9. 名探偵と茉莉花茶 その②
「ハニートラップって、どういうことですの? ええ、え? あの、もしかして……例の人身事故って、仕組まれたものなのですか!?」
驚いたメリルが、動転するリックに視線を向けた。
目を白黒させ、椅子から腰を浮かせたり落としたりして、リックは完全に落ち着きを失っている。
心理的ダメージは、予想以上に大きかったようだ。
ムスッとした顔のクリスタが頷くと、
「そう。こいつの浮気の自白を聞いた時、ハナシが出来過ぎていると思ったんだ。浮気の最中に事故って、そのもみ消しの条件が、あたしのプライベートの詮索なんてさ。
しかも無断で部屋に侵入して私物を持ち出せなんて、泥棒まがいのことを要求されてんだよ。
弱みを握られているとはいえ、唯々諾々は無いだろう」
こめかみを抑え、胸に溜まった憤りを、はあぁ…と盛大に吐き出した。さらに、
「――っていうかさぁ、なんで気付かないんだよ、罠だって! ちょっと疑ってみれば、すぐに不可解しいってわかるだろうが!!」
噛み付かんばかりの顔色で、リックに語気鋭く迫る。
強張った顔のまま、反論の余地もなく言われっぱなしの大男を憐れんで、今度はメリルが助け船を出した。
「事故って、焦っていらしたのですから、その辺の不自然さに気付かなかったのですわ。そうでしょ、リック」
もちろん、この救助艇にリックが乗らないはずがない。
茉莉花茶を飲みながら、落ち着いた声で受け答えるメリルは、今の彼にとって救いの女神だった。「助けてくれ」と、切羽詰った目線を送る。
クリスタが正義感と真実の探求に燃えるのは自由だが、周りの空気を読む気が無いから、時として彼女の行動は誰かを不注意に傷つけることになる。
走り出すと周囲の迷惑など、全く目に入らなくなってしまうから恐ろしく厄介だ。
経験上そのことを知っているリックとしては、これ以上クリスタが暴走を始める前に、ぜひともメリルを味方に付けなければ先が危ないと察知していた。
だが頼りのお嬢様はと云うと、にっこり微笑み返してくれたが、それが快諾の意味なのか却下の意味なのか、彼には区別がつかないのだ。
「でも、どうして彼の事故がハニートラップだと思ったんですの?」
メリルが、もっともな質問をしてきた。
「それは……」
急にクリスタの歯切れが悪くなった。リックを睨んでいた大きな深緑色の瞳が横に動く。
数秒の、微妙な間が空いた。
「なあ、リック。その……、傷口に塩を塗り込むような真似をしたい訳じゃないんだけどさ。
間違っていると申し訳ないんで、確認だぞ。おまえさんの浮気相手って、噂のあったチア部のメイ・フォードじゃなくて、同じチア部でもエヴァ・ノックスビルだよな。
目を付けたオトコは堕とさないと気が済まないって、悪名高い……」
リックは眩暈を感じた。
さすがに気が退ける思いがあったのか一応断りはあったものの、内容的には充分塩を塗り込まれた気分だ。
もしくは戦闘機に乗せられ秒速数百キロと云う猛スピードで飛ばされたとでも言おうか。はたまた気圧調節装備なしで深海に突き落とされた――でもいいだろう。
掛かる重圧が、リック・オレインと云う存在をぺちゃんこにしていた。
つぶされた脳みそは機能不能状態だ。
混乱したままクリスタを指差し、真っ青になって小刻みに身を震わせていた。
「どうしてそれを知っているんだ」とでも言いたいのだろう。
だが突然の爆弾告発にダメージは甚大で、金魚のように口をパクパクとするのが精一杯の様子だった。
クリスタは彼の反応を見て、肯定だと受け取った。
「まず、こいつが浮気をするってのが疑問だったんだ。浮ついたところもあるが、いい加減なヤツじゃない。こう見えても、高校時代からテス一筋だしな。付き合い長いんで、そこはあたしも認めるよ。
