12. ノイズとステップ その⑥
ディーの手を離れた札は、スピードを上げながらルォの鼻先をすり抜けようとしていた。瞬間、札の影が支配人の視界を奪う。
アダムがニヤリと破顔した。この一瞬を待っとったんやと、彼は腹筋背筋のバネの力と巧みな重心移動を遂行し、柔軟性にものをいわせて一気に起き上がった。
さらに札は急カーブを描いて今度はエミユの脇を通り、再びルォ支配人に襲い掛かる。その為、支配人はアダムに体勢を立て直す時間を与えてしまったのだが、
「ハァッ!」
鋭い掛け声とともに右手が目にも止まらぬ速さで動くと、二本の指が空飛ぶ札を捕えるという離れ業を披露した。
<ひょえぇ! ホンマのホンマに、この男なにもんなんや~~!>
それを目撃したアダムは、冷や汗を拭っていたのだった。
だが、札による攻撃は青年たちが仕掛けた陽動作戦の第一段階に過ぎない。
「アダム!」
エミユの銃口を逃れたディーは、壁際に移動していた。彼は手を伸ばし、シノワズリデザインのアンティークチェストの上に飾られていた銅製の工芸品を掴むと、相棒に向かってポイと投げたのである。
「まかしとき!」
放物線を描いてアダムの前に落ちて来たものは、高価そうな香炉だ。ところがアダムは香炉を受け止めるどころか、こともあろうに長い脚で空中高く蹴りあげたのである。
宙高く舞い上がった香炉は、最高到達点に達するとパカリとふたが外れ、中から香炉灰がこぼれ出した。さらさらとしたきめ細やかな灰は落下する前に、大気中に散乱していく。
アダムの念動力の仕業であった。
足元が、不自然に暖かくなったと感じたのは、ルォ支配人の方が先だった。空気が揺れ始める。
館内は空調設備が働いているとはいえ、不自然に発生した気流だとルォは感じた。そして吹き抜けの高い天井付近の空気は冷えており、散らばった灰が揺れている。
足元の空気が流れ始める。風だ。ルォは意識を研ぎ澄ませた。エミユも異常を感じているようだ。気配を読んでいる。緩やかに動き出した空気は、徐々に流れを速めていった。
風は彼らの足元をすり抜け、収束しようとしている。やがて床から天井に向かって、回転性の上昇気流が発生した。
散らばっていた香炉灰を吸収した渦巻き状の突風は、エミユとルォ支配人の髪を乱し、着衣の裾を音を立ててひるがえしていく。諜報員の青年は、塵旋風――つむじ風を作り出したらしい。
ふたりは、風に巻かれつぶてとなった灰から目を庇いつつ、成長を続ける塵旋風を凝視していた。
塵旋風は小型ながら回転力は強かった。
そして形成されるや否や、エミユたち3人に迫り来る。
強風はホール内の調度品や装飾品をガタガタと揺らすも、なるべく被害を最小限に抑えるよう、コントロールしているのだろう。机やチェストなど大型の家具を蹴散らすも、渦に巻き込むことは無かった。
その代り、ディスプレイされていたフラワーアレンジメントが呑み込まれた。香炉灰同様、回転する強風に吹き上げられ、襲ってくる花びらも厄介なものになった。
ルォは、ニナを抱えるエミユに駆け寄る。彼女から失神したニナの身体を受け取ると、軽々と横抱きにし、強風から庇うように自らが盾となりつつ塵旋風の威力から遠ざかって行く。
「小賢しいことをするのね」
渦巻く風に対峙したエミユが、ふわりと掌を突き出し、軽く目を細めた。
次の瞬間、塵旋風はふたつに分断されていた。
エミユが念動力を放出したのである。
あまりにも静かな攻撃は、事実を知らぬものが見れば「彼女が手を前方に伸ばした」としか認識されなかっただろうくらいの、自然な動きでしかなかった。
エミユ・ランバーは筋肉に負荷をかけることも、精神的な苦痛を伴うこともなく、強力な念動力を意のままに操ることが出来るらしい。
もしこれを超常能力の研究者エミール・ヨーネル医師が見ていたとしたら、おそらく声を無くしただろう。超常能力開発研究部部長ジェレミー・オーウェンならば、嬌声を上げた後、眉間にしわを寄せるだけ寄せて唸っていたかもしれない。
だがそれを見ていたのは『紅棗楼』支配人のルォだけで、あの表情の読めない笑顔を見せただけであったのだった。
威力を削がれた渦巻きは、それでもしばらく灰を撒き散らしていたが、やがて消えた。
そして、アダムとディーの姿も消えていたのである。
♤ ♤ ♤ ♤
完全に風が止むと、エミユは振り返り、ルォとニナの安全を確認した。
「進入を許してしまいました」
ふたりが消えた飾り格子の門の奥をルォは見つめる。その奥にはウェイティングルームがあり、さらに離れ屋へと続く回廊へと廊下は延びている。
