度会いたいなんて思ったのかしら。老人の気持ちが嘘とは思えないけれど、なんとなく、ちぐはぐな感じがするのよね。
(――そもそも、なんであたしに昔話なんて聞かせる気になったのかしら……)
突然頭の中に鋭い痛みが走り、夕べ見た夢の断片を思い出した。浅い眠りの中、うつらうつらと垣間見た夢の切れ端。
(……あれは花……大輪の花……牡丹……芍薬……百合の……花……ハナ……)
あたしの意識が遠退く。
「――――黒髪ノ、絹糸ミタイナ黒髪ノ……」
無意識につぶやいていた。
無意識だったから、なにを言っているのかなんて全く理解していなかったし、喋っている自覚さえなかった。
ただ目の前に、ふわりと広がる、美しい長い黒髪が視えただけだった。
「おや、視えたようだな…」
老人が、ニタリと笑った。
「……ぁ、……ん……」
底が抜ける感覚に囚われ、身体が揺れる。
「レチェルで、おまえにまで再会出来ようとは……な。わしも、運が強い。ほれ、しっかりせんか。テスよ。おまえの――は、――――では、あるまい」
(……えっ、なに? なんて言ったの? 聴こえない……)
老人の角張って血管の浮き出た大きな手が、あたしの手を掴んで揺すった。
(――――ひっ、ひやぁぁ……ぁ……!!)
あたしの頭の中で、いくつもの閃光が光った。目の前が、真っ白になる。
「彼女はどうしている。どこだ……なぜ来ない……、視えんのか?」
「……来ル、ヤッテ……来ル……。黒髪ノ……。アタ……シニ……」
夢うつつの状態で、あたしはなにかを喋っている。
風景は角砂糖のように溶け、崩れ去ったのに、老人の血走った眼だけが巨大化して迫って来る。
その時、あたしの足元が急に消えた。驚く間もなく身体は落下していく。
どこまでも、どこまでも……。
(――――――――!!)
いつの間にか、真っ白な真四角の部屋に閉じ込められていた。
震えるあたしを巨大な眼が凝視している。
部屋の隅に、小さなドア。でも鍵がないから、この部屋を抜け出すことはできない。
ううん、あんな小さなドア、あたしのサイズじゃ抜けることはできない。
(いやぁぁぁ。――助けて……誰か、お願いッ、助けて!)
叫んでも、誰も来てはくれない。
巨大な眼が、あたしを壁際に追い詰める。
白い天井の淵から、ドロリとした赤い液体が湧き出てきた。這うように壁を伝い、白い表面を赤く染めながら落ちてくる。
――――どんどん……どんどん落ちてくる!
赤い液体は床に到達すると、あたしの足に絡みつく。そしてあたしを拘束しながら、部屋いっぱいに満ちていく。
(……ぁぁぁ……、いやぁぁ……)
どれだけ叫んでも、声にならない。
あたしの悲鳴は、誰にも聞こえない。
狂った巨大な眼だけが、あたしをあざ笑う。
液体は、あっという間にあたしの胸元まで量を増していた。水よりも粘度の高い、不快な液体をかき分け逃げ道を探すけど、足がもつれバランスを失う。
(おっ、溺れちゃうッ!!)
(――――死ンジャッタラ、バカミタイネ、アタシ……)
(し、死にたくなんか、ないよぉ……!)
意識が、白い靄の中に溶けていく。
2022/02/05 加筆・改稿により章を別けました。