……じゃなんでだ、ってことになる。
誘惑したエヴァだって、こいつにはステディな女がいる事は承知していたはずだ。メイとの噂が立った時、テスの名前まで出して必死で噂を否定したのはバスケ部じゃ有名な話らしい。
バスケ部とチア部は親交が深いから、この情報を知らなかったとは思えない。
そうでなくても手を出すのなら、当然その辺のことはリサーチするだろう」
「だとよろしいのですが。なかには手を出してから状況を知る軽率な方もいらっしゃるようですし……」
メリルのヘイゼルの瞳が、興味深そうに細められた。
どうやら好奇心の充実の方が勝ったらしい。リックの願いは却下されたようだ。彼の額には、汗が噴き出した。
「バスケ部に行って、ちょっと色目を使ったら、いろいろ面白い話が聞けたよ」
真実の探求の為なら、クリスタも手間と労力は惜しまないようだ。
そのあたりはボック記者と大差無いのではと思いつつ、メリルは自分のことも棚に上げ、横槍を入れたい気持ちを胸に仕舞う。
つまらない茶々を入れて、彼女の推理を聞き逃したくはないからだ。
「エヴァはある時期から、急にリックに対して親密な態度を取るようになったんだとさ。
不自然なくらい突然で、積極的だったそうだ。こいつの都合はお構いなしで、はばかることなくベタベタと、嫌らしいくらい露骨にアプローチを掛けて来たんだとバスケ部の部員たちが証言している――」
リックが黙って頷いた。
「――最初は逃げ回っていたらしいが、毎日の猛攻撃にだんだんこいつの気持ちも揺らいてきたらしいな。
次第にエヴァとの距離が縮んでいった――ってのも証言が取れている」
「おまえなぁ……。モデル辞めて、刑事にでもなれよ」
リックの負け惜しみに、それもいいかもしれない――と思ったのはメリルである。
ゴクリと息を飲み込んだリックが、重い口を開いた。
「その頃からかな、テスがデート中にボーっとするようになったんだ。それまで、そんなことなかったんだけどな。
話の途中で、目を開けたまま眠ったような顔してた時もある。
しばらくすると元に戻るんだけど、本人は意識していないらしい。心ここにあらずって言うんだろうが、なんだか急にテスが得体の知れないものにすり替わったみたいで、背筋が寒くなったこともある。
訳、わかんねぇんだって。俺といてもつまんないのか、楽しそうに笑うのはフリだけかとか、そんなこと考え始めたら、マジで不安になった。
もしかして、他に好きなヤツが出来たんじゃ…とか。
そんなときエヴァが相談に乗ってくれて……」
「それでテスの浮気を疑ったんですの。わたしがお見受けしたところでは、テスにそんな素振りはございませんでしたわ。言い訳でございましょ!」
「ま、そう言われてみれば時々ボケーっとしていることもあった気がする。でもそれって、ド田舎から出て来て生活環境の変化によるストレス、とかじゃないのかい。慣れないバイトも始めたしさぁ。
そんな恐ろしいほど呆けていた顔ってのは、あたしゃ見ちゃいないけどね」
女性陣は見当が無いと主張するが、リックは意見を撤回しなかった。しないどころか、
「クリスタは最近仕事で部屋を空けることが多かっただろ。ひとりで寂しいって、俺の部屋に来たときとか、……あったんだよ。
あの顔、テスじゃねえって。マジ、怖ェえの!」
「ああ、悪かったね! だからって、さりげなく惚ろ気話を挟まんでくれ!」
「あらあらあら……」
クリスタとリックがまたまた険悪なムードに偏り始めたので、仕方無しにメリルが仲裁に割って入る。こめかみにうっすら青筋の浮き上がった笑顔が、怖い。
「お話を戻しましょう。エヴァの誘惑が、どうなったんでしたっけ?」
諍いの不毛さを感じ取った長身コンビは、大人しくお嬢様の意向に従うことにした。
♢ ♢ ♢ ♢
