18. トランキライザー・ブルー その④ ☆
テスとマオはラブーフの追撃を撃退して、ダリオル通りを西へ。いよいよパンペルデュ区へと入ってい来ます。
もうすぐクリスタの待つアパートメントへ!
――6分後。あたしとマオはダリオル通りを西に向かって歩き出していた。
石畳の路はダックワーズ公園を離れ、パンペルデュ区へと入る。
この地区はロクム・シティの下町だけど、閑静でリラックスできる落ち着いた雰囲気の街ね。大学等教育機関が集まったトゥロン区(あたしの通っているカヌレ大学もここにある)が隣区にあるから、北パンペルデュ方面には学生や大学関係者も多く住んでいる。
地下鉄の駅もあるし、モッフルの森にも近いし、小洒落た洋服屋さんやこぢんまりとした雑貨屋さん、小さなレストランも多いの。
狭い路地が多いけど、活気もあって治安もいいわ。街の雰囲気も、ほどよく洗練されていてお高くとまっていない、というか。
公共施設も充実しているし、街の随所に小規模な公園や市場の立つ広場もあるから、カップルやファミリー層に住みたい街として人気があるんだってクリスタが言っていた。
だから大学の寮やトゥロン区の学生専用のアパートメントじゃなくって、パンペルデュ区でお部屋を探したのよ。
「物価も、ロクム・シティ内では比較的お安価いし。ここ大事よ!」
と力説したら、彼がクスリと笑った。
イラスト:「逃避行」九藤 朋様
クリスタとの待ち合わせの時間に遅れそうだから、あたしとマオは急ぎ足でパンペルデュ区の街並みを進んでいく。
アパートメントがあるのは大学に近い北側。ダックワーズ公園脇を通り、ダリオル通りを西に進んできたあたしたちは、まだ区内でも南端にいる。
ダリオル通りがプープラン広場に突き当たったところで折れて、ベニエ通りへと。そこからさらに北西へ、アパートメントのあるボストック通り4番地を目指すの。
クラビエデス通りと違い、この辺りは商店街で、日曜日の夜でも営業しているお店が多いから周囲は明るい。ダックワーズ公園周辺のように人通りが絶えるようなこともない。
街の賑やかさが、あたしたちを守ってくれる。ここまで来れば、襲撃される危険性はほぼないだろうと思うの。
「そうだね。また騒ぎを起こしたら、クラビエデス街の二の舞になる。さすがにあの男もそれは避けたいだろうね。ほら、あれを観て――」
彼が指さした先、街頭スクリーンに臨時ニュース速報が流れていた。クラビエデス街の防犯システムが一斉に混乱した騒ぎの鎮静と原因追及について、という内容だった。差し込まれた中継カメラの映像は、現場の慌ただしい様子を伝えている。
幸いにも盗難や強盗、ハッキングなど二次被害は無かった(安全調査局第2課の連中――たとえばラブーフとかが操作して被害拡大を防止していたのかな?)とは云え、事態の収拾にはもう少し時間が掛りそう。
すなわちベレゾフスキーを足止めさせておけるわよね。
あたしたちは顔を見合わせて、意地悪な笑みを交わしていた。
♡ ♡ ♡ ♡
ベニエ通りを1ブロック歩いたところで、近道をしようとマオが言い出した。
アクセサリー店の角を曲がり、狭い路地に入る。ぼんやりとした街灯と、営業中のお店の窓やショーウィンドウから漏れる光が石畳を照らしている光景は、温かく感じられて、いつかどこかで出会ったことのあるような不思議な錯覚を起こさせたの。
こんなところにこんな路地があるなんて、知らなかった。
左手に見えるのは小さなビストロ。ニンニクを炒めた食欲を刺激する香りが、あたり一面に漂っている。この香りの誘惑には、空腹を抱える人間は逆らえない。ああん、お腹が空いたよう。
赤色に塗られた窓枠の上に白い猫が寝そべっていて、ミントの鉢の影からあたしの顔を見てニャアと一声鳴いた。「いらっしゃいませ」とでも言っているのかな?
その顔が、不細工だけど愛嬌があって可愛い。
その隣のお店はパブ? 壁面がツタで覆われているし、小さな窓も鎧戸が閉まっていて、中の様子はうかがえない。でも、音楽が聞こえてくる。有名なジャズのスタンダードナンバーだ。
向かい側は雑貨店よ。母娘連れのお客様が熱心に商品を選んでいる。プレゼントでも選んでいるのかしら? 楽しそうで、いいなぁ。
どこからか甘い匂い。濃厚なバターとお砂糖の……ああ、これはきっとどこかのお店でお菓子を焼いているのに違いないわ。匂いに釣られそう。
この路地の魅力は、なんと言ってもこの穏やかな生活感ね。クラビエデス通りの裏路地とは違った空気が流れている。
へえ、路地にもいろいろな顔があるんだ。
道行く人たちの足取りもどこかのんびりと、街並みの景色を楽しみながら歩いている様子なの。でも、
「テス、少し急ごう。時間に遅れそうだ」
振り返ったマオがあたしを急かす。
ああん、ウィンドウショッピングさえも出来ないのが残念だわ!
