9. 名探偵と茉莉花茶 その③ ☆
「ま……まて、当たり屋って……当たり屋って、あの事故……なあ、あれって……!?」
リックの青い目が、飛び出しそうなほど大きく見開かれた。
「なんですの? なんですの、当たり屋って!? ええっ、故意に車にぶつかるんですの! いけませんわ、怪我をなさるじゃありませんか!!」
一方育ちの良いお嬢様は、この違法行為の存在自体を知らなかったようだ。新たな知識の習得とその異常な内容に興奮している。
「ヤツは今、ロマン・ナダルのゴシップネタを狙っている」
クリスタはロマン・ナダルの新しいミューズとして、マスコミに取り上げられていた。
それは事実だし、発表されたばかりのコレクションの中でも、彼女をイメージして創作されたラインは好評で、女性たちの支持も高い。
ナダルブランドの新しい主流になりつつある。
そんなモデルが、ナダルの芸術的創作意欲を刺激する存在としてだけではなく、恋愛対象でもあったら、これほどタイムリーで好奇心をそそる話題もないだろう。
「それでナダルとあたしの恋愛関係をでっち上げることにしたらしい。
火の無いところに、無理やり煙を立たせるつもりだぞ!」
沸々と湧いてきた怒りに任せて、クリスタが勢いよくテーブルを叩く。空になった茶杯が、危うげな音を立てた。
「あら、本当にございませんの? 恋愛感情」
「無いよ」
「お見受けしたところ、素敵な方だと思いましてよ。クリスタの好みのタイプではございませんこと?」
「そう言われたって――無いものは無いんだから、さ」
ぶっきらぼうな言い方に多少の不自然さを感じたが、メリルはそれ以上の追及は止めた。
それなりの事情がありそうだが、今ここで詮索すべきことでないと思ったからだ。
「つまり、ボック記者はからめ手から攻めを掛けたのですね。
ナダル氏やクリスタの周辺を探っても、ロマンスネタにつながるような都合の良い話題が見つからないので、標的の身近な人間を利用し悪質な手段を行使してまで、それらしい話を探し出そうとしたと云うことですかしら。
その手駒にされたのがリックであって、あなたを利用するため、エヴァにハニートラップを仕掛けさせたのですわ」
さっきから会話の進行に遅れがちにリックの為に、メリルが補足説明を入れてくれた。
「丁度事故った頃、エヴァはリックの側から離れて行った。もちろん単に愛想が尽きただけってこともあり得る。
そこでエヴァと親しいヤツを探し出して、その辺のことに探りを入れたら、ある特殊なバイトをしたことを自慢げに話していたそうだ。
記者に頼まれて、報酬の良い仕事をしたって……」
「間違いありませんわ。そのバイトがハニートラップですわね!」
メリルが身を乗り出す。
「さすがに仕事内容までは洩らしちゃいなかったが、その記者がジョー・ボックだってのは、間違いなさそうだろ。
そこで、今度はエヴァ本人に当たってみた。手段を講じて、ちょいとあたりが薄暗くなったころ、ひと気のない校舎裏へひとりでおいでいただいた」
「まあぁ、古式ゆかしい『呼び出し』と云う儀式ですわね!
