10. マリアの眼 その④
有能な精神感応能力者は、距離や障害物に関係なく、第三者の思考や感情を読み取ることが出来る超感覚的知覚を使い、対象者のみならずその背景まで情報を探り出すことが出来る。
これに対し、同じ感応能力でも「接触感応」というものがある。情報を読み取ることが出来るのは同じだが、こちらは対象者(または物)に触れることが条件となる。
両者の大きな違いは、触れるか触れないかということだ。
マリア・エルチェシカは実にまれなケースで、このどちらの能力も持ち合わせている。しかも、技能は極めて優れていた。
過去のデータによれば、感応能力者は精神感応または接触感応の一方の能力を持っている、もしくは能力の発達の比重がどちらか一方に傾く傾向があるのだが、マリアはどちらの能力もバランスよく使いこなすことが出来た。
同じ能力者でも、アダム・エルキンやデヴィン・モレッツのように念動力の熟練者らと違い、感応能力を巧みに使いこなせる者は決して多くない。むしろ能力を向上させたがゆえにそれに弄ばれ、自らを滅ぼしてしまうものが大半であった。それは能力の性質によるところが多い。
感応能力は、精神に働きかける能力である。脳が発する思念波を感知し、対象者がなにを考えているのか悟ったり、思考に割り込んで意志を伝えたりすることが出来る。
操る側の感度が高ければ、対象者本人も知らない潜在意識まで深く探ることまで出来るとされる。さらにこれらを応用して、五感や思考をかく乱操作したりすることさえ可能にしてしまう。
しかしそれを乱用することは、固く禁じられていた。
♡ ♡ ♡ ♡
あたしはまだ、ふんわりと柔らかな闇の中にいた。
水の中を漂うように、あたしは薄闇の中を漂っているんだ。
身体も、心も、フワフワしている。心地良いの。身体はチョコレートみたいに、とろりと闇に溶け込んでしまいそうだわ。
そして、不思議な光景を視ていたの。
不思議だけど、とってもきれいよ。闇の中に花が咲くの。ええ――花よ、花。大輪の、きれいな花々。
ほら、誰かが言っていた――牡丹に芍薬に、百合の花。闇の中、そこここに小さな蕾が浮かんできては、次々とほころび開いていくの。ほら、ここ、あそこにも……。
まるで、夢の世界よね。こんなにいっぱい花に囲まれて。
――――ああ、そうか。これは、夢なんだ……。
(――牡丹芍薬百合の花――牡丹芍薬……百合の花……)
あん、繰り返しているとなんだか呪文みたい。
――花の名前の呪文……花の呪文。
頭の中でゆらゆら回る、不思議な言葉。四六時中って訳じゃないんだけど、ふとした時に思い出してしまうと、しばらく頭を離れない。
(牡丹……芍薬……百合の花……)
ねえ。この呪文を唱えている間は、この心地いい夢の中にいることが出来るのかしら。だとしたら、まだ唱えていたいわ。だって、だって……。
(……ぼたん……しゃくやく……ゆり……)
呪文と共に思い浮かぶのは、花びらの雨の中にいた「あのひと」のこと。
大きな老木に腰掛け、楽器を弾いていた。ほら、あの情景は鮮明に思い描けるわ。
本当に――本当に、美しい眺めだったのですもの。
あたしの隣で、ふわりと大輪の花が咲く。幾重にも重なった天鵞絨の花びらが、1枚づつスローモーションで開いていく。豪華に広げた花びらは、匂うように艶やかで。
――あれは「花王」、牡丹の花。
こぼれるように、次々と蕾は開いていくの。優雅に柔らかに、シフォンのレースが揺れるみたいに。
――これは「花相」、芍薬の花。
スラリとした立ち姿は絹のしなやかさと輝き。端正な花型が華やかに、凛として。
――高貴な女王様を思わせる、百合の花。
じゃあ……降りそそぐ花びらは、何の花だろう?
(……誰か教えて……)
(……教エテ……)
ほら。
雪のように舞い散る花びらの向こうに、あのひとが佇んでいる。
妖しいくらい美しく、この世の者ではないようで……。
心惹かれて止まないけれど、どこか怖い。でも見つめずには、いられない。
どうしてこんなにもどかしいんだろう。
ああそうか、これ夢なんですもの。夢なんだから、だからこんなに――――。
こんなに……あたし――――。
はぁ……溜め息、出ちゃう。
なんだろう、このモヤモヤっとした想い。
――――あ。溜め息付いたら、また花が開いた。
♡ ♡ ♡ ♡
(ぼたん……しゃくやく……ゆりの……、ぼたん……しゃくやく……ゆり……)
(ひえっ!!)
夢にどっぷりと浸りまどろんでいたあたしは、突然冷水を浴びせられるような気分を味わった。
あ!
なに!? 背中に視線を感じた。誰かが、あたしを視ている!