「――あーっと、どこまで行ったっけ? こいつがエヴァの誘惑に堕ちたところ、か。
恋愛相談に乗るフリをして他人の恋人を横取りするとは、エヴァも相当な不届き者だよな。
ところがさ、そこまで熱意と手間をかけて掠め取ったってのに、あのオンナはいとも簡単にリックを袖にしたんだ。問題は、その時期なのさ」
「時期……ですの?」
メリルが目を瞬いた。
「事故った、すぐ後さ。あの事故で、愛想つかされたんだと思っていた……」
リックが小声で答えた。声が震えている。
「あたしも最初はそう思ったさ。ところがここでバスケ部の部長から情報提供があった。
エヴァの色仕掛けが始まる頃、バスケ部に毛色の違う奇妙な雑誌記者が、何度か取材に訪れたことを思い出してくれた。
これがどう見てもスポーツ関係の記者には見えなかった――ってことで記憶に残っていたらしい。記者の名前がジョー・ボック。
興味深いのはここからで、そのボックとエヴァが楽しそうにひそひそ話をしていたんだと。だから、もうちょっと勘ぐってみたんだ」
「そのふたりの会話が、よからぬ悪巧みの計画だったら……ですか?」
頭の回転の速いメリルは、クリスタの話の先を察してくれる。
「――そこで、ジョー・ボックのことを調べてみたんだ」
記者の名前を口にするだけでも忌々しげな様子のクリスタである。
「ボックってのは、評判の悪いスクープ記者だ。あたしの所属するモデル事務所と、ナダルのオフィスに聞いてみたら、ムカつく話がごまんと出て来たぞ!」
彼女は顎を引き、ぷっくりとした厚い唇をツンと突き出した。
上目使いになった深緑色の大きな瞳は、ますます輝きを強くする。
熱を増した褐色の肌はしっとりと艶を増し、なにか一点に気持ちが向かっている時のクリスタは誰よりも美しい。
「あの記者は、タブロイド紙で有名人のゴシップ記事を専門に扱っているんだが、探し出すだけじゃ飽きたらず、過去にも低俗な手段で記事をねつ造している。
記事の内容は、とんでもなくスキャンダラスで下種なものはかりだよ。取材の手口が悪質なのは、関係者には有名な話なんだとさ。
たとえば――当たり屋まがいのことをして事故の被害者に成りすまし、相手を脅迫するのはよく使う手口なんだそうだ。言いがかりをつけ強請ったり脅かしたりして、いいようにあしらい利用する。
たとえばそいつを手下代わりにして、軽犯罪法に触れるような仕事をさせるとか、な」
「テスとクリスタ」へのご来訪、いつもありがとうございます。
名探偵クリスタの尋問に青色吐息のリック・オレイン君。
浮気の代償は、高くつきそうですね。
さて、みなさま。名探偵と云えば、どなたを思い出すでしょうか?
小説、ドラマ、アニメ、漫画etc.
名探偵の活躍はいとまがありません。
私のヒーローは、王道シャーロック・ホームズ。忘れもしない小学5年生の頃、本屋で見た「まだらのひも」のタイトルに惚れ込み、母に強請って買ってもらい読んだのが運命の出会い。
それ以来、お慕いしております。
19世紀末のロンドンを駆けるあなた様も素敵ですが、現代のロンドンを闊歩するお姿もうれしくて……。
(それは「シャーロック!」でしょうが!!)
ホームズに限らず「名探偵」は好きなのですが、難点なのは揃いも揃って名探偵の性格には難あり――と云うこと。一癖も二癖もある人ばかり。さらに絶対恋愛向きの性格ではありません。
ホームズなんて、変人奇人の域にはいっていますからね~。
エキセントリック……なんてかわいい言葉じゃ、納まりません。
そのせいでしょうか、名探偵役を押し付けられたクリスタの性格は、多少はた迷惑な猪突猛進人間になっちゃった。ワトスン役のメリルも、エキセントリックが微妙なさじ加減で入っているような。
凸凹名探偵と助手の活躍は、次回も続きます。
がんばれ、リック!!