存じ上げておりましてよ。特別な話し合いをする時、手紙を送り、そこにひと目の無い場所と時間を指定して、相手と心いくまで問題の解決案を思案するのでしょう!」
メリルの解説には、語弊と認識の見解に多くの問題があるようだ。クリスタの太眉がピクンと跳ね上がったが、訂正と説明が面倒臭くなりそうなので黙殺した。
「エヴァが正直なヤツで、良かったよ。すんなりと教えてくれた。ボックと云う記者から、リック・オレインを籠絡してくれと頼まれた――ってな。
手懐けたら頃合を見計らってドライブに誘い、偽装人身事故の演出に手を貸し、自分も怪我をしたとリックを脅して不安と恐怖心を煽り立てろ、だとさ」
クリスタの話にも若干適切でない表現が見受けられた。そう感じても、メリルはあえて笑顔で受け流すことにする。
手荒な真似などしなくても、クリスタに睨まれたら大抵の人間は縮み上がるだろう。その眼力の強さは、マスコミの折り紙つきだ。
「ああ、それでまんまと騙された、と!」
なんて悪質でしょうと、メリルは眉をひそめる。
リックはすべてを投げ出したい気分だった。
自分が騙され利用されたという事実を突きつけられても、それを素直に受け入れられるとは限らない。むしろ否定し、逃避したい衝動に支配されていた。
健気な彼は、それでも何とか現実を認めようと懸命に模索していたのだが、その努力はなかなか実りそうもない。握りしめた両手は、汗でベトベトになった。
「そこに事故の被害者で、タブロイド紙の芸能関係記者ジョー・ボックの登場だ。
事故を公表するとか、バスケの選手生命を絶ってやるとか、裁判沙汰にしてやるとか言葉巧みにこいつを追い詰め、あたしのプライベートを探ることを強制させようとした」
淡々と語られるクリスタの言葉が、半分も理解できない。
リックは頭を抑えた。
ボックのいやらしい笑い顔。思い出すだけでも、心臓を握りつぶされた感覚に陥る。
「言うことを聞いたら、事故のことチャラにするって言ったんだ。ボックのことを信じた訳じゃないが、そうしろって、それが最良の選択だってエヴァが……」
足に包帯を巻き青い顔をしたエヴァが、泣き泣きリックを説得したという。
「あの、女ギツネ!」
「だからと云って、恋人の親友――ご自分にとっても友人ですわよね――を裏切る行為は許されません!」
「だけど、……俺はエヴァにも、怪我負わせちまってるし……」
おろおろと、リックが答える。
「あ、それね。
エヴァの怪我の程度って、おまえさんきちんと確認したのかい。ぐるぐる巻きの包帯なんていかにもでわざとらしいじゃないか。顔色なんてメイクでどうとでも細工できる。
あの女が騒ぎ立てるのを、全部真に受けただけだろう。善良にも程がある。
少しは疑ってかかれよ――ってそれが出来んから、赤子の手を捻るより簡単に騙されるんだろうな。
いいか、耳の穴かっぽじってよく聞けよ! エヴァ・ノックスビルは怪我なんかしていない。伸ばしていた爪が折れたなんぞ怪我の内には入らん!」
クリスタに詰問されたエヴァが白状したことには、彼女の実害は「きれいに伸ばしていた爪が折れた」くらいで、足の包帯は芝居に真実味を持たせる為の偽装と云うことだった。
「エヴァが言ってた。おまえさんは、ボックの『条件』に尻込みしたんだろ。そんなことできないって。
善良なリックを追い詰めたのがボックなら、そそのかしたのはエヴァだよな。
そうなんだよ――どうしてあいつらの口車に簡単に乗っちまったのか不思議だったんだが、おまえさんは本当はあたしのプライベートじゃなくって、テスの放心状態の理由が知りたかったんじゃないかい。
テスが浮気をしているかどうか、部屋に行けばどこかに痕跡があるんじゃないかと疑った。別のオトコからもらったプレゼントとか、ふたりで撮った写真とか。
テスが頑なに部屋へ足を入れさせないのは、実は別の理由があるから……とかエヴァにくだらない妄想を入れ知恵されたろ。
ついでにあたしのことも探ってくれば一石二鳥、とかなんとか……」
硬直するリックの横で、メリルが不快感をあらわに表情を歪め、思案に暮れていた。
誰も何も言えないまま、時間だけが過ぎた。
「まあ、そんなとこだな。名探偵……」
重い空気を押し除けて、恨めしそうな声でリックがつぶやいた。
死の淵から湧きあがってきた亡者のような顔で、思い切り長い息を吐き出すのが、無情な事実への精一杯の抵抗だった。
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クリスタは頭を掻いた。入念に手入れされた形の良い爪が、カリカリと頭皮を刺激する。ついでに指に絡まる縮れた髪の毛を、苛立たしそうに引っ張った。