どうして!? これ、あたしの夢の中でしょ。誰かが不法侵入してるってこと?
寒気を感じた。全身に、鳥肌が立つ。
どういうこと! 誰の視線なの?
(排除……シナクチャ……)
あたしの不安が湧きあがると同時に、咲き誇っていた花々はいっせいに花びらを散らし始めた。あのひとも消えてしまった。
(待って、待って……!)
気持ちが混乱するあたしは、花びらの洪水に足をすくわれる。
バランスを崩し倒れ込むと、あっという間に身体は花びらに呑み込まれてしまった。花びらは生き物のように張り付いてきて、あたしは窒息しそうだ。必死でもがく。だけどもがけばもがくほど、花びらはまとわりついてきちゃう。
そうこうしていると、花びらの輪郭が溶け出し、どろりとした液体に変化していく。液体はあたしの自由を奪い、しかも量はどんどん増している――。
(きゃあぁぁぁーーーーーー!!)
♡ ♡ ♡ ♡
(――――――――!!)
起き上がろうとした瞬間、世界はぐるりと回転した。
(……き……、気持ち……悪ッ。ひょわッ、目が……目が、回っているよう……)
せっかく起き上がったのに、あたしの上半身は再びベッドにダイブした。ああよかった、これが床だったら思いっきり頭を強打していたかもしれない……って、あれ、なんかおかしい……気がする。
前にもこんなこと、あったわよね。
コレって、既視感!?
違う、違う。これは現実よ。ぐるぐる回る風景は、『紅棗楼』の――違うその裏手の……ええと、なんだっけ。
ああん、やっぱり、頭の中パニックだ。耐えられずに、目を瞑る。
あたしどうなっちゃったんだろう。
着替えて……チャイナドレスに着替えて……それから、それから……思い出して、思い出して……なにを――。
(なにを、思い出したの? なにを、視たの?)
(ヒラヒラ……、ハラハラ……)
「……ああ、テス。よかったわ、ようやく戻って来てくれたようね」
頭の上から、聞き覚えのある声が聞こえた。このベルベット・ボイスは、エミユさんだ。深くて柔らかくて耳触りが良くて、セクシーで。
「大丈夫よ。落ち着いて、ゆっくり眼を開けてごらんなさい」
(――戻って……来た!? ……?)
エミユさんの言い回しに疑問を感じながらも、あたしは彼女の言うとおりに、ゆっくりと目を開いた。落とした照明の灯りの中、光る銀髪と菫色の瞳が輝いて。ベッドの端に軽く腰を掛け、心配そうな顔をしてあたしを見つめている。
身体を動かそうとすると、スッと伸びた手があたしを制止する。
「まだ動いては駄目よ。もう少し横になっていなさい」
(でも、あたし……)
〈――また、倒れたいの。あなた、過剰に残留思念に感化しすぎて、肉体に負荷がかかり過ぎてしまったのよ。容量オーバーって言えば理解できるかしら〉
直接頭の中に、エミユさんの声が響いた。これって――
(テレパシー! あたし、エミユさんとテレパシーで会話しちゃってる!?)
彼女は微笑んで、頷いた。
〈でも――会話というよりは、私がテスの考えていることを読んでいると言った方が正しいかしら。あなたは自分の思念を相手に伝えることが下手くそなんですもの。まだまだ練習が必要ね〉
はい、そうでした。
「焦ることは無いわ。少しずつ慣れていけばいいことですもの。それより問題なのは――」
いきなり目の前で、光が点滅した。眩しい!
(ハラハラ……、ヒラヒラ……)
ぐにゃりとエミユさんのシルエットが歪み、また花びらの降る光景が――。
身体が大きく跳ねる。助けを求め、彼女に抱き着いてしまった。
「困った子ね。こんな体験ばかりしていたら、あなたの精神の方が耐え切れなくなってしまうわ。残留思念に同調して幻覚体験するのは、必要最小限にしなくては駄目よ」
優しく言い聞かせるように、あたしの髪をさすりながらエミユさんは微笑んだ。
(……残留……思念? 幻覚体験……って――あれは……あれって、あの情景って、やっぱりまぼろし……夢なの?)
「今だけじゃないわね。能力に目覚めてからまだ間もないっていうのに、あなた、何度か他人の強い思念に惹かれて、こんな危なっかしい体験をしているでしょう」
あ、涙が出てきた。なんで、なんで、どうして涙が出てくるんだろう。
(ハラハラ……、ヒラヒラ……)
あぁん、花が散る。花が、散っていたの。そこに――――。
「……や、い……やぁ…………」
「そうよ、テス。もっと自分の意志をしっかり持っていないと、悪意に付け込まれてしまうわよ」
(……余計ナコトヲ言ウナ……。邪魔、スルナ……)
身体の奥底の、さらに奥の方で、ざらざらとした声が低くつぶやいた。
なに、これ――――!?
