18. トランキライザー・ブルー その⑤ ☆
――「隅の老人」が持っていた時計。どうしたんでしょうね?
ええ、カフェに忘れたとき、テスが追い掛けて届けようとしたあの銀の懐中時計ですよ。
――、あれは大切な懐中時計でしたよ、別れた妻からの最後のプレゼントでしたから。
だけど、いきなり暴走車がやって来たものだから……。
西条八十に怒られそうですね。でもあの詩は大好きです。そういえば、この詩にも百合(車百合)が出てきました。さすがに牡丹と芍薬までは出てきませんが。
クリスタがあたしの名前を呼んでいることに気がつくまで、しばらく時間がかかった。
「な、なぁに?」
「こら、テス。なに、じゃない。お腹が空いたと喚いてたくせに、ちっとも食べてないじゃないか。疲れてンのかい、それとも」
ここで声を落として、
「口に合わなかったかい?」
クリスタが鼻にしわを寄せている。
ふえぇ。あたしはひよこ豆のスープを口に運ぶ途中、それも口を開けたままの状態でボケッと固まっていたらしい!
そりゃあ、心配にもなるわよね。あはは、はあぁ。
予約したトラットリアは、カヌレ大学のあるトゥロン区との境にある。同じゼミの友人から紹介されたお店で、「アマレッティ」というの。
その友人もよく通っているらしいわ。
ご夫婦ふたりで切り盛りしていて、テーブル席が5席しかないというコンパクトな店内だけど、その分とってもアットホームで気取りがない。ドアを開けた途端に包まれた家庭的な雰囲気は、まるで実家に帰ってきたような気分を味わった。
マンマと呼びたくなるような明るい笑顔のおかみさんが、温かく迎えてくれて。今日はいろいろ事件がありすぎたから、堅苦しいお店でなくてホッとしちゃった。
しかも、学生の友人が常連で通うだけあって、ボリュームがあるのにリーズナブル。お財布に優しい。気取らない南イタリア風のメニューがずらりと並んでいる。
トマトとオリーブオイルを使ったさっぱり目の味付けは、胃が空っぽのあたしにはありがたい。ここでいきなり乳製品をたっぷり使ったこってり系を胃に入れたら、消化不良を起こしそうですもの。
オリーブオイルでニンニクを炒めるこの匂い、最高!
前菜にスープ、メインディッシュ……とマンマがすすめてくれた料理を頼み、あたしたちのちょっと贅沢なディナーが始まったのだけど。
「ううん、美味しいわ。うん、とっても美味しい!」
笑ってスープを飲み干して見せたけど、クリスタの渋い顔は晴れない。
「ホントかい。皿の上の料理がちっとも減ってないからさ。ほら、ご覧。おかみさんが心配して、こっちを見ているよ。さっきから、食べているよりボケーッとしている時間の方が多いって、気付いてないだろう。冷めちまう前に……――、
ああ、もう。今度はどんな悩み事を抱え込んだんだい? お言い!」
ああん、やっぱり付き合いの長い大親友って、ありがたい存在だわぁぁ。
感応能力がなくたって、クリスタの観察眼があればなんでもわかっちゃうんだよ、きっと。
まず再会した途端、ちょっとした表情の違いで、あたしの「うつ」状態が改善されたことを感じ取ってくれた。
そこはとても喜んでくれたのだけど、超常能力が復活したことには少し複雑な顔をし、「隅の老人」の関係者(マオのことよ!)に出会ったことに関しては考え込んでしまった。
ベレゾフスキーの接触に関しては、憤慨よ! オーウェンさんに、監視不行き届きだと抗議の電話を掛けようと息巻いていたのを止めるのが大変だったんだから。
ただでさえ長身で美人モデルのクリスタは目立つのに、大声出すものだから、店内の視線が一斉にこっちに集中したじゃないの! そりゃあクリスタはみんなの視線を集めるのが仕事だから平気かもしれないけど、あたしは恥ずかしくてたまらないよう。
そこへ丁度ひよこ豆のスープが運ばれてきたから、なんとか怒りの矛先を換えることが出来たんだけど。やっぱり人間って、空腹だと怒りっぽくなるのね。
で、その後も食事をしながら、離れていた間の出来事を報告し合っていたのよ。
なのに。いつの間にボーッとしていたんだろう?
