13. あたしはあたし あなたはあなた その⑤
急に落ち着きを失った――そればかりかテスの身体を投げ出し逃げるという行為に走ったリックに、クリスタが非難の声を飛ばす。
「ちょっと、なにやってんだい! ちゃんとテスを抑えていてくれなきゃダメじゃないか。――ええっ、なんだい。なに怖気づいた表情してるのさ」
顔を上げたクリスタが、顔面蒼白な彼の様子に疑問を持った。だが当のリックはパニック状態で、説明しようにも言葉が出てこない。大男が壁に背を付け、捕まった虫のようにジタバタしているのが滑稽に見えたくらいだ。
「あら、聴こえたのね」
「聞こえたって、なにがだい?」
アマンダは渾身の力を込めて、小さなテスの身体を押さえつけていた。顔を伏せたまま首を左右に大きく振った。乱れた髪が激しく揺れ、顔を覆うのも構わないようだ。
「クリスタには、聴こえないんだ。そうか、そうよね……。別れた恋人に不満をぶつける方が先なん……だアァ……」
「はぁあ? ……なに、言ってんだい?」
アマンダが引き攣った笑い声を漏らす。その笑い声の不自然さに、さしものクリスタも少しばかり身を引き、隣の女から距離を取った。
(これは、本当にアマンダなのかい? あたしの知っているアマンダ・カシューは、こんなカンジじゃ……)
呆然と眺めていたが、ふと女の手元に視線が止まる。
笑うほどに、その女の指は、取り抑えている親友の身体に食い込んでいく。震える指先は奇妙なことにそれ自体が蠕動しているかに見え、あまつさえ爪の先に貪欲な口腔がぽっかりと開き、柔らかい皮膚に吸い付き、食い破り、しゅるしゅると音を立てテスの体内に侵食していくという幻覚に捕らわれた。
(なっ、なんだい。いまのおぞましい妄想は!)
思わずのけぞり、たじろいでいた。身体が細長く、蠕動により移動する芋虫が苦手なクリスタの背中に悪寒が走る。
それが相手の仕掛けた心理攻撃だとは、名探偵の思考もまだ及ばない。ながらも、即座に大嫌いな芋虫の画像は切って捨てていた。
「ちょいと、おまえさん。力の加減ってものを知らないのかい!」
クリスタは果敢にもアマンダの指を引き剥がそうと手を伸ばす。硬くなった彼女の手首に飛びつき、力いっぱい引っ張るのだがびくともしない。
「なにやってんだい。お放しったら!」
どうにも止めようとしないアマンダに業を煮やしたクリスタは、体当たりをして、彼女の身体ごと弾き飛ばそうとした。
しかし彼女の身体はびくともしない。体格はクリスタの方が断然良いのだし、相手の身体を持ち上げるように、自身の体重を乗せながら胴で当たっていった――にもかかわらず、だ。
必死のクリスタは、再度試みる。
「グワァ!」
獣じみた声を出し、女の右腕がクリスタを払い除けた。大きく振り動かされた右腕を、クリスタはひょいと身を引きやりすごす。その拍子に開いた相手の懐につかさず飛び込むと、無防備になったわき腹に肘をぶつけ、勢いそのままに後ろに押し倒す。
悲鳴と共に、ようやく女の手がテスの身体から離れた。
「なにをしたのさッ!」
鋭い声がアマンダを問い詰める。起き上がろうとする身体の上に追いかぶさり、いま一度床に抑えつけると、褐色の長い右腕を相手の首に巻きつけ抱え込んだ。
驚いた女はまだ自由の利く右手を動かし、圧し掛かる圧から逃れようと抵抗を試みる。だがクリスタは決して絡めた腕を離さなかったし、めくらめっぽうに振り回される彼女の右手を捕まえると、引き寄せて自身の左脇に挟んで反撃を止めてしまう。
相手の右脇に素早く腰を密着させれば、上体を抑え込む形になる。
さらに胸を反るようにして敷いた身体に乗り上げ、内臓を圧迫し、完全に動きを封じようとしていた。
肺を抑えられた女は、苦しさに大人しくなった。
だが次の瞬間、クリスタの身体が床から数センチ浮かび上がる。急に重力を感じなくなったことに驚いていると、なにがどうなったのか理解する間もなく、長身は回廊を区切る洞門のあたりまで投げ飛ばされていた。
