7. 紅棗楼で夕食を その①
ワンワンワンワン!
勢いよく吠える――これって、犬の声よねェ。
「――――……お……、……じょう…さ…ん、大丈夫かね、お嬢さん……」
あたしを揺する暖かい手。重いけど安心感を与えてくれる声。
「おおい、お嬢さん。気が付いたかね」
恐る恐る重たい瞼をゆっくり開くと、目の前にはがっしりとした、角張った顔立ちのおじいさんがいた。
日焼けした厳格そうな顔に白い髪。顔全体を覆う、手入れされた豊かな白い髭。目つきがちょっと厳しいけど、柔和そうな笑顔を浮かべている。
軍人さんみたいだ……と、なんとなく思った。そのおじいさんの横で、大型牧羊犬が吠えている。
すぐには言葉が出てこなかった。頭が混乱していて、なにをどうしていいのか、まったく思いつかなかったの。
しばらくおじいさんの顔をボーっと眺めていたけど、心配そうに眉を寄せたから、ようやく何かを答えなくっちゃと思いついた。
「…………ぁ……」
でもなにを答えたらいいのか、頭の中の霧は晴れない。
鈍く波打つような痛みが、あたしの思考を邪魔している。どうしようかと戸惑っていたら、コリー犬がぺろりと顔を舐めた。
「きゃああ!」
びっくりしておじいさんにしがみつくと、堅い頑丈な手で何度もあたしの背中を擦り、大丈夫だと落ち着かせてくれた。
おじいさんの愛犬も、あたしにすり寄り心配そうな目で眺めている。
おじいさんはこの葡萄園の農場主さんで、愛犬アイザックが懸命に吠えるものだから、不思議に思い後を付いて来たら倒れていたあたしを発見したんだって。
言われて気が付いたんだけど、すでに辺りは、どっぷりと暗い。夜空の星がきれいだ。今は何時なんだろう。
そして、ここは……。
「……あ……あの、ここどこなんですか? あたし、記憶が……はっきりしなくて……」
声と勇気を振り絞って、ようやくこれだけ言えた。
助けていただいたお礼を言わなくちゃいけないのに、相変わらずの悪癖で、視線も合わせられない。
なんだか凍るほど寒くて、おじいさんの腕の中でずっと震えていた。あたしの中に漠然と存在する、言い現わせない「怖さ」から逃れたくてたまらなかった。
頭痛はまだ治まりそうにない。
「ここはクナーファ村だよ。バクラヴァ郊外の静かな農村で……今は少し騒がしいがね」
そういえば、遠くにサイレンの音が聞こえる。火事かしら?
アイザックもサイレンの鳴る方向を気にしつつ、あたしたちの周りをぐるぐる回って警戒している。時折足を止めて、吠える。
「この方向にあるナントカという政府関係の施設で、なにかあったらしい。さっきから騒がしくて、かなわんよ」
(へ!? 政府関係の施設……って、もしかして……)
「レチェル4!」
「ああ、――とか云ったかな。いや、田舎者の爺に、難しいことはわからんが」
ゆったりとした口調で、おじいさんは答える。
「お嬢さんは、そこの関係者かね」
素直に返事をしそうになったけど、思い直し、必死に首を横に振る。
「ち、違います! 違うの。あたし、ロクム・シティに帰りたいの。ロクム・シティに急いで帰って、――それで、それでクリスタに、友達に会いたいの!」
「ロクム・シティかい。お嬢さんはカヌレ大学の学生さんか」
今度こそ、首を縦に振る。
ようやくおじいさんと目を合わせ、必死ですがる。
今、レチェル4に戻るのはイヤよ。絶対戻るなって、頭の中で警告をがなり立てている。
「住まいは、ロクム・シティか。よしよし、それじゃ、明日送ってあげよう。今日はもう夜だ。疲れているようだし、顔色もよくない。今晩は、儂の家に泊まりなさい」
そんな。
