6. 不機嫌なクリスタと不可解なテス その③ ☆
「このカフェから10分ほど歩いたところに、素敵なレストランがありますの。
おふたりとも、中華料理はお好きかしら。
点心が美味しいんですのよ。そこに参りましょう。個室に予約を入れておきました。うふ」
お上品に片手で口元を隠し、メリルはにっこりと笑う。どう返答していいのかふたりとも迷っていたが、5秒ほど間を置いてリックが反応した。
「メリルお嬢様。この先の中華レストランって言やぁ、もしかして『紅棗楼』のことかよ」
リックの慌てぶりを見て、クリスタが柳眉を寄せる。
「なんだ、その『紅棗楼』って?」
「あら、ご存じないの? でしたら、ぜひ、参りましょうよ。それは美味しいと評判のレストランなの!」
「……って、あんたなぁ。個室に予約って、いつ入れたんだよ?」
「今ですわ」
「ウソだろ。あそこはテーブル席でさえ予約の取れない超有名店だぞ」
「だって、取れちゃいましたもの」
さも当然のごとく、メリルは答える。先刻から操作していた愛用の携帯用PCの画面をリックに示すと、確かにそこには『紅棗楼』からの予約受付完了の返信メールがあった。
「あのお店、また伺いたいと思っていましたの。でも、ひとりじゃ、つまりませんでしょ。
あれこれ注文しても食べきれませんし、ほら、あの円卓を皆様で回して、卓上のお料理があちらへ行ったりこちらへ行ったり――あれをやりたいのですわ。
ちょうど良い機会ですもの。お付き合いくださいな」
「やめてくれよ。俺、金持ってねーぜ。貧乏学生が行く店じゃねぇって!
おい、助けてくれよ、クリスタ。お嬢様にラーメン屋の『花生亭』は無理だとしても、せめてリーズナブルな『核桃飯店』あたりで手を打つように説得してくれ!!」
「ごめんなさい。そちらの2店舗は、すでに行ってまいりましたの。わたくし、美食の追及には貪欲ですから。
ええ、確かに美味でした。大衆向けのちょっと濃いめの味付けと、安価で迅速で大盛り、空腹を抱えた……特に男子学生にはうってつけのお店ですわね。
けど、今日の気分は点心なのですわ。
それにそちらの2店舗でしたら、ここと大差ありません。またお喋りされちゃいましてよ。だって、常連客はほぼカヌレ大の学生なのですもの。あなた方の顔を見たら、物見高い方々は飛んで火にいるナントカとばかりにさえずり始めるでしょうね。
それが煩わしいから、場所替えしたいのでしょ。こちらのお店なら、客層からいってもそのようなことをする方はいないでしょうし、個室ならもっとプライベートは守られますわ。
うふふ。『紅棗楼』の点心、一度頂いたことがありますけど、噂に違わずそれは美味しゅうございました。
クリスタも味わいたくはございませんの、フカヒレ入りの蒸し餃子とか肉汁が溢れだす小龍包とかパリッと揚がった春巻きとか干し貝柱入りの大根餅、杏仁豆腐にマーラーカオにマンゴープリンやエッグタルト……」
クリスタの鼻がヒクヒクと動く。行ったことの無い評判のレストラン、美味しそうなメニューを並べられ、好奇心と食欲が騒ぎ出す。
メリルが美食家なのは、よく知っていた。その彼女が薦めるのだから、味はお墨付きだ。
確かに小腹が空いてきた。いや、話を聞いているうちに本当に空腹になってきた。
隣でジタバタしているリックと、空腹を主張する胃袋。未知の味。
「よし、せっかくメリルが予約を入れてくれたんだ。腹も減ったし、行こう、その『紅棗楼』とやらに」
クリスタの天秤は、ためらうことなく食欲に傾いた。
リックは青くなった。テス同様奨学金をもらって大学生活を送っている苦学生の彼には、お嬢様の常識は非常識に近い。
スポーツ特待生としての優遇もあるが、それでも生活費の節約は常である。高級中華レストランで食事なんぞしようものなら、数日分の生活費が飛びかねない。
助けを求めたクリスタも、あっさりと寝返った。テスの件で、恨みを買ったからだろうか。リックは頭の中で財布の中身と今月の生活費の残高を確認する。