二つ目の角で、また別の路地へと入る。
現われたのは静かな街並み。この通りは職人さんや工芸家さんたちの工房や事務所が軒を並べている。角をひとつ曲がっただけなのに雰囲気ががらりと変わっちゃった。
そぞろ歩きの人たちが大勢いたさっきの通りに比べ、人通りの絶えた薄暗い路は寒々しい感じもする。
きっと昼間はものを作る音や工房で働く人たちが忙しなく行き交っているはずなのに、今は灯が消えたよう――というのは比喩であって、ホントに灯りが無いわけじゃないわよ。
「CLOSED」の看板が掛っていても、まだ灯りの点っている工房が何軒もあるから。ほら、職人さんたちが作業をしている姿が、ショーウィンドウから垣間見えるでしょう。
仕事場も兼ねた店舗のショーウィンドウには、個性的な作品たちが芸術的に並べられていたりするわ。
靴にバッグなどの革製品を扱う工房、銀細工アクセサリーの工房、こっちは家具類、画廊なのか絵や彫刻が飾ってあるショーウィンドウもあった。
そのショーウィンドウの形も、工房ごとにどれも違う。作品はもちろんのこと、飾り付けひとつを取っても、それぞれ意向を凝らしてセンスを張り合っているのかな。
うわぁあ。あのお店の飾り窓、なんて素敵なの!
だけどだんだん方向感覚がおかしくなってきた。迷路みたいなこのあたりの路地にひとりで入り込んだら、迷子になって抜けられなくなりそうな気もする。
「マオはロクム・シティの街並みに詳しいのね」
「それほどでもないよ。以前通ったことがあるから覚えていただけ」
すごい! あたしなんか、すぐに忘れちゃうわ。だって、その「以前」がいつだったのか尋ねたら3年くらい前だって言うんだもん。しかも一度、よ。記憶力、凄っ!
んー。3年前って言ったら、マオはまだ中学生じゃない。
「なにしに来たの?」
「その路地の奥に古書店があるんだ。そこに本を探しに……」
「知ってるッ! ペーパーバックの本を扱っているお店でしょう。素敵な絵本がいっぱいあって。しかもあのお店の本って、装丁もみんな凝っているものばかりで目移りしちゃうの。あれ、この辺りだっけ? メリルに案内してもらったときは、もっと遠くだと思っていたんだけど」
「ほら、あそこ。あの看板の店でしょう。リドル堂古書店」
「そう!」
薄暗い路地の奥に、小さな光の漏れる窓。歩く老人の描かれた不思議な看板の絵は、鮮明に記憶に残っていた。だって本屋さんなのに不思議な看板でしょう。
行ってみたいけど、今は時間がないから、遠くから店の灯りを眺めて通り過ぎるだけ。あぁん、つまんない。
「マオも絵本を買いに行ったの? どんなお話?」
「……いや。僕が探していたのは絶版になった植物図鑑」
あはは。そうね。男の子が絵本を読むのって、幼稚園児くらいまでですものね。でも小さい頃のマオって可愛かったんだろうなぁ。
うん、女の子より可愛かったに違いないわ。
うふふ、勝手に想像してはほくそ笑んでしまう。
――――とか。
なんだろう、このハイテンション。あたしって確か「うつ」状態で、治療が必要なほど落ち込んでいたんじゃなかったっけ。ヨーネル医師のカウンセリングを受けていたのは、そのためだったよね。
あれ。どこへいったの、「うつ」は?
「ねぇ、テス。よそ見ばかりしていると、また転ぶよ」
「またって……、あれはつまずいただけで、転んでなんかいないわ」
あたしは頬を膨らませた。
(ソンナニ心配ダッタラ、マタ手ヲ繋ゲバイイジャナイ?)
(ちょ……ちょっと、なにを言い出すのよ? 「アタシ」ってば! 失礼でしょ)
(失礼? 失礼ッテ、ナニガ?)
(ソノ方ガイインジャナイノ? 嬉シインジャナイノ?)