「テス! 手と口が止まっているよ」
はりゃ? ピッツァを摘まんだまま、また動作が止まっていたみたい、あたし。
♡ ♡ ♡ ♡
揚げナスのカポナータを食べていたクリスタが、フォークを置いた。
「その『隅の老人』とか云う人物のことを尋ねに来た男の子のことだろう、おまえさんの心配の種は」
「どうしてわかるの?」
「フン、当たり前さね。あたしたちは昨日今日の付き合いじゃないんだ。おまえさんの考えることなんざ、お見通しだよッ」
あっはは~。脱力した笑いが漏れちゃう。
「助けてくれた少年に満足にお礼を言っていないってのも心残りなんだろうし、その子は月まで帰らなきゃならないって事情抱えてたのに、おまえさんのトラブルに付き合わせちまった。それが申し訳なくて辛いんだろう」
そうなの。マオはどこに消えちゃったの?
「連絡先、聞いてないのかい?」
と言って、綺麗にネイルの施された指が携帯通信用端末機を指さす。
「うん。そんな余裕なかったし」
ああん、どうして気が付かなかったんだろう。せめて連絡先くらい、聞いておけば良かったのよ。
そうしたら今どこにいるのかとか、月行きのハイウェイバス便に間に合ったのだろうかとか、確認が取れたのに。後悔先に立たずって、このことよね。
あたしってば、自分のことをお喋りするのに一生懸命で、彼の事はロクに訊いていなかった。知っていることと云えば、会話の断片に出てきた、パズルのピースみたいなバラバラな情報しかないの。
それさえ手がかりになるかどうかわからないような、どうでもいいようなことばかりで……。
しかもその事に気づいたのは、彼がいなくなってからという有り様なんだから!
おかげであれほど空腹だったはずなのに、ご馳走が喉を通らない。通っても、味がわかんない。
ふえ〜ん。アホらしさ加減に、涙も出て来ないじゃないのぉー。
マオのばかぁ。
「あ~、テス。高校生で、月にある男子校に在学中って言ったんだよね。その少年」
あたし、うなずく。
「その線で探ってみようかねぇ。ええい、他ならぬテスのためだ。その代わり、話を聞きながら、その皿の上に乗っているピッツァは食べるんだよ。いいね」
うん。マオのことがわかるんなら、ピッツァだろうがバーガーだろうが食べるわ。
ここはトラットリアだから、バーガーは無いだろうけれど。
「いいかい、テス。月面には大小7個のドーム型居留地空間がある。月面っていったって、おまえさんも承知してンだろうけど、地球から見て――の月の裏側に、だ」
モグモグと咀嚼しながら、うなずく。
地球から見た月の景観を守るために、建造物は全て月の裏側に建設することにしたのだそうな。ここにも景観保護条例か。
そんなに大切? 地球からの眺め。
あたしたち外地球生活者には、月面にドーム型都市がデーンと並んでいる景色の方が「普通」なんだけどね。
そんなことよりも、マルゲリータはテッパンで美味しい。モッツァレラチーズがモチモチして。
はぁん、バジルの香りが鼻に抜ける。トマトの酸味と甘味がもっと食べろと誘うのよ。
「居留地って言ったって太陽系連邦政府のお役所、それも中枢と呼ばれる機関が使用しているドームが大半だけど、中にはお役所に勤務する人間たちの生活居住区もあるし、劇場やショッピングモールみたいな娯楽施設だってあるんだ。当然、学校だってあるだろう」
クリスタが睨むから、カポナータもつつく。ほら、ちゃんと食べているでしょう。続きを聞かせて。
あ、バルサミコ酢の酸味が効いてる。これならお野菜をたっぷり食べられそう。冷やしても食べても美味しそうよね。
作り置きして常備食にしてもいいかも。レシピを教えてくれないかしら?
「あたしだって月面都市にどんな学校がいくつあるかなんて、正確な数は知らないよ。
けれど男子校なら知っている……っていうか、今どき珍しい男子校なんて月面都市にはひとつしかない。いや、あそこに男子校があるって事の方が、よっぽど不思議なんだけどさぁ」
揚げ団子を口に運んでいたフォークを持つ手が止まる。
「知ってるの!? 男子校が1校しかないのなら、マオが在籍している学校って、そこなのよね? ね?」
あぁ~ん、もったいぶらないで教えてよ、クリスタ!
