8. 月光華 その①
あたし……夢を……見ていたんだと思う…………。
――――きれい。
はらはら、ひらひら……。
あれって、雪? 薄紅色の小さなひとひら。
はかなく微かに甘い香り。
おぼろの月は中空に。
はらはら、ひらひら……。
聴こえる侘しげな音色があたしを誘う。
はらはら、ひらひら……。
こちらへ、おいで……と。
あたしは躊躇しながら、足を踏み出す………。
ぐるるるるるぅ。
あ、ヤな音ね。お腹が鳴っている。
恥ずかしいからイヤだって思っているのに、なぜ堂々と主張しちゃうのかしら。どうしてあたしの腹の虫って、こうも正直なんだろう。
お腹が鳴る音で目が覚めるって、どうしたものかしらね。
ああ、でも、お腹が空いたのは事実だわ。ペコペコよ。空腹すぎて胃がキリキリしてきた。晩御飯まだぁ――って、
…………あれ、ここどこ?
♡ ♡ ♡ ♡
このところ、あたしはこのフレーズを頻繁に使っている。
自分が今どこにいるのかわからない。
意識を失って、気が付くと見知らぬ場所ってパターンが多過ぎよ!
(――って、のん気に構えている場合じゃない!)
まず、状況を確認しよう。落ち着け、あたし。
そろりと身体を動かしてみる。よかった、拘束されている訳じゃないみたい。
ゆっくりと、上体を起こしてみる。
纏い付くのは、肌触りの良い毛布。それと、馴染みの無い物柔らかな微かに甘い香り。どちらも心地よくあたしを包む。
部屋の暗さに目が慣れてくると、あたしはベッドに寝かされているのがわかった。
医療用カプセルでないことに、まずホッとした。あれは……思い出したくない嫌な思い出があって、二度とお世話になりたくないの。
ドキドキしながら視線を四方に飛ばせば、そこはまったく見慣れない風景で、あたしの頭の中はますます混乱をきたしている。
なにがなんだか、理解が追い着かないよぉ!
まず、あたしが寝かされていたベッドは天蓋付で、蚊帳まで掛ってある。
ただよく知っている……と云うか、女の子が憧れるお姫様ベッドのパステルカラーのフワフワってした甘いデザインではなく、シンプルで濃く深い色合いの重厚なイメージなの。
それも、東洋風っていうのかしら。幾何学模様の透かし木彫りの建具の装飾は、中国風の文様よね。
金色金具がアクセントのどっしりとしたアンティークのチェスト、白地に青い顔料で彩色された小花模様と「双喜紋」という中国伝統文字が描かれた花瓶。
ベッドサイドテーブルに置いてある漆塗りの長角小箱に施された螺鈿細工からしても、内装に凝った、上等なお部屋と云うのがうかがえる。
そうだ……。ロクム・シティに来たばかりの頃、ひとりで美術館に行ったことがあるの。
クリスタは仕事のスケジュールが立て込んでいたし、リックにもバスケ部の合宿でパスされて、ひとりでさびしくて、時間潰しに何気なく入った美術館で似たような様式の展示品を見たの。
地球の東洋と呼ばれた地域の工芸品の展示会だったわ。そこで仕入れた付け焼刃の知識しかないけど、並べられた家具や調度品ひとつひとつに、繊細な気遣いがあることは見て取れる。
――で、ここは、どこなんだろう?
よく考えるのよ、テス。レチェル4にいたはずのあたしが、いつの間にか「施設外」にいた。葡萄畑の中で気を失って、おじいさんに助けられた。おじいさんは『提督』と呼ばれていて、エミユさんがリムジンでお迎えに来た。
(そうよ、リムジンで、あたし……!)
うんうん、少しずつ頭が冴えて来たわ。
提督とエミユさんは、あたしが能力者だと云うことを見抜いていた。あたしが能力を使わずとも、状況からそう推測していた。
だからリムジンの中で、エミユさんはこう言った。
「――隠さなくてもいいわ…………あなたに興味が湧いただけ」
レザーシートの上を滑るように移動して、エミユさんはあたしに近づいた。猫に似た、美しい顔が迫る。
「怖がらないで……。目覚めたばかりなのね。眠っていた能力の開花に、戸惑っているんでしょ。安心なさい……」
紫水晶の瞳が、きらりと光った。ビリッと電流が走ったような衝撃を受け、全身が粟立つ。
――そこで、あたし、気を失っちゃったんだ。
♡ ♡ ♡ ♡
…………。
と、いうことは、……ですよ。
ここは提督が「どうにも外せない野暮用で行く」とか言ってた場所の可能性が高い。『ナントカ楼』とか、言っていたのよね。
なんだっけ? 2~3回頭を振ったら、ナツメのイメージが湧いた。
そうだ! 『紅棗楼』よ。
提督は、『紅棗楼』に行くと言っていた。有名な中華菜店よ。だとしたら、この内装は納得がいくわ。
そして、ここは、ロクム・シティなのよ。途中経過はともかく、ようやくあたしはロクム・シティに帰って来れたんだわ!
