13. あたしはあたし あなたはあなた その② ☆
(……てすぅぅぅ……)
あたしを呼ぶ声。
低くて、かすれていて、押しつぶされた声が、さっきからあたしを呼んでいる。
この頃、ときどき聴こえるの。
あたしの中に響く声。身体の暗い底から、あたしを呼ぶのは誰?
呼んでいるのが誰なのかはわからない。けれど、あたしになにかを要求しているんだってことは薄々感じてしまったの。
黒く蠢くモノが這い出ようとしている。「ここから出せ」って言っている。
――そんな気がする。
あれ、「ここ」って……、どこ? なんのこと?
(……てぇぇぇ……すぅぅぅ……)
ほら、また! また、呼んでる。
だめよ、あの呼びかけに答えちゃいけないの。だって、よくわかんないけれど怖いんだもん。あの声が聴こえると、身体中の毛穴がギュッと縮まって、髪の毛の先まで凍りついてしまいそうになるんだから!
ああん、どうしよう。どんどん迫ってくる。
逃げなきゃ!
でもあたしの身体は、その声の待つ暗くて寒いところに堕ちていこうとしているの。その声に導かれ、ゆっくりと、逆らうことも出来ずに。
(助けて……どうすればいいの……あたし、イヤよ。こんなの……)
(……てぇぇすぅ……てぇすぅ……てすぅぅぅ……)
手招きしているわ。ほら、おいで、おいでって――。
手も足も力が入らない。あたし、逃げなきゃいけないのに!
抵抗も出来ずに、深い深い穴の中へ落下していくだけなんて。
これじゃ、あいつの思いどおりになっちゃうでしょ!
だんだん感覚がマヒしてきたわ。
恐怖と不安があたしを支配する――――!
(助けてぇぇぇぇ…………)
ふえ~ん。悲鳴さえも闇に吸い込まれていくのね。
――は……ぁん……。
どのくらい堕ちたのかしら? もう考えるもの億劫になっちゃった。惰性に身をゆだねる心地よさに酔い始めてきたみたい。
あん、なんだろう――逆らうことをやめたら身体が軽くなって、フワっと気持ちも浮き立って!
うふふ……。楽しくなってきちゃった。
あ、影が嗤った。
冷たい手をしたあいつが、あたしを捕まえようとしている……。
(……コッチヘ……オイ……デ…………てす…………)
イラスト:押根こむる様
♢ ♢ ♢ ♢
(そんな面倒臭いことをしようなんて思うのは、おまえさんに特別な感情を抱いている輩だけだと思わんか!)
クリスタは頭を抱えたかった。自分で言ったことだ。
(そうさ、特別な感情!)
(嫉妬!――アマンダが、リックに恋愛感情を持っていたなんて知らなかったよ!)
交流が乏しいから、彼女がアマンダの心情を知らなかったとしても仕方がないことだ。けれどもそれが親友に関わること、それも悪影響があるとなると、がぜん自責の念を感じてしまうクリスタだ。
(馬鹿だね、あたしは!)
(なんで、思い当たらなかったんだろう)
クリスタは唇を噛んだ。名探偵気取りで、親友の行方と恋の破局の真相を探っていた自分に嫌気が差してきた。得意になって鼻高々に推測を並べていたことが、恥ずかしくなってきた。
風船が萎むように、身体から鋭気が抜けていく感覚に襲われる。
だが、いつまでも失敗につまづいている彼女ではない。くじけかけた気持ちに活を入れると、さっそく推理の軌道修正を始めた。
(もし……アマンダ・カシューが、テスを苦しめている犯人だったとして――だったとして……)
その犯人かもしれない女が、彼女のとなりで、苦しむテスの介抱を手伝っていた。暴れる親友の身体をいっしょに抑えている。
納得できない現状に不満いっぱいのクリスタの鼻にはシワが寄る。
(あ~~~~! なんでこうなるのさッ!!)
釈然としない気持ちと葛藤中で気忙しい彼女だが、はたと奇妙なことに気が付いた。
アマンダが肩で息をしている。大きく上下させ、上半身が揺れている。耳に届く荒い息づかいにただならぬ空気を感じ、ちらりと横に視線を走らせてみると――。
クリスタは息を吞んだ。アマンダの姿は間違いなく異様だと、脳髄が警戒信号を鳴らしてきたのだ。
青白い額には、くっきりと毛細血管が浮き出ている。友人の身体を抑える手は震えが止まらず、小刻みに動き続けている。
開かれた瞳孔からは、レーザー光線でも出ていそうな雰囲気だ。
顔を上げたリックが、アマンダの顔を見てギョッとしている。鈍い男も、この表情には、さすがに異変を感じたらしい。落ち着かない目線と顎をしゃくる動作は合図のつもりか、クリスタに助けを求めてくる。
(頭を働かせろ……、冷静になれ……!)