「……まあ、彼が嘘をついていなければ、そこだろうな」
「嘘?」
「ああ。疑って悪いとは思うんだけどさぁ。その男子校ってのは全寮制のお堅いパブリックスクールで、生徒の大半が政財界の子息だっていう超有名校なんだ」
は……はい? パ、パブリックスクール? 全寮制?
「おまえさんも、学校名くらいは聞いたことあンじゃないかと思うんだけど。ほらほら、ここだよ」
そう言って携帯通信用端末機の検索機能で探し出した、その超有名と言われるパブリックスクールの映像をあたしに見せてくれた。
そこに映っていたのは制服を着た男の子たちの集合写真(プライバシー保護のためにちゃんと顔はぼかしが入っている!)。その後ろにそびえるのは、お化けが出てきそうな古城みたいな建物で……。
「ほぇぇぇぇ!!」
なに、これ!?
♤ ♤ ♤ ♤
テスの目の前から、ひとりの少年の姿が消えてしまった同時刻――。
ボストック通りから1本外れた裏通りに、大型のリムジン型エア・カーが停まっていた。黒い車体は夜の闇の中でも充分な存在感を示している。
フロランタン大通りや旧市街のラミントン区、高級住宅地で有名なガレット区あたりであればこれほど目立つこともないだろうが、下町のニュータウンではその優美な姿も場違いに見えてくる。
しかし通行人の好奇の視線も意に介さず、その黒い高級車は悠然とした貫禄を放ち、周囲を圧倒していた。
だが。そのリムジンよりも通行人の視線を捕らえたのは、その後部座席ドアの側に立つひとりの女性だ。
細見の肢体に、黒色のパンツスーツ。ゆるくウェーブの掛った長い銀色の髪は、毛並みのよい猫を思わせる美貌を十二分に引き立てていた。それに加え、ほのかに香る危険な香りが、より一層観る者の目を魅了していたのかもしれない。
人待ち顔に表通りの方向を眺める美女の姿に遭遇した通行人は、彼女の待つ相手を想像しその人物を羨みつつも、足早に通り過ぎて行く。
日曜日の夜、時刻はディナータイムを回っていた。
「エミユ」
女性が振り返る。その視線の先に、長身の少年がひとり。
帽子を被りウェリントンタイプの眼鏡を掛け、流行りの身幅の広いデザインのパルカラーコートを着ている。
ポケットに両手を突っ込んだまま、少年は足早に彼女の元へと歩いてきた。
「お待ちどおさま」
少し背をかがめた少年は、悪戯っぽく上目遣いで彼女の顔をのぞき込む。
女性も少年の無事な姿に安堵の笑みを浮かべたのだが、同時に濃紺色のコートにも黒い細身のデニムにも汚れが付着しているのが見て取れた。
エミユ・ランバーは眉をしかめる。
「あなたときたら……」
怒るとも呆れるともつかない表情を浮かべ、少年のコートに付いていた埃を丁寧に白い手で払い落とし始めた。
「散々ひとに心配を掛けさせて、ようやく連絡が付いたと思ったら迎えに来て、なんて。しかも、目を離せば危ないことに深入りしているし。
どうして男の子って、自分勝手なのかしら」
「そうだね、ごめんなさい」
鷹栖マオが口の端をつり上げる。大して心の籠もっていない謝罪に、菫色の瞳は咎めるように光を強くするが、少年は悪びれることも無く受け流してしまう。
「困った子ね」
エミユの薄い唇が不満そうに歪められた。
「それより。車中で、おふたりがお待ちかねよ。あなたのわがままに付き合ってくださったのだから、お礼を申し上げるのよ」
「わかっているよ、優しいエミユ」
すっかり少年のトレードマークになってしまった、アルカイックスマイル。
「もう。その笑顔で誤魔化さないでちょうだい」
後部座席のドアが開き、マオが車内へと乗り込んでいく。その間も周囲を感応能力で不穏な動きがないかと探っていたエミユ・ランバーだが、異常がないことを確認すると、スルリと車内へと身体を滑り込ませていった。
ドアが閉まると、黒いリムジンは車体を運行可能高度まで浮揚させ緩やかに走り出す。
乗り込んだ客席は、大人7人がゆうに快適に過ごせるだろう、ゆったりとしたスペースが確保されている豪奢な造りだ。コの字型に配置された革張りの座席には、ふたりの男性が先客として座っていた。