葡萄畑の中にぶっ倒れていた、見ず知らずの女の子にとてもありがたいお申し出だけど、できれば……できれば……
「あ、あたし……あたしは、今すぐに帰りたいんです!」
おじいさんの腕をがっちり掴み、額を突き合わせそうなくらいまで接近して、大声で訴えてしまう。
突然あたしがそんな行動を起こしたものだから、おじいさんもアイザックも驚いたようだったけど、優しく窘められてしまった。
「やれやれ、せっかちなお嬢さんだ。もう日も落ちた。年寄りに夜間の運転は難儀でな。それに、今から野暮用がある。どうにも外せん予定が入っておるのだよ」
よくよく見れば、おじいさんは畑の真ん中には不似合いな、仕立ての良いスーツを着ている。
「でも、でも……」
その時、後ろからクラクションに煽られた。
一台の黒塗りの大型乗用車が止まっている。リムジンだ。
しかも、ストレッチリムジンとかいう、後部座席を改造して居住性を良くした、走る応接室ってタイプだ。
こちらも葡萄畑に不似合いなこと、この上ない。
おじいさんとふたりで目を瞬いていると、静かに後部座席のドアが開いて、ひとりの女性が降りてきた。
「お迎えに上がりましたわ、提督」
吠えていたアイザックが、大人しくなった。
「おや、これは、また……。とんでもない美女を、迎えによこしたものだ」
おじいさんは、うれしそうに破顔した。
それもそのはず。降りてきたのは、ホントにきれいな女性だったから。
毛並みの良い、銀色の猫みたい。
うっとりしちゃうような身のこなしに、あたしは見とれていた。
こんなこと言うのもなんだけど、日頃モデルのクリスタを見慣れているから、大抵の美人には驚かない。
でも、この女性は、ホントに綺麗なの。造形だけじゃなく、その立ち振る舞いが。隙のない洗練された仕種が、女性らしさと知性と強さを感じさせてくれる。
控えめなメイク。黒のシンプルなデザインのパンツスーツに、白いシャツ。アクセサリーは、耳元のパールのスタッドピアスとシルバーのチェーンネックレスだけなのに、その飾り気のなさが印象的な顔立ちとスタイルの良さを引き立てている。
バストまである波打つ銀髪をワンサイドでまとめ、それがまた上品な大人の女性って雰囲気だわ。
「止してくれんかね。儂はもう退役した、ただの隠居爺だよ……」
謙遜の混じった声で、おじいさんは返す。
「そうでしたわね。今は有機ワイン造りに精を出していらっしゃるのでした。でも皆様、まだ敬愛を込めて『提督』とお呼びになるとか」
滑らかで艶のある、それでいて凛とした声で、女性はおじいさんを言い込めてしまった。
それが嫌味に映らないのは、直後に見せた悪戯な笑みと少し肩を持ち上げたキュートな仕種のせいかしら。
アイザックが、女性の足元に寄って行く。
「これだから、あなたは苦手なんだよ。ミズ・ランバー」
降参とばかりに、おじいさんは大きく息を吐いた。でも、嫌じゃないみたい。顔は笑っている。
「エミユで、よろしいですわ。ところで提督。そちらの可愛らしい方は、どなたでしょう。お嬢様ですの」
矛先が、あたしに来た。水晶みたいな菫色の瞳が、興味深げにこちらを観ている。
「はっはっはっ。だと、よかったんだがなぁ。
あいにく儂とばあさんの間に出来たのは、可愛げのない息子ばかりだ。しかもどういう訳か、みな儂に似て、面相もよろしくない。エミユやこの娘のような娘がいたら、ばあさんも喜んだんだろうがね。
これ、アイザック。大人しくしなさい。そんなに吠えんでも、よろしい」
エミユと名乗った女性の足元にまとわりついていたアイザックが、急に頭を上げ、停車しているリムジンの後方に向かって何回か吠えた。
なにか、威嚇しているみたいに。
