12. ノイズとステップ その⑦ ☆
※残虐なシーンがお嫌いな方、ご注意を!
黒い影はゆらゆらと揺れていた。
人形を取ったかと思うと、輪郭が崩れどろりと溶け出して、アメーバみたいに変形自在にみるみる姿を変えていく。同時にあたしの脳内は雑音が溢れ、頭蓋骨が歪むんじゃないかって心配しちゃうくらい強烈な痛みに縛られているの。
サイ攻撃によって与えられる身体の痛みだって、エスカレートしていく一方だわ!
突然、皮膚に鋭利な刃物による殺傷みたいな感覚を味わったかと思うと、そこから勢いよく血が噴き出るという幻覚が、あたしの心を怯えさせている。
血の赤い色が視覚いっぱいに広がって、くらくらと目が回る。動悸が激しくなって、それに合わせるように傷口がうずき、痛みが倍増して……。
視線を落とせば、いつの間にか身体は血で赤く染まっていた。重たくて、ぬるぬるとした感触に全身を覆われてしまったわ。
両手には溢れる赤い液体。――これって、あたしの血!?
錆びた鉄のような臭いが鼻腔を刺激して、吐き気がする。
床に広がる赤い溜まり。たぷんと揺れて、飛沫があたしの顔に跳ね返る。
わかっている! これは全部、ニセの情報。あたしの脳に与えられたウソなのよ。
だけど、この偽似的痛みは、あたしの判断を狂わせるには充分だわ。
(痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い…………)
自分の思いとは無関係に脳内で連呼される言葉! 麻痺したあたしの神経は、難なくこの言葉に踊らされてしまう。
痛みにのたうちながらクリスタとリックに助けを求めるけど、ふたりはおろおろするばかりで、手を差し伸べることさえ忘れているの!
♢ ♢ ♢ ♢
クリスタは深緑の瞳を大きく見開いたまま、茫然と親友の悶絶躄地のありさまを見ていた。彼女が知っているテリーザ・モーリン・ブロンと云う少女ではなく、野生の獣が断末魔の苦しみを味わっているかの様子に、つかの間腰が引けたのである。
涙と涎を流し、細く長く尾を引く悲鳴を繰り返す。両手で頭を抱え揺さぶったかと思えば、身体のあちこちを抑え、さすり、痙攣をおこす。
床を這い、転がり、なにかを訴えるテスは、幼馴染のふわふわとした砂糖菓子みたいな少女とは似ても似つかない。爛々と光る眼は、いつものやさしいライトブルーではなく、狂気の色が渦巻いていた。
(どういうことなんだい……)
視線を合わせてはいけない。とっさにクリスタはそう思った。目が合ってしまえば、あの危険な渦の餌食にされてしまう。
渦の中心には、餓えて凶暴な「なにか」が宿っていると脳裏に危険信号が点ったからだ。
(どうなっているのさ!)
(まるで…………)
思い浮かんだ単語を、慌てて否定し、飲み込んだ。そしていつもの勇敢な彼女に戻ると、テスに駆け寄り、暴れる親友の身体を抱えた。
「どうしたんだい! テス、テス! しっかりおし!」
腕の中でもがき続ける親友を強く抱き、クリスタは呼びかけ続けた。だが、テスは普段とはけた違いの強い力で、彼女の腕を押しのけようとする。
「あたしだよ、わかんないのかい。おまえさんの親友のクリスタだってば! ああ、もう、リック手伝っておくれ。あたしひとりの力じゃ抑えきれないよ!