クリスタは長く息を吐いた。離れ屋『緑光球』での会話、回廊で偶然出会ったニナから聞き出した話、これまで集めた情報をもう一度検討しなければならない。それも迅速に。
彼女は脳細胞をフル回転させようとしていた。
事件の前日、『カフェ・ファーブルトン』の裏口で立ち話をしていたメンバーの中にアマンダもいた。
メリルの証言では、プロポーズという言葉が独り歩きし始めるきっかけとなった即席女子会のあけすけな痴話話の輪に、途中から加わったのではなかったか。
確か、ニナがからかい半分に話を盛り上げ囃し立て、リックの言葉を強引に「プロポーズ」に仕立て上げたあたりからだ、と記憶している。
(もうひとり、勘違いをしていらっしゃる方がおいでですわ)
あの時、メリルの語った「もうひとり」とは、ニナのことを指していた。彼女がそう言い出したから、調子に乗って自分もそう思い込んでしまったのだ、とお嬢様は反省していた。
はたして、そうなのだろうか――?
(いいや。あのなりゆきで「プロポーズ」って言葉を勘違いするのは、ニナじゃない。アマンダの方だよ――!)
頭の中でバラバラだったパズルのピースが、ようやく形を成そうとしている。
クリスタは気勢を取り戻した。
テスの終業時間に合わせ、リックが『カフェ・ファーブルトン』まで彼女を迎えに行くことは、クリスタも知っていた。そのことをうれしそうに語った親友に、「よく続くねぇ」と彼女も冷かした覚えがある。
当然バイト先でもふたりは公認の仲で、「お迎え」の光景は「いつものこと」だった。彼氏と仲良く手をつないで帰るテスの姿を、カフェの従業員たちは何度も目撃していると、ニナも証言している。
だがいくら相思相愛とは、いえ毎日のように見せつけられては、ニナでなくても、少しばかり意地悪をしてやりたい気持ちに駆られることもあるだろう。
テスが慌てて困った顔でもすれば、溜飲が下がる。能天気カップルを焚き付けてやろう。プロポーズが事実であろうとなかろうと、話のネタになるのならばそれでよい。
ニナの感覚では「ちょっとした悪ふざけ」程度のことで、場を盛り上げる冗談としか思っていなかった。
ところがリックに片恋中――しかも少々思い詰めて考え方が歪み始めたアマンダにしてみれば、それは冗談には聴こえなかった……かもしれないとクリスタは考えてみる。
日頃から仲の良いニナでさえ、アマンダの想い人は知らないと言った。
『カフェ・ファーブルトン』の給仕係3人娘で恋バナ談義に花が咲いても、アマンダは自分の恋は語りたがらない。「実らない片思い」に悩んでいる様子だが、誰にも明かさない想いだけに、かなり思い詰めていたのかもしれない――というのがニナの見解だった。
(ホントに思考が歪んでるかどうかはわからんが、嫉妬は「狂う」からな)
(さっきからアマンダが睨み付けているのはテスだ。恨みの対象が振り向いてくれないリックじゃなくて、テスになっているくらいだから、こりゃ、ちょっとヤバい方向に走っていると考えるべきだよなぁ)
この手の感情が、実に厄介で扱いにくいことは、クリスタもよく知っている。下手に口出しをしようものなら、嫉妬の炎はますます燃え上がるからだ。
炎は感情を煽り、現実を歪めて見せてしまう。恋愛や仕事の場において、クリスタも何度かそんな事例を見てきた。
途中から、しかも「プロポーズ」の言葉あたりから話の輪に加わったアマンダは、早合点をして、冗談を事実と受け取ったのではないだろうか。たいそう驚いていたと、ニナとメリルの証言が一致している。
そう、あの場には偶然メリルが居合わせていた。ニナもメリルもよく舌が回る。大好物の恋愛話。さぞかし盛り上がったことだろう。
しかも内気なテスは勢いに押され、はっきり「違う」と否定していない。もじもじと困っているポーズを恥じらいと取り違えたとしたら。
ふたりの結婚は間近と、誤解を重ねたかもしれないのだ。
(それを邪魔しようとする……って……さぁ……)
(……そんな権利、誰にあるってンだいッ!!)
(筋違いの嫉妬にもほどがあるってことくらい、わかんないのかい!!)
アマンダがリックに恋愛感情を抱いていたとして――。
それが叶わない恋だと承知していても、あきらめきれなかった――とする。
そして、なんらかの方法でテスの感情をコントロールする術を持ち合わせていたのなら――。
「横恋慕」と云うキーワードで、プロポーズ騒動の筋書きが見えてくる。そこに「誤解」と「未練」と「嫉妬」がブレンドされて……。
ただしこれが事実なら、他人の感情をコントロールする前に、自分の感情を整理してくれとクリスタは怒鳴りつけたくなった。
(ボックのトラップとテスの誘拐を切り離して考えれば、こっちはありがちな三角関係のこじれということでスジが通ってくる。けどさぁ……)
(なんでアマンダの嫉妬心がここまで暴走したのか、いまひとつ腑に落ちないよ)
(ニナのアカウントを不正利用して騒ぎを大きくしたのも、アマンダなのかい?)