今の声って、誰!?
急にがくんと引きずり込まれる感覚。意識が吸い込まれていく感じ。
また……深い深い穴に落ちていく。刷り込まれた恐怖の感触が、あたしを蝕んでいく。
「……アアァ、グ……アア……」
いや、いや、いやぁ!
咽喉からは、枯れた気味の悪い声しか出てこない。息が上がり、苦しい。……苦しい。目の前が白くなり、歯をくいしばると、手足の筋肉が引き攣ったみたいにガクガクと大きく震える。
なにかが、迫って来る。あたしを襲う。なにかが……!!
(あぁぁ! いやよぉぉ……)
「テスを返しなさい」
静かな、でも確固たる声があたしを捕まえる。エミユさんの声だ。動揺してパニック状態だったあたしの頭の中が、ストンと落ち着いた。
強張って固くなっていた身体から、力が抜ける。
おそらく間の抜けた顔をしているであろうあたしを、彼女はエッジワース・カイパーベルト天体の先まで射通しそうな鋭い視線で視ていた。
エミユさんの眼が、怖い。
でも凍りついたみたいに、身体はピクリとも動かなくなってしまう。
彼女の顔から、表情が消えた。と同時に、抱きかかえられていたあたしの身体は後方に押し倒される。傾いた上体に彼女は圧し掛かり、ベッドに沈む頃には組み伏せられていた。
声も出せないまま押さえつけられ、完全に自由を奪われていた。
(……な、な、なに……? どう……なって――……)
瞬きする間もない出来事だった。
超至近距離で覗き込まれた視線は、あたし……ううん――あたしの奥のずっと奥を貫き通すようで、菫色の瞳が恐ろしいほど冷やかに光って見えた。
――――敵意?
彼女の鋭い視線から感じるのは、敵意。でもその敵意はあたしに向けられてものじゃない。あたしを通り越して、なにか別のものを視ているような……あたしの中の……もっと奥底の――――。
ズンとなにかが沈むような感触を味わう。
その不快さに吐き気を感じながらも、一方であたしは訳のわからない重圧から解放されたことを知った。
スッと身体が軽くなる。あたしを襲ったなにかは、どこかへ消えてしまった。
「あなたがこんなに……に惹かれるとは、予想外だったわ。ここならば安全だと思ったのだけど、これではかえって危険。――招かれざる客も来てしまったことだし。仕方ないわ、場所を変えましょう」
ん? あたしが、なにに惹かれるって?
一か所よく聞き取れなかったんだけど、なんて言ったの?
あれ、今度こそ既視感。前にもこんなこと、相手の言ったこと……肝心なところが聞き取れなくて――。
聞き取れなくて――。あれは――。
あれは、あれは……隅の老人が……あ――!
「ひょえぇ!」
いきなり身体が宙に浮いた。違う、抱き上げられた。エミユさんに、お姫様抱っこされちゃっている。
「あ! あの、あの、あの、エミユさん……そのッ――」
スレンダーなエミユさんの細くて長い腕が、軽々とあたしを持ち上げている。ダメだ、完全に事態の進行についていけなくなってる! 落ち着かなくてジタバタしたら、
「じっとしていなさい。まだ眩暈がして、歩くなんて無理でしょ。急いで移動するから、暴れないでちょうだい」
またまた鋭い視線が!
ああん、その威力だったらカイパーベルト天体はおろか、オールトの雲の向こうだって射抜けるんじゃないかしら。
あたしは「エミユさんには逆らわない方が良い」ということを思い出していた。
ようやくテスの復活です。
主人公なのに、この不遇さはなんなのでしょう。
ようやく夢から脱出したと思ったのに、また波乱の予感が!
さて、本文中に出てきたエッジワース・カイパーベルト天体とは、太陽系の中で海王星軌道より遠い天体のうち、エッジワース・カイパーベルトにある天体の総称で、海王星の外側付近にある天体が密集した円盤状の領域です。広さは約50au。(1auは太陽から地球までの距離1.5億キロです。決して三太郎の出てくるCMでおなじみの某携帯会社ではありません)
2006年時点で、1000を超える天体が発見されているそうですがどんな天体があるかといえば、代表格として「冥王星」。準惑星に格下げされちゃった冥王星がこのあたりにいるそうです。
冥王星に変わる太陽系第9惑星の存在の可能性も考えられているそうで、発見されれば大ニュースですよね。
さらにその外側に存在すると言われているのが、オールトの雲。距離は1万~10万auあるかもといいますから、ここまでを太陽系と推察すると、太陽系も結構広いものです。
まだまだ探索中ですから、意外な新発見がたくさん出てくるかも。
ざっくりな説明ですが、物語自体には深くかかわることではないのでこの辺で。
――で、それを貫きそうな視線……って!?