おまけ 「出会い」
おまけです。イラストのイメージが遠くなりました(汗)
ご注意を…。
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川獺と少年の出会い編。
■ 一 ■
―――暑い。
人気のない一本の山道、上から燦々と照りつける日差しと、地表から発される熱気にあてられて、そこは地獄の釜の底の様だ。
そんな場所を一匹の川獺がふらふらと歩いていた。
なんと奇異な事に、人のように二本の後ろ足で立ち、長い尾で上手く重心を取りながら危なげなく前に進んでいる。
その体躯は猫と同じくらいか。
地表の熱に炙られるのに堪えかねて、四つ足から二足歩行に切り替えた、この川獺。
見た目こそ他と変わりはないが―――実は早二百もの歳月を生きたあやかしであったりする。
頭に申し訳程度についた二つの耳、茶色の体毛で覆われた縦長の胴体、さらには水かきのついた短い四肢。
川獺は泳ぎが得意で、水中での生活に適した獣でもある。
そんな水妖がこの炎天下、乾ききった地表を歩んでいるのだ。
川獺に表情というものがあるならば、それは全身で暑い!と叫んでいた。
黒い小豆のような小さな目は虚ろで、垂れ下がった白い髭も元気が無く、足取りも重く引きずるようなそれだ。
丁度、山道の峠と峠の間、谷に差し掛かる所だった。
踏み固められた地面の両脇には、いささか萎れた風情の木立が所狭しと並んでいる。
似たような景色の中、時折、鼻をひくつかせてみるも、山につきものである湧き水の気配は遠く、踏み込んだ山道の終点もまだ見えてこない。
最後に水を口に含んだのは何時だったか。
川獺は水との相性もさる事ながら、水場で飛沫と戯れる川遊びも大好きだ。
連日の日照り続きで水不足の最中であれば、溢れんばかりの水場を恋しく思う気持ちは募るばかりで、容赦ない暑気に頭は朦朧とする。
川獺は酷くまいっていた。
だからだろう。
あやかしといえども、力弱い小さき身に変わりは無い。
普段はもう少し慎重になる筈なのに、道の脇に放り出された竹筒の水筒を発見して、何も考えずに飛びついてしまったのは。
小さな前足で自分の身体と同じほどの水筒を縦に抱え込む。
髭を震わせて匂いを嗅げば、丸一日ありつけていない甘露の匂いがした。
水だ。
青竹をくり抜いて作られた水筒は、無論、自然に生えているものではない。
真顔になった川獺はきょろきょろと辺りを見回した。
―――もしかして、落し物、か!?
ありえない。ありえないと思うが、通りすがりの旅人がうっかり水筒を落としたのだろうか。
川獺の切実な願望そのままに、周囲には水筒の持ち主であろう他人の気配は見当たらなかった。
ごくりと喉が鳴る。
飲みたい。頭から浴びたい。
―――匂いを嗅ぐだけでもいい。
このまま水場が見つからなければ、あやかしといえども、日干しとなって死んでしまうかもしれない。
他人の持ち物に手を出す後ろめたさより、生命への危機感が上回った。
器用に前足で飲み口の栓を抜き取り、一口、一口だけ、と、言い訳をしながら必死の手つきで青竹を持ち上げた。
―――その時。
「…ょおわっ!」
唐突に自分の身体が宙に浮いた。
急激に遠ざかる地面。目を白黒させつつも、咄嗟に抱き込んだ青竹は放さなかった。
―――近くには何者の気配もなかったというのに!
「何してるんだ?」
「!」
―――それが、一人の少年と川獺の出会いであった。
■ 二 ■
そして、今、川獺は苦悩していた。
「どうした。水浴びしたかったんだろ? ほら」
つい先ほど出会った一人の少年が淡々と勧めてくる。
人語を話す獣と知っても全く動じない彼は、人の子にみえるが、おそらく、多少ならず自分と同じ妖の者の血を引いている。
見た目こそ線の細い端整な若者だが、落ち着いた夜色の眼差しは底が見えない。右手にはめた黒の手甲と色合いの似た袴を穿き、武芸に通じる気配も漂わせている。
そんな彼が川獺の前にでんと置いたのは―――。
「玄武が喚んだ水気だから、水は汚れていない筈だけど」
―――気にしているのはそこじゃない!