「食事代、足りなかったら出世払いで貸すぞ」
青い顔をした友人に、ぼそっと小声でクリスタが救いの手を差し伸べた。
モデルの収入もあるから、懐はリックほど寒くない。むしろ仕事が増え多少の余裕もあるから奢りでも構わないのだが、それではリックが承知しないだろう。彼女なりの気遣いだった。
「最悪、頼む。利子はトイチとか言うなよ」
「いや、利子はテスとの仲直りだ。謝り倒して、元のさやに戻せ!」
リックが青い目を丸くした。
「おまえさ、俺とテスを別れさせたいんじゃなかったっけ?」
「そのつもりだったさ。テスが別れたいって言っていたし、な。でもこんな事件に巻き込まれちまったんだ。
テスの側に誰かいないと、あいつのことだから不安で落ち込んでノイローゼみたいになりそうだし、また面倒事に巻き込まれかねない予感がするんだ。
言いたかないが、この手の悪い予感ってのは当たるんだよ」
「俺は、テスのお守りかよ!」
「いいじゃないか。おまえさんは、まだテスに未練タラタラだろ。
だったら、踏ん張れよ。
テスだって、おまえさんが誠意を見せりゃ気が変わるさ。あんなに夢中だったんだからさ」
「言ってくれるぜ……。でも、それ、トイチ並みに高金利な利子かもな」
リックが苦笑いをした。少し寂しさが混じった表情に、自分同様楽天家の彼が、こういう表情もするのかとクリスタは少し驚いた。
「まあ、ご心配には及びませんわ。強引にお誘いしたのですもの、食事代はわたしが持ちましてよ」
と、問題のお嬢様が口を挿む。
「そういう訳にはいかねぇぜ……」
言い及ぶリックを制して、メリルはバッグの中からプラチナ色に輝くカードを一枚取り出す。
「ご覧になって。このカードがあれば大丈夫ですわ。困ったことがあればこれを使えと、父が持たせてくれましたの」
涼しい顔でメリルは言い切ったが、善良な一般市民のクリスタとリックは言葉を失った。有名クレジット会社のマークの入ったカードである。
指先に埋め込まれた極小ICチップで身分証明から電子マネーの支払いまで管理できるこの時代、盗難や破損の危険を見越してまでも、わざわざカードを携帯しそれで支払うのはステイタス以外の何物でもない。
もしもの時に備えて厳重なセキュリティを施したカードを作成するには、それなりの社会的信用と実績が必要であり、クレジット会社もセレブリティ階級にしか発行しないのも有名な話だ。所持しているということだけで名望家であるという証明にもなるので、優越感から作成を望む人間は多いのだが、審査はかなり厳しいものであるというのも良く聞く噂だ。
さらに審査に通ったとしても作成できるカードにもランクがあり、プラチナ色は利用可能額がかなり高額までOKなのは、そういった特権とは縁遠い彼らでも知っている。
カードはメリル名義ではあるが、当然お支払いは父親の口座からだろう。
「――メリル。ご尊父の教育方針にあたしごとき小娘がとやかく言うつもりはないんだが、そのカードは確かにとても便利な反面、使いすぎに注意しようってことをご教示していただいたのかと、おおいに心配になったんだが。
……あ、いや。なにも利用可能残高を脅かすほど、大食いをしようってつもりは無いけどさ」
リックも急いで首を縦に振る。
「もちろんですわ。わたしだって、そのくらいの分別はございます。今月はまだ3回しか使用していません」
その3回を、どこの店でどのくらい使用したのかは、『知らぬが花』でいようとクリスタは考えた。
意外と堅実な性格のメリルであるから、無茶な使い方はしていないであろうが、それでもペタンクール家の金銭感覚と一般市民のそれとでは、いくばくかの差があるであろうことは違いない。
顔色から見て、リックも同意見であることは見て取れた。
「プラチナカード、俺、初めて本物見たぜ」
「あたしもだよ……」
すっかり毒気を抜かれたふたりは、素直にお嬢様の意見に従うことにした。これ以上なにを言っても聞き入れないであろうし、争うのもばかばかしい。