おい、リック。聞いてんのかい!? リック・オレイン!!」
あらんかぎりの力で逃れようとしているテスをどうにか抱え込みながら、クリスタは後ろを振り返り、リックに協力を頼もうと声を掛けた。いや、この場合、テスはリックのステディなのだから、彼の方が先に駆け寄ってしかるべきではないかと、腹の虫が文句を言い始めていた。
「おい、リック!! なにしてんだいッ」
声を荒げ、友人を叱りつける。しかし彼の足は硬直したまま、動けずにいた。視線を漂わせたまま茫然としている。
「リック!」
鋭い声で名を呼ばれると、弾かれたような表情で、彼はクリスタの顔を見た。
「……あ、ああ、悪い。ちょっと……」
うわずった声を出すのが、精一杯の様子だ。
「突っ立ってないで、手伝うんだよ」
彼は頷くと、ぎこちない動きで1歩目を踏み出したが、2歩目からはいつものリック・オレインに戻っていた。ダッシュで彼女たちの元に駆け寄る。
「すまねぇ。なんか……俺……」
蒼白な顔してなんてザマだい!――と、頭ごなしに怒鳴りつけたくなる気持ちを引っ込めると、クリスタは意外と小心な男友達の顔を睨んでいた。
「ああ。謝るんなら、あたしじゃない。テスにしておくれ」
クリスタは、まだ興奮状態で手の付けられないテスの身体をリックに引き渡した。受け取ろうとしたリックの顔に、偶然、暴れるテスの右手が当たる。
バチンと云う音がして、それは思いのほか痛烈だったらしい。リックの顔が、泣きそうに歪んでいた。
「そうだよな。悪かったな、テス。俺……」
腕の中のテスを恐々見つめるリックだが、さっきまでの怖気づいた態度ではなく、恋人の豹変に対する不安に苛まれているのだとクリスタは感じた。気持ちは十分理解できるのだが、ここで彼女まで同調するわけにはいかない。
「テスが暴れないように、しっかり押さえてんだよ!」
上半身はリックに任せたので、クリスタは脚を両手で抱え込む。チャイナドレスのスリットが深いので、これ以上足掻いたら、あられもないことになるだろう。
テスのことだから、ステディとはいえ、リックに恥ずかしい姿を見られるのは嫌がるに違いない。
いや、別れさせたのだから、元カレか。それも自分が手を貸したんだぞと、クリスタの心に複雑な思いが湧き出した時――。
「ああ、ここにいたのね」
後ろから、意外な人物の声がした。
♡ ♡ ♡ ♡
あたしは真っ白な箱の中にいた。
正確には部屋なんだろうけど、ドアも無く、上下四方を白い壁に囲まれた正方形の部屋は、あたしを閉じ込める箱であり、檻なのかもしれない。
(――また、だわ……)
ああん、ここへ来るのは、何度目だろう。閉じ込められては、抜け出す。抜け出しても、また閉じ込められる。その度、怖い思いをしなくちゃいけない。
あれ――! でもあの雑音と痛みからは解放されている!
どうしてだろう?
そっと身体を触り確認してみる。痛みも、傷も消えてる。血で汚れた身体も衣服も、もとに戻っている。
どういうこと?
(別ダカラ、サ……)
……そう――えっ!――なに!?――なにが? なにが別なの?
待ってよ! 今の声、だれ?
声は唐突に消えてしまった。
その代り聞こえてきたのは、コチコチコチ……と云う時を刻む針の音。
あたしは身構えた。空中に文字盤が浮かび上がる。追い掛けて来る長針。そして天井と壁の隙間から流れ落ちて来る、赤い液体。
ほら、いっしょの光景が繰り返し……。
たぷん、とぷん、たぷん……、赤い液体の揺れる音。
粘り家の強い液体は、ゆっくりとあたしの方へと流れて来る。ビーズの飾りのついたかわいいフラットシューズは、あっという間に赤い海に沈んでしまった。
ドアはどこ? どこかにドアがあるハズよ。あたしはきょろきょろと首を巡らし、小さなドアを探した。ほら、ドアが開けば救いの手が伸びて来るわ。その手に引っ張られて、あの不思議な風景の中へ導かれるの……。
ひらひら舞う花びらと、あの……、あのひとが……。
あのひとがいて……。
(ハラハラ、ヒラヒラ……)
――って……。え!? あれ、今回は、あのヴァージョンじゃないの?
期待していた、あたし。焦る!!