内心、川獺は逃げ出したい思いでいっぱいだった。
あの青竹の水筒の持ち主であるこの少年に駄目元で頼んでみれば、ありがたい事にあっさりと水を恵んでもらえた。
そこまでは良かった。
しかし、ついうっかり口を滑らせてしまった事が、こんな予想外の展開を運んでくるとは。
―――あぁ、生き返るぅ! 後は全身水浴びできたら言う事ないんだけどなー!
飲み干した水が体内を流れ落ち、潤った。上々のままの気分で願望を口にすれば―――どういうわけか、少年が気を利かせてくれたらしい。
彼は四体の獣を使役しており、その内の玄武と呼ばれる一体が、水気を操る技を持っていたのだ。
そうして、旅道具の一つであろう小鍋に並々とたたえられた水。
人にとっては小鍋であろうと、小さな川獺にとっては十分に湯舟と変わらぬ広さがある。
水浴びが出来る。
だが…。
よぎった一抹の不安。
あまりにも―――川獺にとって幸運すぎる顛末。
どうして鍋なのだ。
―――もしや、このまま火にかけられて、自分は川獺汁にでもされてしまいやしないか?
何を隠そう、飢えた人間に夕餉として調理されかけた不運な経験もあったりする。
大人の拳ほどもない頭を抱えて、川獺は唸った。
「水浴びしないのか?」
―――お、おれはどうすれば…!?
結論が出るまでひたすら悩む川獺を、少年は何処となく面白そうな目付きで見守っていた。
***
進行方向が同じだったため、一匹の川獺と少年はしばらく、同じ山道を並んで歩く事になった。
といっても、歩幅は当然、人とこの小さき獣では差がありすぎる。急ぐ旅でもないが、この獣の速度に合わせれば、あっという間に日が暮れる。
そういうわけで、利便を重視した彼は、川獺を自分の肩に乗せてしまった。
川獺は喜んだ。
先ほどまで彼の存在に怯えていた事も忘れたように、肩の上で速い速いと歓声を上げている。この小さき獣の歩みと比べれば誰しも俊足に違いない。
あやかしとは思えぬ邪気の無さに、少年は黙って目を眇めた。
―――川獺という水妖は。
ずる賢く立ち回る、人喰いの妖怪として名が知られている。
美しい女性に化けるなどして油断を誘い、人を川に引きずり込んで喰い殺すのだ。
ところが、この小さき川獺はどうだろう。
本能的に彼の本性を悟り、逃げ出したいと言わんばかりの畏怖の目で見上げてきたというのに、今や目先の好奇にすっかり警戒を奪われているらしい。
なんで旅をしているんだ、とか、あの水気を操る獣は何だ、とか、今まで何処の国に訪れた事はあるか、だの、すっかり彼に懐いて、煩いばかりに質問を繰り出してくる。
毛色の変わったあやかしだと思ったが、さてもそれ以上だ。
妖力も微々たるもの。莫迦らしくて、退治する気など露ほども起こらない。
面倒なやり取りをかわすために逆に身の上を問えば、川獺はぱちぱちとつぶらな目を瞬いてから、雲一つ無い晴天を仰いだ。
「おれさ、生まれた時に身体が一番小さかったんだ」
同じ母親の腹から生を受けた兄弟たち。
その中で、一番弱々しく、なりも小さい。元気な兄弟に押し退けられて、満足に乳を含む事もできない。
母親も他の兄弟も、こいつはきっと長くは生きられぬだろうという目を川獺に向けていた。
弱者が生き延びられるほど自然界は甘くは無い。いずれ淘汰されていく。
それでも何とか細々と命を繋いでいた川獺は、ある日、狩に出掛けた川の中、皆とはぐれてしまった。
―――母さーん! みんなー! どこにいるんだよー!!!