「いいわ。私が追うから――。
それに彼らの目的はテスを取り戻すことであって、こちらに害をなすことではないわ。いたずらに事態を複雑にしようとは思わないはず」
「そうですか。あなたのおっしゃることですから信用いたします。支配人としては、店の信用と安全が確保されれば、他は目を瞑りましょう」
エミユが眉をひそめた。
「お客様の安全も忘れないで欲しいわね」
まだ店に残っている客の人数を、ルォに尋ねる。この日はロレンス一行の予約が入っていたため、一般の客の予約は控えめにしか受けてはいない。
「そうですね、あとお帰りになっていないお客様と云えば、『緑香球』にお通しした3名様でしょうか」
エミユは、急ぎ遠隔透視能力を使い、3名の安否を確認しようとした。ところが離れ屋『緑香球』にいたのは、ストロベリーブロンドの髪色をした若い女性ひとりである。
ルォ支配人が首を振った。
「いいえ、若い女性ふたりと男性ひとりの組み合わせでしたよ。ペタンクールのお嬢様とご友人でしたか。ご友人のひとりは有名モデルのクリスタ様で、もう一人は大学バスケの人気選手だとニナが言っていましたが……」
「そして、テスの友人でもあるのよ!」
それは奇遇ですねとルォは感心するが、エミユには悪い予感が走った。
さらに探索範囲を広げると、回廊を歩く長身の男女ともうひとり――彼女の前から忽然と消えたテスが一緒にいる。
『緑香球』に戻ろうとしているのだろうか。3人仲好く回廊を進むのはいいが、方向がおかしい。本人たちは全く気付いていないようだが、かの離れ屋とは反対方向に歩いている。
更に玄関ホールの攻防を突破したふたりの行方を探ると、回廊と庭の構造に面食らいながらも、テスに近づこうとしていた。
彼女の薄い唇が、少しだけ歪む。
エミユが遠隔透視能力を行使している間、ルォ支配人は玄関ホールの現状に肩を落としていた。大きな被害は無いとはいえ、急ぎメンテナンスを施さねば、明日の営業に差支えそうだったからだ。
ルォは塵旋風にひっくり返されたソファを足で器用に立て直すと、抱きかかえていたニナをその上に横たえた。意識はまだ戻っていない。エミユの報告に耳を傾けつつ、支配人は上着を脱ぐと、災難に巻き込まれた不運な従業員の身体に掛けてやった。
「迷っていらっしゃるやもしれませんね。お庭を見ながら回廊を巡るうちに、方向感覚が麻痺してお部屋に戻れなくなった、とおっしゃるお客様もよくおいでなのですよ。店の者も、新人の内は離れ屋に使いに出すと帰って来れなくなったりしますが、なぜでしょうね」
ルォはこともなげに言うが、エミユはさもありなんと思う。
『紅棗楼』のオーナーが、気の向くまま増築と造園を繰り返したので、園内はさながら迷路のようになってしまった。客の中にはそれを面白がる者もいる。
ルォ支配人も迷うことは無いので不便を感じていない様子だが、サービス向上と新人従業員のために、回廊内に行先案内プレートを設置することをオーナーに進言しようと彼女は真剣に考え始めていた。
それはそれで重要な問題であると思うのだが、今はそれどころではない。
「彼女たち、華鳳池の方向へ進んでいる――」
華鳳池は庭園内にある大きな池で、敷地の南側にある。回廊の端に位置し、八角形の楼閣がほとりに建っているが、母屋から最も離れた場所にあり、その周囲には客を通す離れ屋も無い。夜の闇に包まれた池の周囲は、外灯が設置されているとはいえ、虫の音ばかりが響く静かすぎる場所だった。
池が見えてくる頃には、あの2人組の青年たちも、先行するテスらに追い付くだろう。どうやってあの娘を取り戻すのかしら……と彼らの手腕を見物していたい誘惑にも駆られるのだが――――。
「ぅ……ん……」
エミユがこめかみを抑えた。
雑音が急激に音量を上げ、彼女の脳を圧迫する。
同時に、遠隔透視で様子を視ていたテスにも異常が発生していた。
どうやらもうひとりの招かれざる客が姿を現したらしい。
「歓迎はしないけど、来店したからには、もてなさなければならないのかしら」
大いに不満を漏らすエミユに、
「ご存分になさい」
にっこりと笑ったルォ支配人の顔は、やはり狐を思わせる。
彼女は玄関ホールの処置をルォに任せると、格子門をくぐり、華鳳池へと迷路のような回廊を走りだしていた。
物語もいよいよ大詰めか!?
雑音の発生源が、姿を現そうとしているようです。
次回はテスへと視点が戻ります。そして……。