ひとりはカフェ・ファーブルトンにマオを迎えに来た男性で、ギモーヴ観光開発コーポレーションのマヌエル・アルバレス・早乙女。
もうひとりは現在バクラヴァ郊外のクナーファ村で葡萄園の農場主に収まっている元太陽系連邦宇宙軍元帥、引退した今もなお尊敬と信頼を持って「提督」の敬称で呼ばれるグレアム・J・ロレンスだ。
座席に腰を据えるやいなや、マオは謝罪と感謝を伝えた。
「……助かりました。ダリオル通りでクラクションを鳴らしてくださって。相手が焦って銃を出してきたので、どうしようかと思っていたんです」
先刻ダリオル通りでラブーフにテスを拉致されかけたとき、敵の内に飛び込み奪回したものの、銃を突きつけられ進退窮まってしまった。
その窮地にラブーフらの乗るワゴン型エア・カーに、後方から何度もクラクションを浴びせ、追い払ったのはこのリムジン車である。
斜め向かいの座席に座る早乙女が、相好を崩した。
「おやおや。珍しく素直ですね。
実はダリオル通りを不審な動きで行ったり来たりする車両を、提督が見つけてくださったのですよ。
エミユにその車両を遠隔透視と思念波で探ってもらったら、公安調査庁連邦安全調査局所属の工作員が視えると言うではありませんか。クラビエデス通りでも騒ぎが起こっていたので、これはなにかあると警戒をしていたのです。
もう少し早くあなた方に追いつけば良かったのですが、あの騒ぎで交通規制が引かれていましてね。遅くなってしまいました」
そこで隣に座したエミユから、マオはタオルといっしょに皮肉を手渡される。
「あのくらいの脅しで動じるなら、可愛げがあるのだけれど」
菫色の瞳が、憎々しげに横に座る少年の整った横顔を突き刺していた。
視線の鋭さにマオは困った風情を装って肩を持ち上げるのだが、年上の女性の機嫌はそんなことでは直りそうもない。
その様子を見ていた早乙女はやれやれと苦笑を浮かべ、提督も口元を緩めている。
「ねぇ。テスの強い波動を感じたんだけど、騒ぎの元はあの娘だったの? 確か強いショックを受けて、自分で超常能力を封じ込めたと聞いていたわ」
レチェル4の重要機密がなぜか筒抜けである。
「ええ、まあ。彼女、能力の制御が苦手みたいで」
答えながら、マオが帽子と眼鏡を外した。
途端、彼を取り巻く空気が華やかさを取り戻す。まるで桜の花が一斉にほころんだように、匂うような色香を漂わせる。
額に張り付いた前髪を長い指が掻き上げれば、白い額が垣間見える。
そっくりだ――と口に出せぬ一言を、提督は飲み込んでいた。
テスが無事帰宅して親友と再会できたと云うマオの報告に大人たちが安心したところで、
「公安調査庁と言いましたよね。じゃあ、クラビエデス通りで僕らの前に立ちはだかった男も……」
「ええ、そうよ。能力者対策委員会の取り締まり委員でニコライ・ベレゾフスキーと云うの」
「ふうん。僕はその男に記憶操作をされるところでしたよ」
早乙女とエミユが、驚いて目を見張る。
「とんでもない! これは、釘を刺しておいた方がいいかもしれませんね」
「いいえ。この件は、僕が勝手に首を突っ込んだんです。お手柔らかにお願いします、早乙女さん」
憤りの色を見せた年上の男性に、マオは自分の行動の軽率さに少しだけ反省の色を見せた。隣に座るエミユの顔がますます曇る。
「周到なあなたのことだから大丈夫だと思うけど、テスにあなたの素性を覚らせるようなことはなかったでしょうね」
「ええ。一応『保険』は掛けておきました。あまり気は進まなかったけれど」
「え?」
「いいえ。なんでもありません」
少年は安心してと微笑んで見せたが、エミユは不安に襲われた。『保険』はすぐに破綻するだろうという予感が頭の片隅に走ったからだ。
ふたりの云う『保険』とは、暗示のことである。
能力者、特に感応能力を操るものに対し、非能力者の思考や心情を自由に読んだり操らせない予防として、先手を打ち能力者に「不可侵の暗示」を掛け、感応能力の進入を完封してしまう方法だ。