川から陸へ上がって付近を必死に探しても、声を限りに叫んでも、ちっとも応える声は聞こえない。
やはりまだ川で狩を続けているのだろうかと、もう一度、水に潜って、流木の陰などを隅々まであらためた。
そうこうしている内に、いつの間にか日は落ちて、やがて川底は暗闇に閉ざされる。
―――おれ、ひとり…。
寂しくて、疲れきった身体は重たくて、やがて水を掻く手足は力を失っていった。
―――みんなに会いたいなぁ。
零れる涙。
小さな身体は水中を漂って。
このまま一匹、川に流されて、死んでしまうのだと思った。
「目も開けらんなくて、泳ぐ力もなくて、ただ川底でじっとしてたんだ。
このまま誰にも見つけられずに、死ぬのかなぁって。それは嫌だなぁ、死にたくないなぁって。
そしたらさ、おれが乗っかってた川底の石があったかくなってきて…!」
じわりじわりと身の内に染み込んできた力。
あれは一体、何であったのか。
「気がついたら、動けるようになってたんだ。今までにないくらい身体も軽くなってて。
そんでもって―――妖の者になってた」
それから母親と兄弟を探したが見つからなかった。
―――あの川底で過ごした時間が人の一生分くらいの長さであったと気付いたのは随分後の事だ。
そう簡単に死なない身となった川獺は、丈夫になったこの機会にと、見聞を広げるためにあちこちを旅して廻っているのだという。
「それなら、龍の噂は知らないか?」
「龍?」
不意に投げ込まれた問いに鬚をそよがせると、しばらく考え込んだ川獺は、ぽんと拳を手で打った。
「確か、前に通った三之国で、そんな噂を聞いたよーな」
「本当に?」
「うん、七ノ国を守護する龍がいるって。三之国でも守護龍募集の立て札が立てられていたぞ」
…そんな立て札で守護龍が見つかるかどうかはともかく。
今、彼らが歩んでいるのは、大陸の西端、二之国の中ほど。
対して七ノ国といえば、東の果てに近い地に築かれた国だ。
自分が辿り着くまであの厄介な二人が留まってくれればよいが、と、少年は頭痛を堪える表情になった。
「龍っておれもお目にかかった事はないけれど、すっごく強い妖の者なんだってな。
地を揺さぶり、天を泣かせるほどの。一度くらいおれも会ってみたいなぁ…!」
―――実はその相手の肩の上にいると知ったら、この獣は一体どうするのだろう。
ふと埒も無い事を思ったその時、川獺が真正面を向いたまま硬直しているのに気づく。
その視線の先を追ってみれば―――。
「て…て…手ぇっ!?」
何にもない宙に突き出された、なよやかな白い腕。
事情を知らない者が見れば、まさしく恐怖の光景だろう。
女のものと知れる優美な一本の腕は、ひらりと手招いて、こちらを惹きつける。
「あぁ、白虎」
愕然として川獺が彼を見つめる。
「なっ、あ…あれ、もしかして、お前の言ってた使役獣なのか!?」
「そう。怠け者だからあんまり全身、現出する事はないけど」
「…それって怠け者という言葉で終わる話なのか!?」
全身の毛を逆立てておののく川獺はひとまず置いておき、少年が事もなげに近づけば、白虎の白い腕辺りから声が聞こえた。
女のものらしき、高く澄んだ声音だ。
「主、この先に不穏な気が」
「不穏? 何だ、それは」
「さて? わたくしにはそれ以上の事は読めませぬ」
「読めないじゃなくて、面倒臭くて読む気がないんだよな、お前は」
呆れ顔になった彼は、それでも一応、役目を果たそうとしたらしい使役獣をねぎらった。
それを聞いて白い手のみの白虎は、普段、存在を置いているこの界とは別の異界にするりと消える。
「不穏な気か…」
この大陸では妖怪と人が共存している。妖怪とは、この世のあちこちに吹きだまっている魔の気を取り込んだ獣や器物の事だ。
魔の気は悪しきものではない。陰に通じるも、それもまた世の理を支えるに不可欠の存在。
著しく欠ければ、天変地異のかたちで世が乱れると云われるものだ。
魔の気を持つといえど、人を襲う妖怪はほんの一部で、大半は森や沼の畔で静かに暮らす者が多い。
―――が、最近になって、人の肉に味をしめ、人喰いに変じる妖怪どもが増えつつある。
彼は先が長いであろう人探しの旅路の合間に、偏りすぎた魔の気を取り除き、世の調和を保つため、そのような人喰いを退治している。
強大な力持つ者として生まれついた彼の、それは義務の一つだった。
先ほども人に身をやつした彼に襲いかかってきた一匹を返り討ちとし、逃げた相手を追って、仕留めてきたばかりだ。
白虎が告げた不穏の気というのも、十中八九、人喰いに関係するものだろう。
