「狐の面と少年」
あくまで当方のイメージを元に書いております。その点、ご注意ください。
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人と妖の血を引く「まざりもの」の少年と、一匹の川獺の道中。
ざ、ざ、ざ、ざ。
土を蹴立てる。
小枝を振り払い。
奥へ奥へと。
息はとうに上がっている。
それでも足を止めないのは。止められないのは。
「!」
茂みを抜けた先、眼前にそびえ立つ絶壁を前にして、膝からくたりと力が抜けた。
―――行き止まりだ。
風に乗って微かに届くお囃子の声。
今宵は村祭。
翌日に備えて早々に就寝する村人も、赤々と焚かれた篝火の前で飲めや歌えやと浮かれ騒ぎ、いつの間にか、頭上遥かに月が昇りきっている。
そして、宵が深まるにつれ―――賑やかな広場から少し離れようとする者が出てくる。
祭の喧噪から遠ざかり、穏やかな眠りを約束するような静かな場所へ、あるいは、二人きりの逢瀬を成就するために。
篝火から逸れて、夜の森に踏み入れれば、たちまち辺りは濃密な闇に包まれる。
―――祭の翌日、誰それがいなくなった、と。
男女の駆け落ちか、失踪か、それとも事故か。
彼らの姿はそれ以降、見つかる事は無い。
数ヶ月、あるいは半年も経てば、日々の生活にとり紛れて、村人たちの記憶からも消えていく。
―――今年も上手くいく筈だったのに。
忙しい息を繰り返していた男は恐る恐る振り返る。
あの恐ろしい相手から逃げ切れた筈は無い。だが、周囲はあまりにも静かすぎて、何者の気配も感じられない。
もしや、自分を追い詰めていた追手は諦めたのかと―――。
「ひっ」
そんな訳がなかった。
藍と橙が混じり合う夕暮れ時、いっそう影を濃くする森を背景にして、一人の少年がそこに佇んでいた。
質素な衣に藍袴。片腕には黒の手甲をはめ、その手には幾つもの細身の刃が爪のように握られている。
白と赤で塗られた狐の面で半分隠された顔はまだ若い。
だが、少年から受ける印象は凪いだ静けさばかりで、その揺るぎのない眼差しで見つめられれば、男は逃れられぬ終焉を悟るしかなかった。
腰を落としたまま、地をずり下がる。
「嫌だ…死にたくない…! 死ニタクナイ…!」
喰わずに生きる道はないのだ。
手当たり次第に襲ってもない。
あれほど大勢いるのに。
一人くらい喰らってもよいではないか…!
一匹の人喰いを前にして、少年の目が細められる。
それは戯言をと無情に両断するものか―――それとも、哀れみであったのか。
―――刃は振り下ろされた。
***
―――お、おっかねえぇー!!!
物陰から一部始終を目にした川獺は小さな目を精一杯大きくしたまま後ずさった。
ひょんな事からこの少年と知り合って早一ヶ月が経つ。
人と妖の者の血を受け継ぐこの『まざりもの』の少年は、旅のついでに人を喰らう妖怪を退治て廻っているらしい。
旅の目的は人探しなのだが、そのせいで道を外れる事もしばしばだ。
その寄り道癖のおかげで、川獺も助けられたと言い換えてもよいのだが。
―――だけど、恐い!