感応能力攻撃の感染を防御する装置も開発されているが、装置が壊れてしまったり、能力者の能力が装置の容量以上だった場合、防御はなされない。
それよりも多少の危険性は承知の上で、能力者の脳に「禁忌」と刷り込み、能力を制限させる方が防御率が高いというデータもある。
ただし。これは誰にでも出来る技術ではなく、刷り込みも何度か繰り返し更新していかなければ効果は薄れていく。なにより施術者の精神状態が安定していなければ、被験者(能力者)の返り討ちに遭う危険性もあるのだが――。
「簡単だったよ、彼女の精神状態は不安定だったから。直ぐに飲み込んだ。それに僕の『保険』の勧誘は、エミユ仕込みだからね。最強でしょ」
エミユがマオに授けた『保険』の掛け方は簡単だ。
被験者の目を深く見つめ「超常能力を悪用しない」と刷り込むだけ。もちろんこの場合、悪用とはマオの内面を勝手に探ることである。
さりげなく、単純な方が、相手は警戒せず素直に飲み込む。暗示に掛けられたことさえ、気づかない。「悪用しない」という相手の自尊心に訴え、それを犯すことに深い罪の意識を植え込む。
「ハハハ。それは確かに最強ですね」
早乙女は同意するが、それでも不安が拭えず、エミユ・ランバーは溜め息の漏れそうな口元を抑えたのだった。
それまで3人のやりとりを黙って見守っていた提督だが。
「それで。テスから、かの老人の話を聞くことは出来たのかな?」
「あ、はい。提督。ありがとうございました」
孫のやんちゃを楽しんでいるような提督との会話を聞いて、エミユが再び眉をつり上げた。
「早乙女と私の監視を逸らすために、わざわざ提督に『紅棗楼』までお越しいただくようお願いしたんですってね。しかも時間稼ぎまでさせるなんて! なんて悪賢いのかしら」
「おお、ミズ・ランバー。そんなに目くじらを立てないでいただけないか。テスのことが気に掛っていたのは、儂も同様でな。彼の提案は渡りに船で、喜んで片棒を担いだのはこちらの方なのだよ」
好々爺の顔をした提督が取りなそうとするのだが、エミユの瞳は子猫を守る母猫のようにキッと吊り上がったままだ。
声に不満を絡ませて、マオが反論する。
「前日カフェ・ファーブルトンに行ったときだって、すぐに連れ戻しに来たでしょ」
「それは、今、あなたの身になにかあれば皆が困るからよ」
「わかっているよ。でもどうしてもテスから『老人』の話を聞きたかったんだ。このタイミングじゃなければ、もう『老人』の行方は掴めないという気がするから。
それに学校に戻ったら、次にレチェルに帰って来られるのは2ヶ月後だ。それでは……」
「こちらでも調査をしているわ」
「……僕は、老人のことをなにも聞かされていない……」
マオは押し殺した声で鬱積を吐き出した。
感情のままに当たり散らしたい。けれど大人たちの言いたいことや立場も理解している彼には、これ以上反抗し続けることは困難のようで、拳を握りしめ黙り込んでしまった。
「では。君にこれを渡しておきましょう」
早乙女はスーツのポケットから、手のひらに乗りそうなくらいの大きさの白いケースを取り出すと、マオの目の前に差し出した。天鵞絨の布張りで、貴金属などデリケートな品を収納するためのケースだ。
だが箱の中身の見当は付かなかった。
「どうぞ。開けてご覧なさい」
手に取ると、アクセサリーというには重みがあった。
3日後にやって来る17歳の誕生日プレゼントにしては、周囲の大人たちの顔色に微妙な空気が感じられる。彼は静かに蓋を開けた。
「これ……は」
銀色に鈍く光る懐中時計だった。
ハンターケースと呼ばれる文字盤を覆う蓋の付いた型のもので、大きさは16サイズとやや大きめだが、その分細かな装飾が施されてあった。
だが新品ではない。綺麗に磨かれ洗浄されてはいるが、誰かの手元にあったものに間違いないだろう。
