3. 隅の老人 その① ☆
あたしのバイト先は、カヌレ総合大学の正門からワンブロック先にある、にぎやかなメインストリートに面した老舗のカフェ。
ロクム・シティで『カフェ・ファーブルトン』と云えば知らない人はいないという有名店で、待ち合わせの名所でもある。
上品な内装と、落ち着いた雰囲気。立ち飲みができるカウンター席に、店内15席とテラス10席。広すぎず、かといって窮屈でもない広さの店内。
接客係がロボットやアンドロイドでないのも、人気の秘密。お客さまを、あたしたち生身の人間の接客係が接待するのが、最近の流行りで、精神的贅沢が味わえる――んだそうな。
大学からは目と鼻の先だから、教授たちをはじめ大学関係者の方々も贔屓にしてくれる。
学生たちも利用しないって訳じゃないけど、このお店を選ぶお客様はどちらかと云えば、年齢が少し高めの物静かな人たち。
さっきまでいたモッフルの森の開放的なカフェとは対照的に、大人が気ままな自分だけの時間を過ごすようなお店。
店内のBGMはジャズが流れ、ゆったりと時間の流れる、居心地の良いお店なのだ。
♡ ♡ ♡ ♡
――――なんだけどね。今日のあたしにとっては、ここさえかまびすしい。
なぜって、モッフルの森での一件がもうここにも届いていたから。
情報社会って、恐ろしい。目に見えない悪意の網が、すでにあちらこちらに張り巡らされていて、あたしはその網に絡め囚われていくのだ。
あたしが出勤するのを、同僚のニナ・レーゼンバーグとアマンダ・カシューが待ち構えていて、更衣室に入る前から質問攻めにあった。
ギャルソンヌ風の、白いブラウスに黒のジレとボックス型のひざ丈スカートというカヌレ大学の女子憧れの制服に着替える間も、お化粧を直す間も、ふたりの好奇心丸見えのなぐさめの言葉が降りそそぎ、あたしはまた泣きたくなってしまった。
フロアマネージャーからは大丈夫かと声を掛けられるし、店長は奥から顎鬚をさすりながら、不安そうな表情を隠さない。バリスタの視線も腫れ物を扱うよう。リックファンのウェイター、ジョン・グラムに至っては、あたしを避けている。
注文を取りに行けば、普段は来店しないような風体のカヌレ大生のお客で、わざわざ名前を確認してから、聞えよがしの悪口を言われた。リックの取り巻きの女の子たちらしい。
さすがに腹に据えかねたニナがテーブル担当を変わってくれたけど、ランチの忙しい時間に仕事を投げ出す訳にはいかない。必死で笑顔を作って、何とか注文をこなしていく。
忙しい方が良かった。
だって、他のこと、考えずに済むでしょ。目の前のことにだけ集中していればいいもの。
リックのことを考えずに済むもの。
そういえば、あれほどつらかった頭痛が少し和らいだ。その代り、心が痛くてたまらないけど……。
別れたいと言い出したのは、あたし。
そう願ったのも、あたし。リックは別れる気は無かった。
クリスタに手伝ってもらったけど、あたしは、リックとバイバイしたんだ……よね?
「おまたせしました」
奥まった隅の席に、ひとりでランチを取っていた白髭の男性客の前へ、食後のエスプレッソとデザートのチーズケーキを置いて、造り笑顔を浮かべたつもりだった。
「……どうしたのかな、お嬢さん」
その老人は静かにあたしに問い掛けた。
「えっ……」
思わず聞き返してしまう。
「それ、その涙だよ。なんで泣いている」
老人は眼鏡を持ち上げながら、ギロリと目だけこちらに向けた。
「……いえ、お客様。あたし…泣いてなんて…………」
そのあとは、もう、言葉にならなかった。ただ涙だけが、あたしの気持ちを代弁するように流れ続けていた。
老人はマネージャーを呼ぶと、しばらくあたしと話したいと言った。
ちょうどランチタイムの繁忙期も過ぎ、空席が目立ち始めていたし、なんといっても当のあたしがとても仕事を続行できる状態じゃないので、簡単にOKが出た。
老人が差し出してくれたハンカチで涙を拭きながら、向かい側の席に座る。しばらく涙は止まらなかったけれど、そのあいだ彼は黙ってエスプレッソを飲み、あたしの気持ちが落ち着くのを待っていてくれた。
「そろそろ、その涙の理由を聞いてもよろしいかな? 若くてきれいなお嬢さんが泣いているのは、よろしくない。話したくなければ、それでもかまわんが、少しでも心の内を吐き出せば楽になろう」
淡々とした口調で、老人は言った。
「――――あの、でも……」
「なに、わしのような人間でも、聞き役ぐらいは出来るだろうよ」
老人はぎこちなく笑顔を作った。
実はあたしは人見知りが激しい。
初対面の人となんて、話すどころか、顔を見るのも一苦労するほど、極度の人見知りなのだ。クリスタのように大勢の人の前に立つなんて、パフォーマンスするなんて、絶対無理。
だからそれを少しでも克服したくて、このバイトを始めたほどなのよ。
相手は何度かご来店いただいているお客様とはいえ、個人的に親しい訳でも無いし、こんな面と向かってなんて緊張しちゃう。
案の定、最初は顔を上げることさえできなかったけど、老人の薄い茶色の丸い目を見ていたら、なぜだか口を開いていた。
そして朝からの出来事を、ポツリポツリと語りだしていたの。
その白髪の老人を、あたしたちカフェ・ファーブルトンの従業員は、「隅の老人」と影で呼んでいた。