(…………でも……)
「そうそう。さっきの話の続きだけど。
その古書店でメリルと一緒にアリスの絵本を見つけたの。ああ、メリルって言うのは同じアパートメントの上階に住む友人よ。
それで読み聞かせのボランティアをすることになっていたから……あっ!」
石畳につまずいてあたしの身体が傾くと、横から伸びた彼の腕が素早く支えてくれる。
「ほら。僕の言ったとおりでしょう」
にんまりと意地の悪い笑みを浮かべる、彼。
「あなたはつまずく物が無くてもコケるんだから」
なのに差し出された腕は優しい。そこに当然のように寄りかかっている自分がちょっと嫌になる。
「あ……ありがとう」
「どういたしまして」
恥ずかしいから、そそくさと腕の中から離れることにした。それを「アタシ」が薄ら笑いを浮かべて視ていたわ。
路地を抜けると、もうボストック通りの5番地の交差点。見覚えのある風景が目の前に現われた。
黄金色に染まった、規則正しく並ぶ街路樹の列。それを照らす街路灯。
ロクム・シティでは珍しい高層集合住宅郡が目に入ってくる。
景観保護条例のおかげでロクム・シティの旧市街は7~8階建ての建物が多いんだけど、このあたりだけ再開発事業によりモダンな高層住宅――といっても市の景観保護条例で15階以上の建物はないんだけど――が立ち並んでいて、そののっぽな姿は市街地の中でもひときわ目立っている。
あたしとクリスタの住むアパートメントも、その中のひとつなの。
信号を渡って右に折れたらあと1ブロック。あともう少しだと思えば、心がはやる。
だから信号待ちの間も会話は止まらない。
「マオってエスコートも上手なのね」
「いろいろと仕込まれているからね」
「完璧エスコートプログラムも内蔵済み?」
「あなたは僕のことを合成人間だ、と思っているでしょ?」
マオが琥珀色の目を眇める。あ、怒った?
答えずに大股で歩き出す。ちょうど信号が青に変わったの。置いて行かれないように、あたしも小走りで着いていく。
渡りきったところで会話を再開。
「うふふ。だって、なんでも出来ちゃうんですもの!」
「まわりの大人たちからいろいろ教え込まれたからであって、完璧なんかじゃないよ」
あれ、まだご機嫌斜めなのかしら?
「そうなの。でも例えマオが合成人間だったとしても、あたしはマオのことす……」
「あぶない!」
クレープ屋さんの立て看板に脚を引っかけそうになったところを、彼に腕を引かれ危うく回避した。
「あなたの場合、エスコート以前に面倒を見てくれる召使いか、教育係が必要な気がする」
「ひ……ヒドい!!」
助けられた拍子に、あたしはまた彼の腕の中に倒れ込むことになっていた。今度は背中からひっくり返りそうになったところを受け止められたので、まるで後ろから抱きしめられるような態勢になっちゃって、彼に包み込まれるような感覚。
見上げたあたしの目と鼻の先に、花よりあでやかな彼の容貌。
(ち……近いぃぃ!)
一気に頬が熱を上げて。
漂ってきたクレープの焼ける香りが、追い打ちを掛けるように甘い気持ちを煽り立てる。
何度目? あたしはこの腕に助けられてばかりだわ。
それだけじゃない。クリスタにだって、メリルにだって迷惑かけてばかりだから、悔しいけれど彼の言うことは正しいのだろう。
「うん。そうね。そうだよね」
素直に納得したら、今度は彼の方が困っちゃったみたい。
もう、もう!
「あ、あのね、マオ。今日は本当にありがとう。
それで、ね。お礼に、あなたにお茶の一杯でもごちそうしなくちゃいけないと思うんだけど、クリスタとの約束でシェアルームに男性を入室させちゃいけないことになっているの。それに今は、お互いにこの後の予定も入っているし、ね」
マオがうなずく。
「だから……だから日を改めて、またカフェ・ファーブルトンへ来て! そうしたら、ごちそうするわ。マオの好きなもの」
「いいの?」
「珈琲がいい? それとも紅茶? あのお店は、ベイクドチーズケーキが名物なのよ。でもね、実は軽食で提供されるオムレットやクロックムシューも人気があって……」
「あ、そっちがいいなぁ」
マオが笑った。トレードマークのひそやかで妖しい笑みじゃなくて、ふわっと。蕾がほころんだみたいに!
ひゃあぁぁん、テンション爆アガリよ!!
♡ ♡ ♡ ♡
秋の夜風が肌を刺すようになってきた。
天空にはレチェルの衛星が、ぽっかりと浮かんでいる。綺麗だけど、もうすぐあそこからマオが本当の月に返ってしまうのかと思うと、とても冷たく見える。
はぁん。こうして観ると、玲瓏とした月の姿ってマオに似ているのかも。クールでミステリアスで、いわくありげなところ。ねぇ、そう思わない?