なにより食事代が浮くのは、とてもありがたい。しかもメニューは高級中華料理だ。
それにお嬢様の言うとおり、高級料理店の個室ならば、無神経なUSNSSの餌食にならずに落ち着いて有益な話し合いができるだろう。
クリスタはそう納得し、リックを強制的に同意させ、移動をうながした。
そんな一般市民の困惑をよそに、PCの画面を気にしていたメリルが再び嬌声を上げる。
椅子から腰を上げかけていたふたりの動作が止まり、メリルの顔を見た。
「ところでクリスタ、リック。あなた方がお付き合いしているって、これ、本当なんですの?」
「はあぁぁぁ~~~!?」
ふたり同時に大声を出していた。それも、間にいたメリルが咄嗟に耳を塞ぐほどの音量で、である。
目立たず騒がずの約束事はきれいさっぱり忘れてしまったようだ。周囲の視線が、いっせいにこちらに集まる。
「メリル。おまえさん、なんてこと言うんだい!」
「ありえねぇ~だろッ! そんなこと!」
ふたりとも噛みつかんばかりの勢いで反論する。メリルは身を固くした。
「だって、そう噂話されていましてよ~。諸説、入り乱れていますけどぉ…。
実はふたりがデキちゃったからテスと別れたとか。
一番突拍子無い話としましては、クリスタとテスが同性愛カップルでリックが邪魔になったから殺人計画を立てたが返り討ちにあってテスが死んでしまい死体処理の方法を医学部の愛人と考えているとか、安い2時間ドラマみたいな筋書ですこと。
……この愛人って、まあ、わたしなのね。
うふふ、面白いですわ。え、それでは、わたしは誰の愛人にされているのかしら?」
片手を頬にあてて呑気に思案するメリルの横で、引っ手繰るようにPCを引き寄せ、表示内容をチェックしたクリスタの堪忍袋が、ブチッという威勢の良い音を立てて切れていた。
「ええい、許さん。なんなんだ、このでっち上げは! 冗談にも程がある。製作元はどこのどいつだ! やつらか!?」
地を這うようなビブラートの効いた低音ボイスが、彼女の怒りの深さを現していた。
怒髪天を突いたクリスタが睨んだ先には、少し離れた席からこちらを窺う野次馬たちが、ニヤニヤと無遠慮な笑顔を並べている。
その顔が、彼女の怒りを増幅した。
「ぶちのめしてやる。一発殴ってやらなきゃ、気が済まない!」
鼻息も荒く、クリスタが息巻いた。
今にも彼らのもとに走り出し有言実行しそうな剣幕に、急いでリックが止めに入る。
「待て、よせよ!」
腕を掴むが、振り切られそうだ。
「いけませんわ、クリスタ。止めて、リック!」
「やってる、って!」
ふたり掛かりでなだめるが、クリスタの勢いは止まりそうもない。ついにリックが彼女を後ろから羽交い絞めするような形になった。
「ええい、放せ!」
「放さねぇよ。ここで余計な騒ぎを起こしたくねぇんだろ。鎮まれよ!」
「あたしゃ、許さないね。今回といい、この間といい、いい加減な噂をまき散らしやがって。
ああいう輩には鉄槌を下してやんなきゃ、自分たちがどれ程社会に迷惑かけてんのかなんて、わかりゃしないのさ!!」
クリスタの体内に蓄積されていた怒りは、矛先を見つけて、一気に噴出してしまった。
「おまえは正義の味方かよ!」
こうなると、リックもメリルも手に負えない。怒りはごもっともだが、この状態で鉄槌を下そうものなら相手は無事で済みそうもないし、彼らに美味しいお喋りネタを与えるようなものである。
「頭冷やせってぇの!!」
リックは仕方なくクリスタを締めている腕の力を強めると、いつの間にか3人分の荷物をまとめ、すっかり移動の準備を整えたメリルに声を掛けた。
「メリル、行くぞ。『紅棗楼』でもどこでもいいから、ここを離れよう」
「それ、正解ですわ」
ふたりはクリスタを引き摺るようにして、オープンカフェを後にした。
2022/1/23 加筆しました。
2022/2/3 挿し絵を追加しました。