またかとうんざりしつつも見過ごせはしない。
そんな事があった後、相変わらず川獺を肩に乗せたまま山を下っていると、見えてきたのは分かれ道だった。
「あれ? こんな所に道があるんだ」
川獺が彼の心中を代弁する。
一方は麓に続く道だろう。緩やかに蛇行しながら下方に続いている。
もう一方は、より深い山の中腹へと切り込んでいく草木の下生えが濃い道だった。
「…」
その道が指し示す方角を見て取り、平静だった少年の眉がひそめられる。
幾重にも重なる茂みがその果てを確かめる事を拒んでいる。その奥は―――酷く昏い。
嫌な予感がよぎった。
―――日が暮れる頃に辿り着いた麓の村で、その予感は的中するのだった。
■ 三 ■
ようやく山を下りる事が出来たのは、空が夕焼けに染まる時分だった。
自分一匹の足で歩いていれば日の差さぬ夜になっても山中にあっただろう。
道の先に人の村が見えた時、川獺は少年の肩から飛び降りた。
「なんか、ずっと乗せてもらって悪かったなぁ」
何度か降りた方が良いか尋ねたのだが、少年は素っ気なく必要ないと断った。
横でちょろちょろと動き回られると踏みそうだし、と、付け加えられれば、川獺としては大人しく無言になるしかない。
「なぁ、お前、あの村にしばらくいるか?」
「いると思うけど、それが?」
「礼をしたいからさ! 本当なら魚、獲ってやりたいけど、川が干上がってるからなぁ…。
おれ、山の事も結構、詳しいんだ。とっておきの旨い茸、後で届けてやるよ」
二本足で立って胸を張ってみせれば、見下ろした少年の目がまるくなる。
「義理堅いんだな、お前」
「そうか?」
世話になったら礼をする。当たり前の事だと思う。
人の里で暮らした際にそう教わった川獺は、間違ってないよな、と、ただ首を傾げた。
「そういやさ、お前の名前はなんて言うんだ?」
何気なく口にした問いは思わぬ波紋をもたらした。今まで泰然と構えていた少年が急に押し黙る。
何とも複雑そうな顔つきになって、ようやく年相応のあどけなさが覗いたような、そんな表情だった。
あれ、と、川獺が目を瞬く。
「もしかして、お前もないのか?」
単刀直入にそう訊けば、少年がやや怪訝な眼差しとなる。
「…お前も?」
「うん、おれも。というか、おれたちの仲間は人みたいに名など持たないから」
黒いの白いの小さいの、そんな区分けがあるだけで、それは人の持つ名前という概念には及ばない。
「前に一緒に暮らした人がさ、おれの事を川獺だって言ったんだ。でも、それって名前じゃないんだってな。
名前の代わりにはなるって言われたから、おれはカワウソって名乗る事にしてるんだけど、そうしたら変な顔される。なんでだろうな?」
自分を示す言葉だと教えてもらったのに、人前でそう名乗ると、決まって妙な顔つきを返される。
個々の名ではなく、それは全体の種族を示す言葉だと説明されたが、似たようなものだろうと思っていた。
「そりゃ変だろ。カワウソなんて名前は」
「そうかぁ?」
本気で不思議そうにしている呑気な川獺に、少年はただ苦笑した。
「俺にはまだ名乗るべき名がない。この旅が終われば手に入るけどな。
それまでは仮初めの身だ」
「へぇ? そうなのか?」
名を手にする事の意味をまだ知らぬ川獺は、そういうものかと単純に思う。
なるほど、『名前』とはどうやらそう簡単に手に入るものではないらしい、と。
「早く名前、手に入るといいな」
そう願いを添わせれば、少年は目を細めて頷く。
川獺は立てた尾を陽気にひと振りして、鬚をそよがせたのだった。
■ 四 ■
その村は嘆きに満ちていた。
啜り泣く声は悲哀に満ちて。
絶望を抱えて蹲る。
***
「よし! こんなもんか、と!」
一日かけて越えてきた山中に戻り、世話になった少年への返礼をとあちこちを駆け回っていた川獺は、地面に積み上げた様々な茸を前にして、満足げに手を打った。
水不足の折といえど、山に自生している茸類への影響は少なく、十分な量を採る事ができた。
後はこれをどうやって運ぶかだが、妖術で人身に変われば、麓の村まで届ける事は容易いだろう。
姿変えの術はあまり得意ではないが、土産を手渡すくらいの間ならば何とか誤魔化せる筈だ。
山はすっかり夜闇に沈んでいた。
あれほど川獺を苦しめた熱気も冷え切って、むしろ、秋口の木枯しを予感させる涼しさだ。
夜が明けてから茸を取りに来ようとくるりと身を翻した時―――昼間に通った山道に松明の火がちらついているのを見つけて、目を見開いた。
こんな夜更けに山に人が?