12時に竜頭が付いており、そのまわりを囲むボウには同じく銀色の鎖が取り付けられている。それらの部分には細かな傷や剥げもあるが、それはこの時計が使い込まれていた証拠なのかもしれない。
マオの頭の中に、テスの言葉がよみがえる。
(……謝らなければならないことが。懐中時計をなくしちゃったの……)
彼女は泣きそうな顔をしていた。
テスにとって老人はただのカフェの客でしかない。それなのに老人の昔話に親身になって同情し、またそれ以上に行方を心配していた。
(……ごめんなさい)
その姿が「いじらしくて可愛いひとだ」と思ったのを覚られたくなくて、マオはテスに対し、かなり強めに暗示を掛けてしまった気がする。日常生活に支障はないだろうが、なんとなく落ち着かない気分に、心のどこかで悩んでいた。
さらに、そのことを周囲の大人たちに、特にエミユに知られないようにと苦心していたのだが――。
少年は驚きで琥珀色の目を見開いた。
「この時計、もしかしたら」
「そうですよ。かの老人が最期まで肌身離さず持っていたものです」
マオは早乙女の顔をじっと見る。
しばらく言葉を探していたが、やがて視線を時計に戻し竜頭を押す。すると静かに蓋が開いた。
陶器の白い文字盤には、クラシカルなフォルムで飾られたローマ数字がぐるりと円周に沿って並んでいる。陶器特有のヘアーラインと呼ばれる線状の傷も、チップと呼ばれる欠けも見られない。
老人は交通事故に遭い車両に跳ね飛ばされたのだ、とテスは言っていた。
だが時計には衝撃を受けたような痕跡はない。文字盤のガラスも割れていないし、竜頭を巻けば針が時間を刻み始める。
蓋の内側に文字が刻まれているのをマオは発見した。それは贈った老人の妻と、贈られた夫でもある老人のイニシャルなのだろう。
唇が少し動き、言葉にならない想いが漏れる。心に深く感じるものを噛み締めていたのか、しばし彼は時計から目を離せずにいた。
「この時計、僕が持っていてもいいんですか?」
「そのほうが時計も喜ぶだろう」
提督が眼を細める。
「ただし。お父上にはしばらく内緒にしておいた方が良いかもしれません」
早乙女の慎重な言葉に、マオは微笑で同意を示した。そしてゆっくりと懐中時計の蓋を閉じると、コートの内ポケットに滑り込ませる。
少年の嬉しそうな笑顔に、眉間にひだを寄せ続けていたエミユの顔にも、ようやく笑顔が戻ってきたのだった。
『テスとクリスタ』へのご来訪、ありがとうございます。
前書きは、西条八十の「帽子」のパロディ。森村誠一作品「人間の証明」にも出てきました。――と云ってうなずいてくれるのは、ミステリ好き。映画やドラマにもなっていますから、ご覧になった方も多いのでは?
穂積も霧積へも行ったことがなくても郷愁を誘う情景豊かな美しい詩ですから、ご一読なさってみてください。
さて。
今回は前半は食テロ気味のテスのパート。後半はマオのパートでした。
行方不明だった懐中時計はマオの手元へ。彼と老人の関係はどうなっているのでしょう?
テスの前では「クールな紳士」を通していたマオですが、大人たちの前では少年っぽさが出てきますね。
人知れず「やっちまった」感に悩んでいる彼ですが、それは今後のお楽しみということで!!
テスたちのちょっと贅沢なディナー、マルゲリータはトマトとモッツァレラチーズとバジルのシンプルなピッツァ。
カポナータはシチリア料理で揚げナスと野菜の甘酢煮。フランスのラタトゥイユに似ていますが、こちらは普通は砂糖や酢は入れません。カポナータとラタトゥイユは似て非なるものですね。カポナータは元々魚料理だったそうで、むかし高価な魚に手が出なかった庶民が、魚の代わりに揚げナスを入れて代用したのが始まりだそう。だから「揚げナスの」とちゃんと頭に付けないといけないんだとか。
ポルペッテはイタリア風肉団子。大きさはゴルフボール大で、パセリや松の実を加えて、トマトソースで煮込むのが南イタリア風だそうです。
次回、第一話最終回。その後、SSが続きます。