♡ ♡ ♡ ♡
とにかく……いや、とにかくじゃない。今回はあたしが脱出口を探さなきゃいけないのね。急いであちこち目を向けて、なにかないかと探してみる。
やった! ドアを発見!!
でも鍵がかかっている。あ、鍵穴がある! 鍵穴はあるけど……あるけど――。
ええーっ、カギはどこ?
どんどん水かさは増していくわ。急がなきゃ。ドアを叩いてみたけれど、向こう側から応答も無ければ、うっかり鍵が外れてくれるという幸運も無いみたい。
まさか解除方法は事前登録の認証式とか言わないでしょうね。
いや、ありえるかも!
ひぇぇぇ……ん!!
ああん、こういう時って、お話だと都合よくカギが目の前に現れたりするものよ!
(カギ~~~~!!)
無駄かもしれないけど、ご都合主義に期待するなと思いつつ、あたしは頭の中で、思いのたけのありったけを込めて叫んでいた。
なんてったって、あきらめちゃダメよ。
助け舟っていうのは、どこから現れるのかわからないんだから。
ただし、見つけたのは舟ではなくて、小さな小瓶だったけど――そう、赤い液体の海に、小瓶が浮いているのを見つけたの。
考えるより先に、すがる思いで手を伸ばしちゃう。
小瓶の中身は、なにかしら? 中を覗いてみたら、あら、カードにメッセージが書いてある。
『呪文を唱えよ』
――なにこれ!?
間違いじゃないかと、目を瞬いてから、もう一回よ~くカードを見てみたんだけど、やっぱり『呪文を唱えよ』って書いてある。
あたし、呪文なんて知らないわ!!
呪文を唱えるとドアが開くの? それこそおとぎ話じゃない。なに、それ……って言い出したのは、あたしだけど。
まって、もしかして声紋認証タイプの解除キーなのかしら。呪文と声紋が合えば解除とか。顔認識システムの併用ってのもアリよね。認証パスやコードは、いくつか組み合わせてあるのが普通だし。
ええい。だっだらダメもとで、
「ひらけ……開け……えっと、え〜っと、アボカド――じゃない。オリーブ、ケッパー、胡椒、ウウン、違う。開けガーリック! これも違うの? やだ、ど忘れしちゃった!」
ああ〜ん、どうしよう!?
ドアは開かない……。このままドアが開かなかったら、どうなるの?
焦った途端、あたしは足を滑らせた。
「ひゃあ…ぁん!」
赤い液体の海にダイブしちゃうぅぅ!
イラスト:星元 雪解さま
さて、いよいよ「雑音」さんが現れたようですね。
その正体は!?
話変わって。
テスが呪文の言葉に悪戦苦闘していましたが、正解は「開け、ゴマ」。英語で言えば「Open sesame」。扉を開く有名な呪文です。
でも、思いませんでしたか。わたしは子供心に、不思議でなりませんでした。
どうして「ゴマ」なのか?――と。
諸説ありまして、出典元の「アリババと40人の盗賊」がお話としてかたち作られていた頃、ゴマは中近東では油を作るための重要な農産物として広く栽培され、財源でもあったこと。ゴマには不思議な力が宿っていると信じられていたこと。またゴマと云う植物が、成熟後乾燥させると種子の詰まったさく果がはじけて中から粒が飛び出してくることから、当時のパッと勢いよく開くことの慣用句だったという説も。(も少しオトナな答えもあります)
アラビア語では、「イフタフ(開け)、ヤー(呼びかけの間投詞)・シムシム(ごま)」と言うのだそうです。本当に岩の扉が開きそうでしょ。アラビア人の感性と茶目っ気に、脱帽です。
作者の希望としては、呪文の出典はマザーグースあたりからにしたかったのですが、扉を開ける呪文として浮かぶのは、やっぱり「開け、ゴマ」。もう少し勉強せねば!
え? だからなぜテスは呪文が唱えられなかったのか、ですか? それは呪文が……。(自粛!)
次回、「雑音」さん大活躍~。
2022/4/24 挿し絵を追加しました。
星元 雪解様、ありがとうございます。