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黄金の庭に告ぐ  作者: 紅崎ナヤ
1話:僕たちは駆け落ちをした
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黄金の庭、その実態

 石造りの窓から陽光が目蓋を撫でるように差し込んできて、まどろみの心地良さに包まれる。何処からともなく耳に届く、やわらかな歌声。何を考えるのも罪になるような優しい空白に、夢心地で身を委ね――。

「――っ!?」

 瞬間、フィランはカッと目を見開いて素早く周囲を見回した。手元の槍、懐の財布、そして何よりも、寝台で未だ深い眠りの内にある大切な恋人。

『いけない、すっかり眠りこんでしまった』

 薄く光の透ける簾の向こうから、楽しげな歌声が聞こえてくる。何も起きていないことを確認して、フィランはようやく自分がどういった状況にあるか思い出した。

 雨の中出会った少女に案内された診療所で寝台は二つ用意されたが、フィランは一つをティレに使わせ、自分はその脇で座ったまま休んでいた。無論、何かあった場合のためである。長旅の辛さが、彼の警戒心を槍の切っ先のように鋭くしていた。

 しかし座ってうとうとするだけのつもりが、すっかり熟睡してしまったようだ。緊張の連続で、思っていたより心身共にまいっていたのかもしれない。こうなるのだったら腹をくくって寝台でしっかり休んでおけばよかった。

 杏色の柔らかい髪を撫で付けながらフィランはかぶりを振る。守るべき者が存在するのに、自分がこれでは形無しだ。必要以上の無理は自己満足と他人の感動、そして非効率と致命的な過ちしか生まないのだと、いつかの師の言葉が思い出されて耳に痛い。

 木張りの粗末な部屋には、フィランたち以外の患者はいなかった。二つの寝台があるだけでも窮屈なほどに狭いのだ。あまり繁盛している診療所ではないらしい。フィランはひとまずこの現状に感謝していた。多数の人目に晒されれば、追っ手に足跡を残すことになりかねないからだ。

 立ち上がろうとすると、節々が軋んで平衡感覚がぶれた。どれほど眠っていたのだろう。空腹を通り越して、全身が空っぽになってしまったような頼りなさがあった。だが蹲っているのは危険だ。破滅を招く黒の御手はこちらが油断している間に全身を絡めとっているもの。状況は正しく把握していなければならない。

 恋人を起こさないように立ち上がり、その寝顔を見下ろして、フィランは拳を握り込んだ。窓から差し込む僅かな陽光にも気付かず、薄闇の中でティレは眠っている。薬が効いているのだろうか、苦しげな様子が見られないのが唯一の救いだ。快方に向かっていると願いたかった。

 そっと指を伸ばし、額にかかる細い髪を払ってやる。フィランは何よりも彼女を失うのが一番恐ろしかった。失えば、自身が生きている理由がなくなってしまう。

 絶対に守らねば。何があっても。

 歪んだ頬を引き締めると、フィランは死んだように眠る恋人に背を向け、扉代わりにかけられた厚布をめくって外に出た。



「あ、おはようございます。もうこんにちはの時間ですけど」

 ぱっと視界が開け、診療所の古びた住まいが飛び込んでくる。炉の前で歌を口ずさみながら鍋をかき回していた少女が、こちらを向いて零れるように微笑んだ。フィランを案内してくれた彼女はマリルという名で、ここで医術を学びながら暮らしているそうだ。

「おはよう。どれくらい寝てたかな」

「丸々一日です。疲れはとれましたか?」

 雨が多いのだろう、よく空気が抜ける作りになっている小屋には様々な薬草が所狭しと積んであり、炉からは独特の香りが立ち込めている。落ち着いた住まいに、フィランは表情を緩めた。

「うん。世話になったね。本当にありがとう」

「そう思うんならとっとと出ていきな」

 不意に別方向から刺々しい言葉を投げかけられ、はっとする。顔を向けると、入り口に空の桶を抱えた背の高い女性が立っていた。

「迷惑なんだよ、突然押し掛けて居座られちゃね。こちとら慈善でこの仕事してるわけじゃないんだ」

 日に焼けた肌にそっけなく紫の長髪を流した女は、染みの浮いた頬に敵意を宿し、険のある瞳を細めた。この診療所の主人で、担ぎ込まれたティレを診察した医女ミモルザである。マリルが思わずといったように立ち上がり、非難の眼差しを主に向けた。