自分と違って夜目の利かない人間が、危険を承知で山に足を踏み入れている。
―――きっとろくな事じゃないだろうな。
それだけで何か良くない事が起きているのだと予想がつく。
―――もしや、昼間に白虎が言ってた不穏な気って、こいつの事か?
山道に現れたのは一人二人の人間ではない。
およそ十人ほどの男衆が、一つの駕籠を担いで列を成している。
松明の火に浮かび上がったその顔はどれもが沈痛な面持ちをしていて、宵闇の所為ばかりではなく暗い。
粛々と進んでいく行列の先が気になった川獺は、思わず地を蹴って後を追いかけた。
重たげな足取りでありながら前へ前へと歩みを止めない行列は、やがて、二又の分かれ道に差し掛かる。
男衆は迷わず、川獺たちがやって来た山越えの道ではない、もう片方の山腹へと続く道を選んだ。
格段に闇が濃密となっていく山奥へと。
―――この先は何処へ続いているんだ?
時折、耳を澄ませてみるも、思い出したように鳴く虫の声や風が悪戯に騒がせる葉擦れの音、男衆の押し殺した息遣いしか聞こえてこない。
終わりは唐突にやって来た。
急に木々が途切れて、ぽっかりと視界が開けた。その先に見えたのは、真円を描く黒い水面。
周囲は草木の生えぬ岩地となっており、その中央に馬を一頭沈められそうな大きさの沼がある。
男たちはその前に駕籠を下ろすと、脇目も振らず、大急ぎで来た道を戻って行った。まるでその先にあるものから目を背けるように。
川獺は鼻をひくひくとさせて、駕籠に近寄った。
外から中が見えないように簾が下ろされているが、中には誰か、人の気配がある。
簾の下から中にもぐり込もうとして、だが、それを拒むかのように簾の裾が糊付けされている事に驚く。
簾を押し上げねば駕籠から出られぬというのに、なんと奇妙な事をするのだろう。
少し考えて、川獺はその場でくるりと宙に舞った。
地に降り立つ頃には、その姿は一人の娘に変わっている。変化の術だ。
あちこちに飛び跳ねた肩までの黒髪に、大きな瞳を持つ若い娘の貌、黄の格子縞の着物からはにょっきりと白い足が覗く。
…ただし、その後ろの裾からは、ふさふさとした茶色の尾がはみ出ていたが。
人の娘に化けた川獺は、早速、駕籠の簾に手をかけた。
この姿なら簡単に簾など引き剥がせる。
隙間に指を差し込み、強引に引っ張れば、何とか半分ほど毟り取れた。
「お前…」
ある程度、予想はついていたが、駕籠に乗せられていたのは、自分が化けた年頃と同じくらいの若い娘だった。
「っ!」
あの村の者だろう、華奢なばかりの娘は恐怖に目を見開き、簾を破った狼藉者から逃げようと駕籠の奥に背を押しつける。
少女となった川獺の顔が盛大にしかめられた。
「お前、もしかして、贄か何かか?」
真正面から問えば、泣き腫らした娘の目からまた、新たな涙が零れ落ちた。
やはりか、と、川獺はやるせない溜息を落とす。
大地の恵みに縋って生きる村人にとって水不足は切実な問題だ。
多少の犠牲と引き換えたとしても断じて失えないほどに。
川も干上がっているというのに、不自然に水をたたえたこの沼。
大方、沼の主に贄を捧げれば水を恵んでやるとでもそそのかされたのだろう。
―――その約定が真に果たされるものか、わからないというのに。
「可哀想にな」
そっとかけられた見知らぬ少女の言葉に、村の娘は堪え切れず、わっと泣き出した。
村のためにと覚悟を決めたとはいえ、まだ、幼さも残す娘だ。どれほど怖かった事だろうと痛ましく思う。
「うーん、どうしようか。こんな小さいやつが泣くのはおれも嫌だしなぁ」
川獺は考え込んで唸った。
「よし、お前、今日のところは帰れ」
「…え」
「おれがこの沼の主と話をつけてやるよ。雨が無くて困ってるんだろ?」
娘は途方に暮れて少女を見つめる。