「このお嬢さんは、今ここで拾った」
「拾った!?」
クールビューティーが、驚きの声を上げた。
「なにやら事情があるらしいが、ロクム・シティに帰りたいと言っておる。
儂らの行先も、ロクム・シティの『紅棗楼』であろう。同乗させてやる訳には、いかんかね」
エミユさんは、形の良い薄い唇をわずかに尖らせた。菫色の瞳が、じっとあたしを値踏みしている。
やがて、フッと表情が柔らかくなった。
「よろしいですわ。そちらのお嬢さんに異存が無ければ、ですけど」
老提督は、満足そうにうなずいた。
話の成り行きを、身を縮こまらせて聞いていたあたしの口から、思わず喜びの声が漏れてしまった。
ふたりの顔を交互に視ながら、お礼の言葉を繰り返す。
これでロクム・シティに帰れる。
クリスタの元に戻れるんだわ。
単純にそう思っていた。頭痛と人見知りなんて、どこかへ飛んで行ってしまった。そのくらい、うれしかったのよ。
♡ ♡ ♡ ♡
エミユさんに促されて、提督と共にリムジンの後部ゲストキャビンへと乗り込んだ。アイザックはお留守番らしい。
提督に言い含められると、大きくワンと返事をする。ドアが閉まると、音も振動もなく車は発進した。
リムジンって、もともとは馬車の形式のひとつだったんだって。
御者と客席が仕切られている、もしくは御者席が客室の外にあるもので、おとぎ話のお姫様たちが乗っているような馬車よね。
それは時代と動力が変わっても引き継がれていて、運転席とあたしたちのいる客室は仕切りで区切られている。
すなわち、この車の格式が高いということになるのよね。
内装は落ち着いた色調で統一されていて、TVモニターやカクテルキャビネットも設置されていた。足もゆったり延ばせるほどゆとりがあるし、絨毯まで敷かれている。
L字型のレザー仕様のシートは、ホントはソファのように座り心地がいいのだろうけれど、リムジンに乗るのは初めてのことだからお尻が落ち着かない。
8人位は乗れちゃうであろう広い客室に、3人だけってシチュエーションもこそばゆい要因よね。
おふたりは当然な顔してリラックスしているけど、あたしは完全に借りてきた猫状態だ。
しかも、なに! なんで、あたし、こんなに汚れているの!
エミユさんが『どうぞ』と云ってタオルを渡してくれたから、なんでだろうと思ったのよ。
勧められて顔を拭いたら、タオルが黒くなった。
……ってことは、この汚れが、あたしの顔についていたってことじゃない。
見れば、着ている服にも泥やら煤やらついている。
しかもこの服が、研究所からのお仕着せとはいえ入院患者が切る病衣みたいなデザインで、とてもじゃないけどリムジンに乗るような恰好じゃない。
別に病衣でリムジンに乗っちゃいけないなんて決まりはないだろうけど、せっかく高級車に乗るんなら、おしゃれな格好していた方がいいに決まっている。
急いで非礼をお詫びしたけど、途方もなく恥ずかしくて、ますます身体が硬くなる。
エミユさんは構わないって言うけれど、恐縮しない訳がないよ。
それにしても、あたし、なにをやっていたんだろう。記憶が無いわ。
え~~、どうしよう、不安になってきた。
午後の講習を早めに切り上げてもらって、個室に戻って、マリア・エルチェシカがやって来た。
そこでマリアと言い争って、ムカッと来て、……ムカッとして…………ヤバい! そこから先の記憶に靄がかかっている。
なんとなく炎が浮かぶんだけど、それがなんだか、意味わかんない!
そうだ、あたしはレチェル4の内側にいたはずなのよ。
ほぼ、軟禁状態で。
なのに、ここはクナーファ村だと言われた。いつの間にかレチェル4の外側にいる。
なぜ?