「ミモさん」

「黙りな、マリル。アンタもアンタだ。その辺に転がってるからって病人を一々拾ってくるんじゃないよ。野垂れ死にする馬鹿を相手にしてたらキリがない」

「で、でも」

「マリル」

 フィランは慌ててマリルを手で制し、ミモルザに向き直った。きつい目をした医女の言うことは、正論以外の何物でもなかったからだ。この不安定な時世である。突然押し掛けてきた素性も知れぬ旅人に対して好意的になれる人間がどれほどいるだろうか。手当てをして寝床を貸してくれただけでも格別の対応と言えよう。

「すぐに出ていきます。ただティレが起きるまで待って頂けませんか。勿論、それだけの金額は置いていきます」

「当たり前さね。そうでなけりゃ叩き出してるよ」

 ミモルザは事も無げに言い放つと、鍋を覗き込んでマリルにいくつか注文をつけ、部屋の隅で薬草の仕分けを始めた。

「……座って下さい。お腹が減ったでしょう」

 マリルは物言いたげであったが、溜息と共に小声で席を勧めてきた。

「いいのかな、ご馳走になって」

「朝の残り物でよろしければ。あなたも相当顔色が悪いですよー」

 間延びした口ぶりで指摘され、フィランは薄く笑って粗末な椅子に腰掛けた。

 そのとき、熱を通した穀物の優しい香りがふわっと広がった。マリルが炉の上で温めてあった壷の蓋を開けたのだ。口内に唾が沸き、思い出したように胃がきりきりと刺激される。とろりと器に盛られた麦粥を、フィランは生まれて初めて見る心地で凝視した。暖かい食事など、最後にとったのはいつだったろう。増して、落ち着いて食事が出来る環境など。

「はい、どうぞ」

「……あ」

 どうも、と掠れた声で呟くと、今までの出来事が走馬灯のように駆け巡り、唇を震わせた。

 湯気を立てる粥を受け取って口にすると、甘味と塩味がじんわりと舌先を刺激して、あとはもう無我夢中でかきこんだ。暖かいものが喉を通って胃に落ちていく感覚が驚くほどに心地よい。養分が指先まで染み渡り、全身が息を吹き返すようだ。血流が良くなったこめかみが熱くなり、涙が零れそうだった。

 マリルがそっと水を差し出してくれる。フィランは礼と共に受け取ると、それも一息に飲み干した。

「マリル。片付けが済んだらそいつをマダム・クレーゼのところに連れていきな」

 ようやく腹が落ち着いて、ぼんやりと顔をあげると、僅かに振り向いたミモルザは鼻を鳴らした。

「この島に世話になった者はマダム・クレーゼに挨拶するのがしきたりだ」

「島長さんの奥さんで、この辺りを取り仕切ってらっしゃる方ですよ」

 空になった椀に匙を置いて考え込んでいると、マリルが気遣わしげに覗き込んできた。

「本当に大切なんですね、恋人さんのこと。でも大丈夫です。ミモさんは性格アレですけど、病人はしっかり守ってくれますから」

「マリル」

「じ、じゃあ行きましょう!」

 殺気だった視線にぎょっと肩を飛び上がらせたマリルは、この場からの離脱が最も適切と判断したらしい。彼女は取り上げた椀を洗い用の砂場に放り込み、フィランの腕を取って外へ連れ出した。フィランは慌てて転ばぬように足取りを合わせる。薄暗い室内から踏み出すのは、まるで光の袂に足を踏み入れるようでもあった。

 外は快晴である。きらきらと照りつける初夏の太陽に瞼を強く刺激されて、フィランは顔をしかめた。まるで昨日の雨が嘘のようだ。

「あはは、後でミモさんに叱られますー」

 何故か楽しげに言いながら、マリルは手を離して数歩先を歩いていく。砂っぽい道をサンダルで踏みしめながら、フィランは顔を横に向けた。


 ――ざあっ!