川獺は明るく笑ってみせた。
「まぁ、もうちょい待ってみろって。それで駄目なら―――また、別の手を探そう」
川獺は娘の手を取って、駕籠の中から引っ張り出す。
立ち上がらせると、着物の袖で頬を濡らす涙を拭ってやった。
茫然とされるがままとなった娘は、突然の展開についていけずに、戸惑いも露に見つめ返した。
「あ、あなたさまは、もしや、神の御使いなのですか?」
「いいや、ただの川獺」
「か…わうそ」
「うん。おれが言うのも何だけどさ、雨を乞うならこんな怪しげな沼の主に頼むんじゃなくて、龍とか水神に頼んだ方がいいと思うぞ。
少なくともこんな所に雨を降らせるような大妖がいるとは思えな―――げ」
真面目に語っていた少女が、ごぼりと泡を立て始めた沼に、まずいと息を呑み込んだ。
さっさと逃げ出せばよかった。沼の主が差し出された獲物に気付いて、姿を現そうとしている。
「とにかく! 今は逃げろ! おれが足止めしてやるから!」
人の娘にも周囲の気配が急激に淀んだ事が感じ取れたのだろう。
蒼白になった娘の背を元来た道に押し出せば、張り詰めた糸がぷつりと切れるように一目散に逃げ出した。遠ざかっていく背に、川獺はほっと安堵の息を吐く。
「…さーて、どうしよっかなー」
本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
つい哀れな身の上に同情して申し出てしまったが、思い切り自分の首を絞めてしまったようだ。
今更遅いが、この、後先考えない自分の愚かさが恨めしい。
途切れる事無く泡が弾ける沼の中央に―――いっそう濃い影が浮かび上がる。
水面がぐにゃりとたわんだかと思えば、見る見るうちに小山のように盛り上がる。流れ落ちる水音が天雷のように重く轟いた。
大の大人が抱え込むにしても太すぎる胴体がするすると伸び、背の高い木立を突き抜けた先に鎌首が浮かび上がる。
やがて、闇を裂いて不気味な赤い光を宿す両眼が開き、地上を睥睨した。
沼の奥から黒光りする鱗をくねらせて登場したのは、途方も無い巨躯を持つ大蛇だった。
頭上遥か彼方よりこちらを睨みつける鎌首を認めて、川獺の顔が激しく引き攣る。
「でええぇっ! よりによって、大蛇かよ―――!!!」
絶叫がこだました。
■ 五 ■
勝てない。
絶対、勝てない。
いや、勝負を仕掛けようなぞ毛の先ほども考えていないが。
同じ水妖の類であるとはいえ、あまりに内包する妖力が違いすぎる。それよりも小さき川獺の一匹なぞ、あの大口で一飲みされたらお仕舞いだ。
されど、人の娘に沼の主を説得してみせると約束した手前、あっさりと逃げ出す事はためらわれて、仕方なくも川獺はその場に踏みとどまっていた。
もはや、自分の手に負えない事態である事は明白であったのだが。
「よ、よぉ、大蛇の旦那! 息災そうで何よりだ!」
笑顔、笑顔、笑顔、と唱える川獺の前に、ぬるりと降りてきた大蛇の頭が迫る。
ちろりと見え隠れする先の割れた舌に、川獺は内心、叫び出したい思いだった。
「小妖が儂の庭で何をしておる」
毒気の滴るしゃがれ声が響いた。
「わざわざ喰われにでも来たか。お前なぞ喰らっても腹の足しにもならんのだがな」
闇と同化する大蛇から低い嘲笑が発せられる。
何時の間にか風は止み、山は息をひそめるように静まり返っている。
高鳴っていく自分の鼓動の音ばかりが煩い。川獺は人の少女の姿のまま、知らず胸を押さえた。
「今宵は供物が届く筈であった。その駕籠がそのようであるな。
なれど、娘がおらぬのはどうした事か」
大蛇は赤い眼をじわりと細める。
―――次の瞬間、ぐわっと眼を血走らせて見開いた。
「邪魔をしおったな! 小妖の分際で!」
「っ!」
大蛇の全身から立ち上る凄まじい怒気に圧されて衝動的に後ずさる。