(尋常じゃないよ……)
秋の夜風ではない、うすら寒いものを感じた。
(糸はまだこじれているんだ)
(ええい! まず、解くのさ。わかるところから一本づつ!)
いつになく慎重に思考の道筋を進めていくクリスタだった。
アマンダのリックに対する恋愛感情の方は間違いないだろう。では、もうひとつの問題はどうだろうか。クリスタが次の思案に入ろうとしていると、小声で自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
リックだ。
テスとアマンダにどう対処していいのか不安だらけの彼は、落ち着きを失って助けを求めてくる。
クリスタは「もう少し考えさせてくれ!」と小さく首を振ってみせた。意味が通じたのか否か。彼はまだなにか言いたそう合図を送って来るが、結論を急ぐ探偵はしばらく無視を決め込むことにした。
(……マインドコントロールを利用したのではないのでしょうか……)
(そうそう。メリルが言い出したんだよ。それであたしが、最近ロクム・シティを騒がしている事件を引き合いに出して、能力者の存在を疑い出して……)
突拍子もないハナシといえばそうだが、全く可能性が無いともいえない。そういった事件が多発しているという特集が、朝のニュース番組で取り上げられていた。
突然の覚醒に有頂天になり、むやみに能力を乱用する見識の足りない未熟な能力者が社会の平和を乱している。自分が特別な人間だと云う誇大妄想の果てに、社会生活に不満を持ち、歪んだ確信に溺れ事件を引き起こす。
(……とかなんとか、偏見まがいのことを言っていたような。このニュースの途中でテスがリックと別れたいとか言い出して解説を最後まで聞いちゃいないんだ。こんなことなら……って、ああ、ヘンなところで、また事件がつながったよ!)
クリスタは、テスの顔をじっと見つめた。不安でいっぱいになった瞳で、相談を持ち掛けて来た親友。目の下にクマまで作って、随分と悩んでいたらしい様子に、つい手を貸してあげたくなって――。
(ん……? テスは、いつから悩んでいたんだっけ? 相談を受ける前日……あたしとリックが、テスと顔を合わせなかった空白の1日。プロポーズ事件発生の翌日だよな)
(その日に何があった? その日は講義とバイトがあって……バイト……バイトがあったってことは!!)
クリスタは大きな深緑色の瞳を瞬いて、隣にいるアマンダの顔色を伺ってみた。
彼女にしてみれば、超常能力とは未知のものだ。説明を聞いても、今ひとつピンとこない。いや説明を聞くほど、都合の良いおとぎ話に近いものに聞こえる。
自身も「非能力者」であるし、これまで身近にそういった人物の存在がなかったから、どうにも理解しがたいという思いもある。偏見は狭量だと思うが、突き付けられたときに素直に受け入れられるのかと云えば、そこは自信がない。
その上ニュースで見聞きする超常能力保持者の話題は、いいことばかりでない。というより、悪いことの方が多く伝わって来るではないか。
今だってこんなことに超常能力とかいう特殊な技能を使っていいのだろうかという疑問と、理解しきれない能力に対する恐ろしさに似た反発が、同時に心の中に沸き立っている。
それ以前に、アマンダが『能力者』であるのかどうかさえ判断の付けようがないのだ。
背中に汗が流れた。その冷たさにゾクリとする。
(どう切り出したものか……あたしの推理は当たっているんだろうか?)
クリスタがそんなことを考えていた時だった。
「歪んでいるとか、見識が無いとか……。ずいぶん酷いこと考えているのね、クリスタ」
となりから冷たい声が聞こえてきた。
♡ ♡ ♡ ♡
だんだん意識が薄れていく。あの声を聴いていると、意識が融けてしまうというか、ホワ~っとまどろんできちゃうというか。
(……てす……てす……てす……)
あれほど不気味だった声が、なんだか懐かしく聞こえてきて――。
……って。
やぁね、そんなはず……あるわけ……ない。
――ないわよ。そう、……ない……わよねぇ……。
(…………えっ!?)
ああ~~~~んっ!
あたし、この声、もしかしてもしかしたら――聞き覚えがあるかも……!?
ご来訪、ありがとうございます。
今回は名探偵クリスタの推理ロジックのお話。
孤軍奮戦、頑張っています。
それよりテスの方が危なさそう。このまま「あいつ」に引き込まれちゃうのでしょうか?
2022/4/24 挿し絵を追加しました。
押根こむる様、ありがとうございます。