「……」

「どうしましたー?」

「海、じゃないんだよね、これ」

「はい」

 肯定されても、フィランはそれが信じられなかった。フィランが立つ緑多き丘の下には、穏やかに波が打ち寄せる砂浜が続いている。何処までも青いその遥か向こうには――彼方に霞む水平線。

「湖です。後で水を舐めてみるといいですよ。しょっぱくないですから」

 海だったら塩が取れていいんですけどねえ、と呑気に呟くマリルの長い髪を、風がぱたぱたと靡かせている。フィランも自らの髪が頬を叩くのを感じながら、暫し呆然と水と空の境界を見つめていた。その青さは眩暈がするほどに濃い。

 彼らがいる場所は、そんな海にも見紛う巨大な湖の淵に砂粒のように浮かぶ島であった。黄金の庭と謳われた都市ヴェルスとは、浅瀬から渡れるほどに近い。そんな島の切り立った丘の先には、古いが一際背の高い灯台が建っていた。現役で働いているこの灯台は、広い湖を走る船たちの道標となっているのだ。

 ――通称、灯台島。そうマリルは島の呼び名を教えてくれたものだった。

 そして都市側に顔を向けたフィランは、かの『行ってがっかりした観光地番付』で見事首位の座を獲得した黄金の庭ヴェルスの全貌を、灯台島から俯瞰するに至ったのである。

「……うーん」

 目の上に手を翳して眼前に聳え立つ都市を眺め、フィランは眉を潜めた。

「思ってたよりは普通かな」

 割と失礼な感想を漏らしてしまうフィランである。

 湖を抱くように広がった都市の面積は、帝国内では中々の規模といえるだろう。街道を行き来する馬車や人の多さで、活気付いている様がよく分かる。農業が盛んだというのは本当らしく、都市外の果てない平地には雄大な麦畑が青々と広がっていた。かつては見事だったろうに今やぼろぼろに朽ちた城壁が都市を取り巻く様は物悲しいが、このような光景も帝国内では珍しくはない。数多の国を飲み込み地上の覇者と賛美される帝国ファルダはあまりに広大すぎて、戦争が行われる国境も遥か僻地。帝国内に取り込まれた都市の城壁は、どれも無用の長物と化して久しい。

 そんなヴェルスに至っては、遠くから見た限りではとりたてて珍しい建物もない。神殿や競技場などが目立って見えるが、それらもこの程度の規模の都市ならあって当たり前の建造物だ。建築様式も平凡で、まさに『それなりに栄えてたけど帝国内に組み込まれてからは属州としてうまく帝国文化を取り入れながら細々と生きてます、てへっ』といった感じである。確かに黄金の庭を想像していってこれだったら、誰でもがっかりすることだろう。フィランは深く頷き、納得した。昔は繁栄していたのだろうが、今や地味な地方都市としか言いようがない。

「ギルグランス様っていう貴族の方が帰ってくる前はうらぶれてたんですけどねー、最近やっと元気が出てきたんですよ」

「へえ」

 その名前には聞き覚えがあった気がしたが、フィランは相槌を打つに留めた。貴族という言葉は、あまり胸の内にたゆたわせたくない。

「それにしても、マリル。どうしてこんなところに人が住んでいるんだい?」

「はい?」

 マリルの無邪気な顔を前に、フィランは言いにくそうに視線を逸らした。その先には煉瓦と木を組み合わせた粗末な家がぽつぽつと建っているのだが、どれも廃屋らしく朽ちかけているし、診療所から出てからというもの、人っ子一人すれ違わない。昔はそれなりの集落だったのだろうが、何せ人で賑わう都市が目と鼻の先にあるのだ。灯台守でもなければこんな寂しい場所に住む理由などないではないか。

「こんなところに住んでて寂しくないのかい?」

「あははっ。おかしなことを聞きますね」

 マリルは不思議なほど明るい顔で、フィランの不安を笑い飛ばした。

「ここはとっても賑やかで、全然退屈しませんよ?」

 そう首を傾げてぱたぱたと走っていく少女の後姿に、フィランは口の端を曲げることしか出来ない。どこからどうみても寂れた廃墟でしかないのだが。

 マリルが案内してくれたのは、切り立った岬にある小さな屋敷であった。美しい花壇で彩られたそこは、灯台島の中では最も優雅に装っている。都会育ちのフィランにはその静けさが何処か懐かしく映った。生家に少し似ていたからかもしれない。