リドル堂古書店へメリルと訪れた際に月のお姫様のお話を見つけたんだけど、マオがあのお姫様みたいな豪華な装束を着たら似合いそうだわ。とりどりの色目の単衣を重ね合わせて、長い黒髪をとき流して。
――なんて言ったら、絶対怒るわよね。妄想だけにしておこう……。
ううん。そんなことより!
マオは平然とした顔をしているけど、月行きの最終便にちゃんと間に合うのかしら? 不安になってきた。
小さな花屋さんの前を通り過ぎて、緩やかにカーブする舗道を急ぐと、左手にアパートメントが見えて来る。
ボストック通りに面した、お洒落な外観の15階建ての高層住宅。
ああん、家を出たのは今朝なのに、何日も留守にしたように懐かしい感じがするわ。だって、いろいろなことがありすぎて。
1週間分位の出来事を、約2時間に詰め込んじゃったってカンジよ! TVドラマか映画の中の主人公並みの展開だったもん。
ふう。溜め息出ちゃう。
そんな風に少しボーッとしていたものだから、アパートメントの共用玄関前に立つ彼女に気が付いたのはマオの方が先だった。
「ねぇ、テス。あの人影」
彼の指差す先に、
「クリスタッ!」
あの高身長、スラリとしたスタイル。ここからでもわかるカリスマ的オーラ!
通行人がみんな振り返っているもの。間違いないわ。
「クリスタ、クリスタぁー!」
あたしは手を振る。テンションが高いから、大袈裟なくらいブンブンと手を振る。
ああ、クリスタも気付いてくれた。手を振り返してくれたよ。
ああん、やっぱりクリスタの顔を見ると安心する。あたしの大好きな親友ですもの。幼稚園の頃からいっしょの、幼馴染みですもの。
一刻も早く彼女と再会の抱擁をしたくって、自然と脚は前へ前へと出て行く。早足がいつの間にか駆け足になって、気付いたらマオを追い越していた。
(あ、そうだ!)
いけない、目の前のことに夢中になると、他のこと忘れちゃう。振り返り、彼に声を掛ける。
「来て! マオのこと、クリスタに紹介したいから。早く!」
彼がにっこりと笑ったから、了解したのだと思った。だからロクに確認もせず、あたしは親友の元へとダッシュしていた。
イラスト:天界音楽様
クリスタの名前を叫びながら、胸へと飛び込む。
「お帰り、クリスタ。会いたかったよぉぉ」
「テス!」
クリスタと再会のハグ。お互いの存在を確認し合うような、いつもよりぎゅっとキツめの抱擁を交わした。
立ったままだと身長差があり過ぎて不格好な抱擁も、抱き締めるとフワリと香るこの香水もクリスタのものよ。
「あたしが不在かった3日間、ひとりで大丈夫だったかい?」
「うん。なんとか」
ギュッとクリスタの背中に回した腕に力を込める。30センチ以上の身長差のせいで、彼女は抱え込むようにギュッとしてくれる。
「さっきクラビエデス通りの騒ぎに巻き込まれたって聞いたときには、心配で生きた心地もしなかったよ」
「そんな大袈裟よぉ」
無事を確かめ合うように、お互い、またギュッと腕に力を込める。
「携帯通信用端末機だって、通じなくなっちまうし。もう。おまえさんは心配ばかりかけて……」
「ごめ~ん。ちょっとトラブルが重なって」
ちょ……ちょっと。クリスタ。心配だったのはわかった。
でも、それ以上は力を込めないで! 苦しぃ……。
背中を叩いて苦痛を訴えれば、すまなかったと腕の圧を緩めてくれる。ああん、これもいつものパターン。
「それで、なにがあったんだい?」
「ええっと。話すと長くなるから、それは食事をしながらでもいい?
それよりクリスタに紹介したい人がいるの! そのてんこ盛りのトラブルから、あたしを助けてくれた男の子よ。あのね……」
――と勢いよく振り向いた時、ボストック通りのどこにも彼の姿は無かった。
「え!?」
まばたきを何度も繰り返すあたしの目に映ったのは、黄金色に染まった街路樹の葉が夜の風に舞う光景だけだった。
『テスとクリスタ』へのご来訪、ありがとうございます。
九藤 朋様、天界音楽様。素敵なFAありがとうございました! ムードたっぷりなイラストで、どこに挟もうか悩んでしましました。
九藤様のイラストの背景、クラビエデス街の裏路地ですよ! わかりました?
クラシックなドレスをまとったクリスタ、素敵ですよね~。パラソルも持って、お散歩でしょうか?
さて。今回はテスへのご褒美回。今まで頑張ってきたテスへ、甘々のスイートなデート(!?)をプレゼント。「うつ」もどこへやらのハイテンションでしたが……。
無事にクリスタに再会できたテス。ところがマオの姿はどこへ消えてしまったのでしょう。
続きは、次回。お楽しみに。
それでは、また。