妖力とも霊力とも判別し難い、あの途轍もない力。
妖怪とはいえ、たかが数百年を生きた川獺の一匹なぞ、あっという間に塵の如く吹き飛ばされてしまうような。
「なんだ、そんな所にいたのか」
見つかった。
少年は気配に聡い。猫よりも小さな生き物である川獺であっても見逃す事はない。
刃を収めると、無造作に近寄ってくる。
何故か、思わず逃げ道を探して視線をさまよわせてしまった。
「よ、よぉ、お疲れさん」
後ろ足で立ち、ぴょこと片手を上げてみる。
「わ!」
川獺なりのねぎらいの挨拶はあっさり無視され、片手で縦長な胴体をつかまれると、そのまま少年の肩に移動させられた。
少年は少なく見積もっても川獺の五倍は背丈がある。距離がありすぎて話しにくいと言って、彼はよく自分の肩に川獺を座らせるのだった。
「何か用?」
「…別に、何でもねぇよ」
つい好奇心に任せて、彼の後を追ってきてみたものの、知れば知るほどこの少年は得体が知れない。
川獺は妖怪の端くれであるが、その妖力はささやかなものだ。
使える術も、せいぜい変化の術で人や物に化ける事しかできない。それもお約束のように、頭に獣の耳が残っていたり、尾が着物の裾から覗いたりと、お粗末極まりないものだ。
そのような有様であるから、小さな川獺は自分の身を守るため、用心に用心を重ねて生きてきた。
倍以上の体格のある同族にぱくりとやられないよう、人の子供の玩具になってひどい目に遭わないよう。
旅路を往く少年に出会って、同行を申し出た時はにべもなく断られるかと思った。
だが、彼は少しの沈黙の後、是と答えを返した。
あまりに淡白な返事に思わず、いいのか!?と詰め寄ってしまったほどである。
―――あのさ、おれ、お前が強いから、一緒にいたら守ってもらえるかなぁって下心満載なんだけど。
正直すぎるほど正直に告げたら、少年は笑いもせず、言った。
―――いいよ。俺も暇つぶしの相手がほしかったし。
その言葉の裏を考えると冷や汗が出てくるような気もしたが、そういうわけで川獺は今、彼と一緒にいる。
少年には他に使役している獣が四体いて、どれも自分とは比較にならないほど強大な力を持つ。
―――ただ、それぞれ性格に難があり、平和を愛する川獺としてはなるべく関わり合いになりたくない相手ではあった。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど」
「うん? なに?」
「その面、どこから持ってきたんだ?」
というか、なんで狐のお面をつけているんだ?
「あぁ、朱雀が祭にはこれだって持ってきたから」
朱雀―――彼の使役する獣の一人。
そして、子供じみた悪戯の大好きな…。
物忘れの青龍。
怠け者の白虎。
泣き虫の玄武。
―――どれも一癖も二癖もある相手ばかりだ。
少年はついと面を動かすと、視界の妨げにならぬように位置をずらした。
特に何の感慨も無い様子だが、面をかぶった少年は年相応にもみえ、川獺は心のどこかでほっと息をつく。
「そっか。祭だもんな、うん。きっと旨いもんもいっぱいあるぞー!」
「急に元気になったな、お前」
「そりゃ、旨いめしが食えたらおれ幸せだもん」
人に化けて里で暮らした事もある。
川獺は新鮮な魚の次に、人が工夫を凝らした自然界に存在しない味も好んでいた。
「そうときたら、人に化けなきゃ!」
人の食事にありつくには、今の獣の姿ではなく、人の姿で混じる方が効率的だ。
少年の肩から飛び降りようとした川獺は―――しかしその前に、素早い動きで首根っこをつかまえられた。
短い手足をじたじたと暴れさせても、拘束が解かれる気配は無い。
嫌な予感を覚えつつも、川獺は首を引っ込めたまま、ちらりと後ろを振り返った。
この人に限りなく近い少年は、滅多に笑わない。
いつも冗談を言う時も真顔だ。それもこちらの繊細な心臓を飛び上がらせる冗談ばかりを口にする。
そして、口の端だけを引き上げる、ひそやかな笑みを浮かべた時は―――。
「次に騒動を起こした時は―――」
水に潜ってもいないのに、川獺の背が冷たく濡れていく。
「川獺汁。わかってるよな?」
世にも恐ろしい単語を持ち出され、川獺は必死でがくがくと頷くしかなかった。
―――やっぱり彼についてきたのは間違いだったのかもしれない。
そんな事を思いつつ、懲りない川獺は漂ってきた食べ物の匂いを嗅ぎ付けると、途端にぱあっと顔を輝かせた。
その身を解放されると同時に、くるりと一回転し、次の瞬間には少年と同じ年頃の少女の姿になった。
肩先までの黒髪があちらこちらで跳ねて、瞳はきらきらと大きい。一目でお転婆だろうとわかる娘だ。
膝までの黄の格子縞が入った着物の裾からは、体毛と同じ茶色の長い尾が覗いている。
少年はそれに気付いて、ふうと溜息を吐いた。
「ほら、早く! おれ、腹減ったー!」
ためらいもなく手をつかまれて、引っ張られる。
無邪気なばかりの有様に、仕方が無いとでも言うように少年の目が細められた。
そうして、一人と一匹は祭囃子が誘う方へと揃って歩き出したのだった。
このようなお話で恐縮ですが、こちらは絵師さまである伊那さまに捧げさせていただきます。
和風小説企画でもそうですが、このような機会を与えていただき、本当にありがとうございます。
今後ますますのご活躍をお祈り申し上げております。