クリスタが心配している。クリスタに会いたい。クリスタに、謝らなくちゃいけないわ。
絶ッ対心配し過ぎて、怒っているに違いないんだから!
矢も盾もたまらず、あたしはクリスタの顔が見たくて仕方なかった。出会ってから今まで、こんなに長い間彼女の顔を見なかったことなんて初めてだ。
あたしたちは、幼稚園児の頃から、いつも一緒にいたんだから。
そんなこと考えていたら、涙が溢れてきた。ああん、嗚咽が止まらなくなってしまう。
(ダメだ。まだ、泣いちゃいけない。クリスタに会うまでは、泣いちゃダメ!)
なんとか気分を落ち着かせて、もう一度状況を整理してみる。
ヨーネル先生も、感情を安定させることが能力の制御への近道だって教えてくれた。アダムとディーだって……っ、やめた……ふたりのアドバイスは後で考えよう。ややこしくなりそうだから。
まず、この部屋には、あたし以外の人の気配はない。でも遠くに、――と云ってもさほど離れていない場所に、華やいだ空気が感じられる。
ここが『紅棗楼』の一部であることは間違いなさそうなんだけど、部屋の造りは菜店と云うより、ホテルのスイートルームみたいな感じ。
あたしが今いる寝室の隣には、居間がある。でも客室と云うよりは、なんとなく私室みたいな雰囲気なのよね。少しだけ空気に温かみがあって。
かといって生活感は乏しいから、普段から使用している訳ではないらしい。必要な時だけ利用しているってカンジかな。
誰の、なんのためのお部屋なんだろう……。
あれ、でもここ菜店じゃなかったっけ?
あたしは頭を捻る。う~ん、答えが出てこない。どこかにヒントが転がっていないものかしら…と、キョロキョロお部屋の物色を続けてしまう。
高い天井と、ゆったりとした広めの間取り。部屋を仕切る装飾壁。格子風衝立。
壁の色も家具もアースカラーで統一してあって、中国風だから装飾多可気味ではあるんだけど、うるさいとは感じない。むしろ静寂な雰囲気が漂っている。
じゃあレトロ感満載なのかと云えばそうでもなく、さりげなく置いてあるオーディオスピーカーは新型のものだし、フォルムが美しいスタンドライトはおしゃれ。
ところどころアクセントが効いていてモダンな斬新さもあったりして。部屋の主の、趣味の良さなのかな。
ああん、もう、なんだろう。すごく、気になっちゃう。物珍しいエキゾチックなインテリアは、不安よりも好奇心と想像力を掻き立ててくれるんだもん。
どんなひとなんだろう? この部屋の主って。
エミユさんの顔が浮かんだんだけど、すぐに消えた。女の人の部屋にしては、なんだか物足りない。部屋の主は、男の人のような気がする。カンだけど。
漂う御香の香りは、それを隠すため……。
ここで大変なことに気が付いた。
誰だかわからないたぶん男の人の部屋で、ベッドの上にいるって、これ、ヤバくない!?