地を踏み締める足が勝手に震え出し、上手く息を吸い込めない。
今やあやかしの少女の面は、冬の月に勝るとも劣らぬ蒼白だった。
まともに話の通じる手合いでない事を思い知らされる。
これほどの力量差、相手の気分一つで自分の命など塵に終わる。
見込みが甘かった。
人の娘の命乞いをしている場合ではない。
―――だが。
「お、大蛇の旦那って、やっぱ、すごく強い御方だなぁ…」
川獺は泣きたいような笑いたいような顔になった。
「けど―――雨なんて降らせる事、出来ませんよね…?」
頭上から存在を押し潰さんばかりの沈黙が満ちる。
―――おれはなんで火に油を注ぐような、こんな挑発的な事を口にしているんだろう。
そう頭の片隅で思いながらも、止められなかった。
「いくら旦那だろうと、天を泣かせるほどのお力は無い筈だ」
そのような無茶が出来るのは、天におはす天津神か、最強と目される龍の他に存在しない。
並の妖怪にとって恐らるる大蛇であろうと、その二者とは比肩すべくもない。
だから。
「だったら―――あの村との取引は成立しないって事ですよね? 旦那」
もう笑うしかない。
膝は崩れ落ちそうにわなないて、背にはびっしょりと汗が噴き出ているのに。
言い切った。言い切ってしまった。
大蛇は返事をしなかった。
つまらなさそうに鼻を鳴らし、す、と身を引く。
「言いたい事はそれだけか」
大蛇があぎとを開いた。
すらりとした二本の長い牙を見せつけ、さらにぬめった咥内を大きく覗かせる。
生臭い息が吹きつけられて、川獺の身に怖気が奔った。
次の瞬間、風を唸らせて大蛇が襲いかかる。
一刻と迫る牙を見つめて、時が止まる。動けない。
―――やられる!
思わずぎゅっと目を閉じた。
あのおぞましい舌に絡め取られて牙を突き立てられる自分の姿が思い浮かぶ。
―――が、身を貫かれる衝撃は何時まで経ってもやって来なかった。
「…あ、れ…?」
緊張が解けて、身構えていた身体に五感が戻ってくると、背と膝裏にくい込んだ他人の熱を感じ取った。
次に地に落ちるような軽い衝撃があって、恐る恐る目を開ければ、そこには、つい数刻前に別れた少年の無感動な顔が。
「へ…? って、ぅぇえ!?」
娘姿の川獺を横抱きにしているのは、昼間に水を恵んでくれた妖の血を引く少年だった。
今は何処か呆れた色を眼差しに含ませ、こちらを見下ろしている。
「立てるか?」
訊かれて、惚けた頭のまま、頷く。
少年は手際良く、川獺の少女を地に立たせると、獲物を喰らい損ねて歯噛みしている大蛇の方へ向き直った。
「おのれぇぇ! またも邪魔しおってぇぇ!」
怒り狂った大蛇の鎌首が突進してくる。
対する少年は冷静そのものだった。
「―――朱雀」
「はいはいっと」
使役する獣の名を呼べば、少年の斜め前に突如として、真紅の双眸を持つ青年が立ち現れる。
「朱雀様風大蛇の姿焼き、ってねー!」
緊迫する空気をぶち壊すような軽薄な口調でそう言うと、青年は前に突き出した腕の先で、指をくいとしならせた。
それと同時に、大蛇の全身が烈火に包まれる。夜目にも鮮やかな火花が散った。
「ぎぃあああああああ!!」
水妖である大蛇としてはたまったものではない。
炎の中、のた打ち回ると、慌てて沼の中へと逃げ戻ろうとする。
だが、大人しく見逃してくれるほど、彼らは甘くはなかった。
いつの間に握ったのだろう、少年の手には細身の刃が幾つも現れ、それは無造作に投じられる。
狙い過たず、大蛇の眼に突き立った刃に、絶叫が迸った。
「招―――雷神」
静かな少年の声が命ずれば、頭上の夜空が一瞬、白に染まる。
―――間を置かず、天を切り裂く凄まじい轟音と共に白雷が大蛇を貫いた。
圧倒的な強さだった。
―――な、な、な、なんだ、これ!!?