行動範囲が限られていたから、レチェル4の内部を全部把握していた訳じゃない。
けど、道の左右に広がっていた広大な葡萄園は、研究機関施設の敷地内部にあるものとは思えないし、提督が嘘を付いているとも思えない。
ううん、嘘を付く必要が無いじゃない。だって、初めて会ったんだもん。
(どうして?……)
いくら考えても、記憶をたどっても、答えに行きつかない。
記憶が欠落しているんだ。
頻繁な頭痛と記憶障害って、能力のせいなのかな。
ああん、ヨーネル先生にきちんとカウンセリングを受けておくべきだったわ。能力に目覚めた頃から、あたしには疑問ばかりが増えていくみたいだ。
次から次になぞなぞを出されているのに、ひとつも解答できてない。
やるせないって、こんな気持ちかしら。溜め息出ちゃう。
飲み物を勧められても、未成年だからカクテルって訳にもいかず、オレンジジュースにしてもらった。なんか、……カッコ付かない。でも、冷えたジュースはのどを潤してくれた。
ついでに、空腹の胃にも浸みるようだわ。
ああ、お願い。この間のように、盛大な音を出して、空腹を主張しないでちょうだい、お腹の虫さん。恥ずかしすぎるわ!
(……あれ、この間って……いつのこと…あの時……って…………)
頭の中を、なにかが転がって行くイメージが浮かんだ……、……ような……。
さっきから疑問に思っていたんだけど、この『提督』と呼ばれるおじいさんは、誰なんだろう。
『提督』って、連邦宇宙軍の将校さんの敬称よね。確か、艦隊の総司令官のことだ。
そして、その提督を迎えに来たエミユさんって、何者?
ジュースを飲み終わる頃、グラスを片手に、提督が問い掛けてきた。
「ああ、そうだったな。まだ、名前も聞いておらん。儂はロレンスと云う。グレアム・J・ロレンスだ。
こちらは、ミズ・エミユ・ランバー。知り合いの、秘書兼ボディガード……とでも云えばいいのかな。何でもこなす、有能な美女だ」
そう紹介されたエミユさんの口元が、少し緩む。
「あ、あの……。本当に、お二方とも、ありがとうございます。あたし、どうしても、ロクム・シティに帰りたくって。早く、クリスタに会いたくって。
あっ、名前ですよね。失礼しました。あたし……テリーザ・モーリン・ブロン。テスっていいます」
「テス、か」
「よろしくね、テス。私はエミユで結構よ」
にこやかに会話を続けながら、ふたりがなにやら目配せを交わしたことが気になった。
「ところで、テス。少し尋ねたいことがあるのだが。よろしいかな?」
静かな低い声で、提督が質す。そこには有無を言わせない威厳があった。
やっぱり提督って、ただモノじゃない。
「気づいておるかな。テス、君には2組の尾行が付いておる。恐らく、別の指令系統からだろう。付かず離れず、今もこのリムジンの後ろに張り付いておるよ。
単刀直入に聞こう。君は、何者だ。
こんな時刻に葡萄畑の真ん中に倒れていたというのも不審だが、レチェル4の非常サイレンとその恰好、この2組の尾行を合わせて考えると、君がいったい何者なのか気になって仕方ないのだよ。
それと、君はレチェル4を知っていた。関係者であることを否定したが、あの施設を『レチェル4』と呼ぶ人間は限られておる。
おのずと、正体は絞られてくるがな」
あたしは息を呑んだ。身体が硬直してしまった。
尾行って、どういうこと?
ふたりの視線に怯えながら意識をリムジンの後方に飛ばすと、提督の言うとおり2組の尾行が互いを牽制しながら追ってくるのが感じられた。
エミユさんのベルベットボイスが、さらにあたしを追い詰める。
「テス。あなた……超常能力者よね」
身体が、ビクリと反応する。
ダメよ。これじゃ、認めてしまったようなものじゃない。
「そうでしょ。隠さなくてもいいわ。
私たちはあなたに危害を与えるつもりは無いのよ。
ただ、あなたに興味が湧いただけ」
背中を汗が流れる。
この人たちは、あたしが能力者であることを、見抜いている。
刺すような提督の灰色の眼と、妖艶なエミユさんの微笑。
(どうして…わかっちゃったの!?)
不用意に能力は使ってないし、そんな素振りをしたつもりもないのに。
リムジンは、静かにロクム・シティに向かっている。でも、客室の空気は2~3度冷たくなっていた。