急いでベッドから抜け出そうと、身体を動かしたら、いきなり天地が逆転した。平衡感覚がおかしくなったの。
慌てて掴んだ毛布と一緒に、そのままバランスを崩してベッドから転げ落ちる。
「きゃああ!!」
強い衝撃を感じるのと、部屋が明るくなったのは、ほぼ同時だった。
♡ ♡ ♡ ♡
「あら、もう気が付いたのね」
部屋の入り口には、トレイを手にしたエミユさんが立っていた。半泣きパニック状態のあたしを見て、口端に笑みをこぼした。
「驚いた? 気が付いたら、知らない場所に寝かされていて。
リムジンの中で、急に気を失っちゃったでしょ。おうちまで送って行きたくても、場所がわからないし、かといってあなたは早くお友達のところに帰りたがっていたしね。
提督と相談して、しばらくここで休ませることにしたのよ」
颯爽と部屋を横切り、床に転がったあたしの元までやって来る。
リムジンでのことがあるから、無意識のうちに警戒してしまったのか、身体がピクンと震えた。
どうやらあたしはエミユさんを用心しているみたい。
「――あなたが目覚めたら、シャワーを浴びさせて、食事をさせてから家に送るようにという提督の指示なの。
それから着替えを持ってきたわ。泥と煤の付いた病衣じゃ嫌でしょう。急場しのぎだから、こんなもので許してね」
彼女が「こんなもの」と見せてくれたのは、差し出されたトレイ――正確には衣装盆の中に置かれた、淡い水色のチャイナドレスだった。
溜め息とともに、ドレスを手に取る。
お店の女性給仕係が着るドレスの予備品を拝借してきたそうだけど、生地も縫製も質が高くて、お仕着せにしては手の込んだものだと思う。胸元と裾に施された白い大輪の花の刺繍がアクセントになっていて、ドレスに華やかさを添えている。
あたしの視線は、その白い花に釘付けになっていた。
「きれい……この花って、芍薬……ですよね」
「……ん、ちょっと違うわね。牡丹よ。どちらもボタン科ボタン属でピオニーと呼ぶけれど、東洋では区別されているの。
牡丹は『本木性』で芍薬は『草木性』、牡丹は『花王』とも呼ばれ、芍薬は『花相』と称される。どちらも中国や朝鮮、日本で古くから愛された花よ」
確かにこの部屋の調度品の中にも、牡丹のデザインがある。でも、あたしの頭の中では、別のなにかが引っ掛かっていた。
「さあ、シャワーを浴びて、そのドレスに着替えてね。そうしたら食事にしましょう。お腹、空いているでしょ」
はい、と答える前にお腹が鳴った。
エミユさんが失笑するくらい、お腹の虫は派手に鳴いてくれた。
もう、また恥をかいちゃったじゃない。
腹の虫のばか!
それよりも、あたしの頭の中では牡丹と芍薬が狂い咲きしていた。
(なんだろう……牡丹に、芍薬……、それから……)
(……ヒラヒラ、ハラハラ……)
(……なにが足りないんだろう。なにが…こんなに気になるんだろう。
あたし、なにか忘れている。
大事なことだったような……、牡丹に芍薬……、それから……)
せき立てられてバスルームに向かいながら、もう一つの疑問をエミユさんに尋ねてみる。
「あ、あの、ここって『紅棗楼』ですよね。提督が、御用があるって言っていた。
でも、この部屋って……」
「半分正解よ。ここは、『紅棗楼』の裏手に隣接したオーナーの別宅。本来は店舗ではないけれど、たまに特別なお客様が招かれる時に使用されているの。貴賓室ってところかしらね」
レストルームのアメニティグッズをてきぱきと確認しながら、彼女は答えてくれた。
「でも、この部屋は……誰かの私室ですよね? お客さまには開放していない……」
手を止めたエミユさんが、意味深な顔であたしを見た。そして、笑顔を作る。
「あなた、変なところで鋭いのね。
そんなことは気にしなくてもいいのよ。滅多に使用されることは無いのだし、オーナーの了解も取ってあるから。安心してシャワーを浴びてきてちょうだい。
身体も髪も、しっかり洗うのよ。かなり汚れが付いているから」
いつまでたっても行動を起こさないあたしに業を煮やしたのか、彼女は強引に病衣を脱がせようとする。
「痛ッ!」
服と肌が擦れ、飛び上がるほどの痛みを感じた。
「まあ、大変。こことここ、軽い火傷をしているわ。擦り傷もあるわね。女の子なんだから、痕が残らないようにしないと。
こんなに色が白くて、肌理細やかな肌なんですもの。指が吸い付くみたい」
つつーっと、彼女の指が背中を滑る。
「ひゃあぁぁ…ん!」
情けない声が、口から飛び出してしまった。
彼女はと云えば、いたって真面目な表情だ。真っ赤になって身をよじるあたしの全身を冷静に観察して、他にも傷や火傷が無いかとチェックしている。
「薬と食事を持ってくる間に、シャワーを浴びて着替えていること。わかったかしら」
「はいっ、わかりました!」
エミユさんには逆らわない方がいいのだと理解した。