 マリルは跳ねるように駆けていって、軒先で花の手入れをしている大柄な奴隷にいくつか声をかけた。奴隷は頷いて屋敷に入っていく。

「相変わらずマリルは愛いのう」

「ひょえ!?」

 そんな様をぼんやりと眺めていたフィランは、突然背後から声をかけられて文字通り飛び上がった。

「ひょひょひょ、旅のお方。道のど真ん中に突っ立っていては爺が通れないのじゃ」

 振り向くと、腰の曲がった老人がニヤニヤ笑いながら見上げている。この島の住民は妙な人が多いとフィランは思った。

「す、すみません」

 慌てて避けてやるフィランに気付いて、マリルが再び駆け寄ってくる。

「島長さん! こんにちはっ」

「ほうほう、マリル。今日も元気だな、ほれ」

 老人は満面の笑顔で、礼儀正しく挨拶するマリルの臀部をぽんと叩いた。

「ふえっ」

 ぼっ、と湯気を立ててマリルの頬が紅潮する。殴っていいかなこの爺さんというかこの人島長なのかよ、とフィランは内心で色々と考えた。とりあえずティレに同じことをしたら血祭りにあげようと胸に誓う。

「も、もうー! 島長さん、神様に怒られますよっ」

「ふぉふぉふぉ。可愛いやつめ。ん、家内に用か?」

 老人は小さく唸り、溜息をついて首を振った。

「そうか。気ぃつけろよ、あいつ最近気難しいんじゃ。下手なことを言うと射殺さんばかりの視線をよこしてきて、爺はもう恐ろしくてのう」

「まあ、そうかしら。だったら改めなくてはね」

「うむ。ついでに小言が多いんじゃ。それはもう、一つ動くたびに百の言葉でなじられるほど。旅の方、ここは爺の苦労を慮って一言言ってやってくれないか」

「あら。あなたのことを思うからこその小言ですよ」

「いいや、違うんじゃ。昨日だって……うむぅ?」

 そこまできてやっと違和感に気付いたらしい。杖を振り回しながら講釈を垂れていた老人が顔をあげると、そこには背筋の伸びた老女が女神も見紛う微笑を称えて立っていた。

 この爺さんの人生終わったな、と思ったフィランは、口の中で神の名を呟いた。

「は、ははははは。我が麗しき妻よ、今日の飯はまだかな?」

 全身から血の気を吹き飛ばさせた老人が猫撫で声をかけると、灰色の髪を美しく結い上げた老女は、ふんわりと首を傾げた。

「まあ。嫌だわ、あなたったら」

 くすくすと口元に指を当てて笑う。そうして判決は軽やかに、また残酷に下された。

「次の食事は三日後ですよ」

 ひっ、と老人が後ずさり、へなへなとその場に崩れ落ちた。

「あ、あんまりじゃぁあ」

 老女――マダム・クレーゼは、夫の悲痛な叫びを軽やかに無視してフィランに向き直ると、褪せた色の瞳を優しく緩ませた。

「まあまあ、旅のお方。ようこそおいで下さいました。歓迎致しますわ」



 ***



「太陽の色をした瞳ね」

 長椅子に腰掛けたクレーゼに名乗った途端そう言われ、フィランは若干戸惑った。

「別に珍しい色じゃありませんよ」

「そう? 綺麗な色だわ」

 先ほどの奴隷に給仕して貰った水の器を手中に収めたまま、ためらいがちに笑うしかない。フィランは自身の明るすぎる金色の目をあまり好いていなかった。

 案内役を終えたマリルが帰った後、フィランは老女と一人で向き合っていた。優雅な所作で膝掛けの布を引き上げるクレーゼは、見れば見るほど不思議な女性だ。一体何者だろう。振る舞いは貴族のようだが、それにしては生活が質素である。屋敷には瑞々しい花が至る場所に飾られているものの、豪華な調度品などはなく、奴隷も一人しかいない。事情があって島での暮らしを強いられた貴族といったところだろうか。罪を犯した貴族は島に流されることがあると聞く。

 ちなみに島長は部屋の隅っこの奴隷用の小椅子に座ってめそめそしていた。

「お連れの具合は如何かしら。昨日は随分悪いと聞きましたが」

「ええ、まだ眠っています。……疲れがでたんだと思います」

 言葉を紡ぐと同時に、胸に黒い靄がわだかまる。ティレに無理をさせたのは逃れようもないフィラン自身の責任だ。恋人の苦しげな顔を思い出すと、息が詰まりそうになる。

「駆け落ちしたんでしょう。無理もないわ」

 くすりとクレーゼは笑みを零す。その微笑は大海のように穏やかで、フィランは幼い頃に別れた母を思い出した。

「長い旅をしてきたのね」

 深い響きを持つ労わりの言葉は、指でそっと胸を突くかのようだ。

「はい」

 掠れた声でフィランは頷く。故郷を逃げ出した理由を無闇に語り散らかすつもりはない。だが、この老女の前で虚勢を張る気にもなれなかった。

「とても、とても長い旅をしてきました」

 優しさに触れた心がじわりと滲むのを自覚する。思えば故郷での出来事も、そしてここにある今ですら、全てが夢のようだ。フィランは今更ながらに襲ってきた疲労感を持て余し、俯いて目を伏せた。