「おまえさんはボックに利用されたんだ。もちろんエヴァの誘惑に乗せられてテスを傷つけたことは認められないが、接触事故はあの記者の卑怯な手口だし……」
リックは法を犯したわけではない。
詐欺行為に巻き込まれ、強制された不法侵入は未遂に終わっているし、女ギツネとの浮気の代償は痛いくらい高価く付いている。
執拗な追及は、この辺で切り上げなければならないとクリスタは思った。ショックで打ちひしがれている姿は、十二分な制裁を受けたと言えるだろう。
事実を述べたまでだが、友人のこの姿に、彼女の心中も穏やかではなかった。
息苦しい沈黙が流れるふたりの前に、さりげなく淹れ直した茉莉花茶が差し出される。
フローラル系の芳しい香りが、辺りの空気を鎮静化していった。
「それで、クリスタの言っていたつじつまは合いましたの?」
メリルがさらりと話題を変えた。
「あ……いや、これはリックがあたしたちの部屋に来たがった理由の解明だよ。話はこれからだ」
矛先はまだ鋭くなるのかと、リックが身構える。
ハニートラップのショックで砕かれた心を修復している途中だというのに、もう次の試練が襲いかかってきた。
「いろいろな事件がいちどきに起こったから、頭ん中ごちゃごちゃになるんだ。ひとつひとつ順番に絡んだ糸をほぐしていけば、回答に行き着くに違いないさ。
まずこれで、リックの事故の件が明らかになっただろ。次にテスの突然すぎる心境の変化と、失踪の件だ。テスの失踪もしくは誘拐は、巻き込まれた交通事故が関係していると踏んで間違いないだろう。
だとしたら、今のあたしたちにこれ以上の追及は難しい。メリルにもう少し情報を集めてもらわないと、手も足も出ない」
「よろしくてよ。おまかせになって」
助手は嬉々としてバッグの中からご自慢の携帯用小型PCを取り出し、立ち上げ始める。情報収集に関しては彼女に任せ、やり方は問わないことにクリスタは決めていた。
「――だから、心境の変化の件を考えてみたんだ。何故テスは突然リックと別れると言い出したんだろう? いつからそんなこと考え始めた? 理由は?
あいつは学業を全うするとか言っていたけどさ、なにがどうしていきなりそんなことを考え始めたんだ?
しかもキャリア積んでバリバリ仕事をするなんて、あいつのガラじゃないだろ」
クリスタがリックに同意を求めた。それには、彼も同意見だった。
こんなことなら先刻メリルが指摘したとおり、プロポーズでも同棲でも、さっさと既成事実を作っておくべきだったと後悔が頭をよぎる。
バスケットボールならば、ここ一番のチャンスは逃さない自信があるのに、なぜ実生活に活用できなかったのだろう。
カヌレ大の誇る名クラッチシューターなのに、だ。
悶々とするリックに、さらにとどめを刺すような一言が浴びせられる。
「もっとわからないのは、『リックがお兄ちゃんならよかったのに……』だと。前日までイチャついていたのに、どこをどう捻ったらそういう結論に行きつくんだよ!!
ええいッ、おまえさんら、どういう男女交際してンだい!!」
興奮したクリスタが、椅子を蹴って立ち上がった。
セクシーなクールビューティーが売りのモデルとは、到底見えない形相だ。
「うぅ~~、頼む。それ、言わないでくれ! 俺だって、泣きてぇよ。男として自信が叩き壊された気分だってぇの。それを、さらに粉砕してくれんのかよ」
顔を真っ赤にし、リックは半泣き状態だ。
確かにこれ以上問い詰めたら、彼のプライドは粉砕どころではなくなってしまうだろう。執拗な追及は止めようと決めた先から、これである。
ほどほどのさじ加減が苦手なクリスタの為に、検索操作の手を止めメリルが仲立ちに入った。
♢ ♢ ♢ ♢
「あ~~、ちっとも埒が明かない。それと、プロポーズの件。あたしたちは、この言葉に振り回されている。なんだか、引っ掛かるんだよ。
言い出したのはメリルだが、どうしていきなりそこまで思考がぶっ飛んじまったんだい。
なんでこの言葉が、あたしの頭ん中で独り歩きしているんだろう?」
「……言葉だけが動き回っている。ゾンビみてぇだな」
「まあ、お上手ですわ。座布団一枚!」
PCの画面に注目していたメリルが顔を上げ、高らかにそう言った。が、残念なことにリックとクリスタにはこのジョークが通じなかったらしく、頭の上に疑問符を並べ怪訝な顔を見合わせている。
結局、意味を理解してもらえないままスルーされた。
メリルは不満げだったが、ジョークによってもたらされた微妙な間でその場の空気の流れが変わり、リックは少しだけ緊張を和らげることが出来たのだった。
2020/01/08 挿し絵を追加しました。