地響きを立てて大蛇が倒れ伏すのを目の当たりにしても、目の前の光景はそう簡単に信じられるものではない。
一体、何が起きたというのか。
川獺の少女は大きな瞳を殊更まるくして、ぽかんとするばかりだ。
止めを刺した少年がこちらを振り返る。
じっと見据えられ、何を言われるのかと緊張に身を固くする川獺に、ぼそりと少年が呟いたのはこんな事だった。
「お前、女だったんだな」
「え…あ、うん」
人の姿であれば男女どちらでも化けられるが、一応、川獺自身は女の性を持っているため、この少女の姿をとる事が多かった。
他愛ない質問に、どっと身体の力が抜ける。
さっきまで大蛇と対峙していた際に麻痺していた恐怖が再び襲ってきて、少女はぼろっと涙を落とした。
「う、うわぁん! 怖かったー!!!」
叫んで、少年にしがみつく。
「…おい」
何処か困った様子で少年が声をかけても、必死な川獺は手を放さなかった。
「あっ、あのまま食べられるかと…! すっげぇ怖かったーっ!
助けてくれてありがとうなっ! おれ…おれ、お前に一生ついていくー!!!」
「…」
ひんひんと泣く川獺の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
少年は溜息を落とした。
「でっ」
でこぴんをされた。
かなり痛い。
「あまり無謀な事するなよな。お前があの大蛇に勝てるわけがないだろ」
「…見てたのかっ?」
「大蛇が沼の奥から出て来るのを待ってたんだ。まぁ、囮としてはお前は有能だったけど」
―――え、その言葉ってちょっと酷くない?
そう思ったが、助けられたのは事実だ。
やっぱり感謝の念は消えなかった。
「あらら、可愛い女の子じゃん。主も隅に置けないねっ」
「…朱雀」
宙で足を組むという器用な真似をしてみせる青年がこちらに寄ってくる。
少年の顔が無表情に戻った。
「用が無いならさっさと戻れ」
「えー? まぁいっか。そんなら、またねー、川獺のお譲ちゃん!」
ひらひらと手を振ると、彼は唐突に消える。
少年が昼間に話してくれた彼に従う四体の獣の内の一人なのだろうが、やけに軽い。軽すぎる。
ちょっとびっくりしたおかげで、涙も止まった。
身を離した少年はさっさと歩き出していた。
再び山中へと遠ざかっていく背を見つめて、川獺は立ち尽くす。
さすがにこの状況ではあやかしといえども、一匹取り残されるのは非常に心細くてつらい。
後を追っても良いだろうかと思考をぐるぐるさせて川獺が動けなくなっていると、少年が足を留めて振り返った。
―――あ。
置いて行かれなかった。
ぱあっと満面の笑顔になった川獺は走り寄ると、少年の腕に飛びついた。ぎゅっと抱き込んでくっつく。
少年が浮かべる微妙な表情などちっとも気にせずに、額を少年の肩に擦りつけた。
その様はまるで猫の仔のようだ。
―――まぁ、大して変わらないだろう。
何かを言う事を諦めた少年が天を仰ぐ。
一人と一匹は、そうして並んで、大蛇の沼から遠ざかっていった。
―――翌日、どういうわけか、村には慈雨が降り注ぎ、川獺はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
***
―――そうして、また、川獺は苦悩する。
川獺が山で集めてきた茸は恩人である少年の元へ無事に届ける事ができた。
そういうわけで、茸鍋をしようと少年は宿から炭の入った七輪を借りてきた。
熱された炭の上で、水を張られた鍋には具材が投入され、ぐつぐつと煮込まれている。
だが。
―――さっきから少年の視線が突き刺さる。
何かを期待するかのような笑みを含んだ眼差しが恐ろしい。
まさか、いや、まさか。
もしかして。
―――茸だけじゃ礼には足りないとか言わないよな…?
明後日の方向を向いた少年が真剣な面持ちで呟く。
「…川獺汁って美味しそうだよな」
「っ!!!!!」
―――川獺がからかわれている事に気づくまで、もうしばらくの時間が必要だった。
<終>
言い訳は活動報告にて。
すいません、格好良い少年を書きたかったのです…! 実現できているかどうかはともかく。
伊那さまにこっそりと捧げさせていただきます。というか、ごめんなさい!
素敵なイメージをありがとうございました! 平身低頭!