 どうしようもなくなって、恋人の手を取ったのだ。ここではない何処かへ行かなければ。ただそう思って、全てを捨てて逃げ出した。

 だから立ち止まってはならなかった。そして手に入れなければならなかった。自分と恋人が、確かに生きてゆける場所を。その為には現実を曇りなく捉え、見定めなければいけない。

 なのに、何処まで行っても足元は不安定で、深い闇夜に果てはない。

 黙り込んだフィランを、老女は穏やかな瞳に映していた。痛ましい若者の姿から何を読み取ったのかは分からない。午後の静寂に、僅かな鳥の鳴き声が混じる。初夏の季節、窓の外は陽の栄えを受けて明るいが、室内は暑さも和らぐと同時に仄暗い。

「何処まで行くつもり?」

「……海を渡ろうと思います」

「まあ。海の向こうは未開の地と聞きますよ」

「それでも、この国よりはましです」

 静かだが、身を振り絞るような声音だった。クレーゼはゆったりと頷いて、彼の名を呼んだ。

「フィラン。良かったらこの島に留まっては如何かしら。行けるかも分からない場所を目指すよりも、この島は安全だわ。普段は人目につかないし、都市に出れば仕事もあります」

 フィランは頬を歪めて笑い、老女の名を呼んで返した。

「マダム・クレーゼ。あなたは何を仕出かしてきたかも知れぬ者どもを入れて、災いを招かぬとでも思うのですか」

 唸るような問いに対して、老女はまるで子供の虚言を聞いたかのようにくすくすと笑い出した。

「ここは特別な島なのよ」

「……意味がよく分かりません」

 とにかく、フィランにここに留まるつもりはない。いつ追っ手がそこに着ているかも知れぬのだ。彼らの手からは逃れなければならないし、親切にしてくれた島の住人に迷惑をかけたくもなかった。ティレの体力が戻り次第、すぐに出発するつもりだ。

 そのことを告げようとしたとき、外で激しい轟音が響き渡り、フィランとクレーゼは顔を見合わせた。

「何かしら」

 立ち上がったクレーゼに続いて、フィランも足早に表へと出る。追っ手であったら、すぐに手を打たなければならない。

 花の咲き乱れる小道を抜けると、廃屋が点在する集落に辿り着く。そこの一つの屋根が崩れ、瓦礫が地にぶちまけられていた。

「まあ、ジャド。どうしたの?」

 瓦礫の傍ら、煤塗れで咳き込んでいる若い男にクレーゼが駆け寄ると、彼はがばりと顔をあげてクレーゼに詰め寄った。

「ま、マダム・クレーゼ! 今逃げていく男を見なかったか!?」

 腰に剣をぶらさげ、紫の髪を鷲のように逆立てた中背の男である。動きやすい服装をしていることからして、賞金稼ぎか用心棒だろうか。クレーゼは首を傾げたが、フィランが鋭く声をあげた。

「あっちです! ほら、あそこ!」

「だーっ!! くそ、往生際が悪ぃな!? つーかあいつらは何してやがる畜生ッ」

 滝のように毒付くが早く、男は身を翻して逃亡者を追う。どうやら廃屋を壊したのは彼と逃亡者らしい。老朽化した屋根にでも乗ったのだろう。フィランがそんなことを考える内に、彼らの姿は見えなくなってしまった。

「マダム・クレーゼ。彼は?」

「ジャドよ。この島の人間なの。そういえば、近頃盗賊を追っていると言っていたわね」

「盗賊」

 フィランはふと考え込み、そして頷いてクレーゼに向き直った。

「分かりました、助太刀しましょう」

「え?」

 怪訝そうにクレーゼが振り向くと、若者は既に背中の長槍を引き抜けるように留め金を外している。

「屋根のある部屋と暖かい食事への礼です」

 そう笑みを残したが最後、フィランは男が去った方向目掛けて駆け出していった。

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