ここ1週間ほど、毎日ランチの時間になると店に訪れ、同じ席に座り、食事を済ませると、まるで眠っているかのように静かに時を過ごし、午後4時ごろになると帰って行く。
痩せた小柄の体躯、左足が少し不自由らしく、いつもステッキを突いている。広い額に、削げた頬、高い鷲鼻に乗る黒い丸縁眼鏡。肩くらいの長さの白髪を後ろで結わえ、まばらな口髭とあご髭を生やしている。
眉間にくっきりと深い縦じわが刻まれ、レンズの奥の金壺眼と、薄いゆがんだ唇が、老人の人相を気難しげな印象にしていた。
古いパナマ帽をかぶり、多少くたびれたスーツを着ているけど、みすぼらしいなどという雰囲気は無い。
かといって、「紳士」と呼ぶには多少違和感があるけど、独特の威圧感みたいなものを纏っているのよね。
いったいどういう素性の人なんだろう…と、ニナやアマンダと噂していた。
大学関係者という訳でも無さそうだし、観光客とも違う。仕事を引退して、第二の人生をこの街で過ごそうとしているというのが一番近いような気がするんだけど、それもなんだかしっくりこない。
確かなのは、午後3時になるとお代わりのエスプレッソを注文することくらいかな。
ともかく――毎日店の一番奥の席にひとり座る、正体不明のその老紳士を、いつの間にか「隅の老人」と呼ぶようになっていたの。
老人はエスプレッソのカップを受け皿に戻すと、しかめ面とあまり違わない笑みを浮かべたまま、あたしの顔を見た。
「――――それは、大変な目にあったな。ふん、それで自分の涙で溺れそうなほど、泣いていた訳だ」
「溺れて死んじゃったら、ばかみたいね。あたし……」
鼻を啜りながら、あたしは答える。紳士の前で、お行儀が悪いわね。
「死にはせんさ。…死んじゃ、いかん。死んだら、やり直すことも、次に進むこともできんからな。お嬢さんはまだ若いんだから、いくらでも道はあるだろうさ。
失礼、名前をまだ訊いていなかったな」
「あ、あたしはテス。本名はテリーザ・モーリン・ブロンって、ちょっと長いけど」
ふと、老人の眼光に鋭さが増したような気がした。
「ほおぉ、……テリーザ……モーリン……か。いやいや、かわいらしい名前で結構。お嬢さんに似合いの、良い名だよ」
「ありがとうございます。大好きなんです、この名前」
褒められたからじゃないけど、気分が少しだけ上を向いた。老人は、まだあたしの顔を見ていた。なにかを考えているような表情に、少し戸惑う。
「あの、お名前を……、お客様のお名前を伺っても、よろしいでしょうか?」
おずおずと問いかけると、老人はへの字に曲げていた口角を上向きにした。笑ったらしい。ともあれ、やさしい紳士を、いつまでも「隅の老人」なんて呼ぶのは失礼でしょ。
「わしの名は――――」
と、老人が言いかけたとき、グウゥとあたしのおなかが鳴った。
(ええぇーーーー、ウソっ!!)
真っ赤になって、あわてておなかを抑えるけど、もう取り消せない。しかも、その音はしっかり老人に聴こえたみたい。
「テス。チーズケーキは好きかな?」
老人はまだ手を付けていなかったデザートを、あたしに差し出した。さっきあたしが運んだ、カフェ・ファーブルトンの人気スイーツだ。
少し焦げ目の付いた黄金色のしっとりとした滑らかな生地が口の中でフワッととろけ、それでいてどっしりとしたチーズの後味が残る、ベイクド・チーズケーキ。
「いいえ、そんな……」
そう言いつつ、目はケーキにくぎ付けになっている。口内に、唾液が溢れてくる。
考えてみれば、朝からロクに食べていない。朝食の時は頭が痛かったし、そのあとはあの騒ぎだし……。
そう思ったとたん、またおなかが空腹を主張した。
実に、盛大に。
まさか今の音が聞こえた訳ではないでしょうけど、柱の向こうからこちらを見ているマネージャーの視線を気にしつつも、あたしはチーズケーキを受け取らざるを得なくなっていた。
……でも、よ。
従業員が、一応就業中(……よね?)に、いくら進められたとしても、お客様の注文したものを食すのって、許されないわよね。
あたしは無理やり唾液を飲み込んだ。
こういう時は、なにか別のことを考えて、空腹を紛らわさなくちゃ。
「あ、あの、……そうだ。お客様は、毎日お越しいただいておりますが、……えっと、ありがとうございます。その……」
グウウウ……。
まるで怪獣の唸り声のような、それでいて悲壮感まで感じちゃうような腹の虫の悲鳴。
今度の失態は、しっかりマネージャーの耳にも聞こえたらしい。何とも言えない表情で、首を縦に振っていた。
(食べても、いいってこと?)
ほかの従業員に見えないように、左手をささっと払う。
(早くしろ、って?)
顔をしかめて、頷いている。
(見つからないようにしろ……、かな?)
空腹には、勝てない。
「……い、いただき……ます」
恐縮しつつ、フォークを手に取る。一口食べたチーズケーキは、甘く優しく溶けて、「今まで食べたケーキの中で一番美味しい!」を更新した。顔中に「シアワセ」の笑みが拡がっていくのを止められない。
「正直で素直は、あんたの美徳だよ。食べながらで構わん。少し昔話に付き合ってくれんか、テス」
口にケーキを頬張っていたあたしは、大きく頷く。
「わしは、人を待っているのだよ。来てくれるかどうかはわからんが、ね」
老人は、乾いた声で話し始めた。