「邪魔ヲ……スル……ナ……」
「なに言ってんだい!」
アマンダの声が歪んでいく。離れていても耳に届く荒い息づかいは、腹を空かせた肉食獣だ。若い女の声とは、似ても似つかない。
石の床にたたきつけられた痛みをこらえ、クリスタが立ち上がる。やられっぱなしは、性に合わないのだ。
「今の……、念動力ってシロモノだろ?」
女が顔の筋肉を動かした。そうだということだろう。
「へえぇ。あたしゃ、はじめてお目にかかったんでね。驚いちまったよ」
未知なるものへの恐怖心が無い訳ではないが、急速に活発化したアドレナリンがそれを凌駕していた。ついさっきまで、面と向かって向き合うことに不安を感じていた超常能力だが、目の当たりにしてしまうと意外に冷静に対処できる。
というより、急速に盛り上がった怒りの感情を冷却するために、恐怖心を中和剤にしているのかもしれないとクリスタは思った。
(……まあ、どっちでもいいさ。とにかく早くこの状況をなんとか抜け出さないと、ヤバいさね。どう算段を付けたものか……)
今度は焦りが湧いてくる。頭の中ではテスを救いたくてジタバタしているのに、足が思うように動かない。
感情のバランスが取れず、身体の機能を司る神経がパニックを起こしているせいなのだろうか。重くのしかかる空気が、アマンダの顔をしたあの女の負の能力なのだと、名探偵はようやく理解し始めた。息苦しさに、目がかすみだす。
目の前で女が嫌な笑い声を漏らしていた。
「オ……マエ……ニ……ハ、アタシ……ヲ排除……デキ……ナイ……。オマ……エ……ニ……ハ……」
耳障りの悪い音の羅列はアマンダの唇から発せられるのだが、本当に別の代物が、彼女の声帯を借りて喋っているとしか考えられなくなってきた。
絶対に、アマンダ・カシューとは別の人格だと思った。クリスタは非能力者だが、それは間違いないと確信があった。
どんどん重くなる空気に、クリスタは膝をつきそうだった。
「もう一回訊くよ。あんたは何者だい」
目の前の女が、口を開いた。
そこから不明瞭な音が漏れる前に――――。
「ヒッ!」
雷に打たれたようにビクリと身体を震わせ、リックが切羽詰まった声を上げた。その声に驚いたクリスタが、大きな深緑の瞳をことさら大きくし彼に視線を向ける。
「なんだい。情けない声出してさ!」
リックがこちらを指さしている。しかし震える腕が大きく上下するので、どこを指し示そうとしているのか今ひとつはっきりしない。
「だから、なんだってんだ……い…………」
我慢しきれず大声を出したクリスタの言葉尻が、あやふやになってしまった。床に横たわっていたテスの上半身が、跳ねるように起き上がったからだ。
「――テス! 気が付いたのかい!」
クリスタがうれしそうに破顔した。が、次の言葉は出てこない。
長座した小さな身体は、ゆるゆると浮き上がっていった。力なく下げられていた腕と投げ出されていた脚がぶらんと揺れて垂れ下がる。下手な傀儡まわしでももう少し上手く操るだろうというくらいぎこちない動きだ。
瞼は閉じられたまま、小さな唇は半開き。糸の切れた操り人形は、床から数センチ浮き上がった状態で青白い光を放ち始めた。
垂れていた頭がぴょこんと持ちあがり、血の気の無い顔がリックの行方を追う。身体はクリスタたちの方向を向いたまま、首だけが不自然なほど後ろへと捩じられる。
眠っているような恋人の顔も、今の状態では恐怖感を増すだけでしかなく、リックはそれを震えながら見ているしかなかった。
重そうな瞼が開く。
開かれたライトブルーの瞳の奥から、見知らぬ恋人が彼に向かってニタリと嗤う…………。
まじまじとそれを見てしまったリックは、絶叫を上げていた。
191センチの長身を誇る無敵の美人モデル、クリスタの苦手は、蠕動運動で移動する芋虫。わたしも得意ではありません。
こんな小さな設定を考えるのも楽しいものです。
ようやくテスが目を覚ましたようですが、この展開は波乱を呼びそう……!?