「初めて。」
あくまで当方のイメージを元に書いております。その点、ご注意ください。
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時代背景は大正。副題は『告白』。士官学生である兄の友人と袴姿の初々しい女学生の話。
「あなたの事をお慕いしています」
いつもの稽古場からの帰り道、迎えに待っていたのは兄ではなく、その友人だった。
言われた事に絶句する自分に、眩しい微笑をたたえた彼は、さっき告げた事など忘れたように、「では、お宅までお送りしましょう」と手を差し伸べた。
兄と同じ士官学校に在席する彼は、年下の自分に対しても、丁寧な言葉遣いを使う。
黒の外套を羽織り、同色の制服をまとった立ち姿は、文句のつけようが無く整っており、よく出来た一枚の絵画のようだ。
軍人とは思えぬほどに、穏やかな物腰と柔らかな微笑で立ち振る舞う彼は、近隣の女学生たちから人気があると、口の悪い兄から聞くともなしに聞いていた。
さきほど耳にした告白らしき言葉は、やはり、聞き間違いだろうか。
自宅の屋敷までの僅かな距離を並んで歩きながら、彼女は首を傾げた。
兄を通じて知り合って随分となるが、彼が自分を女性として意識している素振りなど、何処にも思い当たる節が無い。
彼女とは比べるべくもない大人の女性との付き合いに慣れた彼は、けして、お前のような子供には手を出さないのだと、兄が皮肉っぽく言った事がある。
―――まさか、自分が彼に抱く、この仄かな想いを知る筈が無い。
思わず小さく首を振ると、それに気付いた彼が立ち止まって振り向いた。
問い掛けの声に、笑って何でもないのだと否定してみせると、彼女は少しだけ足を早めたのだった。
次の迎えもまた、彼だった。
刻々と秋が深まる季節、日の沈む時間もあっという間に近付く。
まるで、ありふれた日常の一つであるかのように、彼が自分の荷物を手に取り、隣を歩いている事がとても不思議だった。
現とは思われず、ふわふわと身体が浮いているような心地さえする。
だから、彼が発した言葉も遠い世界の出来事のように思え、彼女は彼を見て、目を瞬く事になった。
「今度、歌劇を一緒に観に行きませんか」
彼は気を悪くした様子もなく、穏やかに同じ誘いを繰り返した。
「もしかして、兄の都合が悪いのですか?」
そう聞き返したのは、けして悪気があったわけではない。
単純に自分は兄の代わりに誘われたのだろうと思っていたからだ。
彼は目を見開くと、苦笑して否定した。
「あなたの兄上と歌劇を共にする趣味はありませんよ」、と。
この返答は彼女に困惑をもたらした。
では何故、と、その時に問い返せば良かったのかもしれない。
だが、稽古場から屋敷までの道のりは短い。迎えさえも必要があるのかどうか疑問に思うくらいに。
別れ際、門の前で彼は手を上げて、「それでは、今度」と、挨拶を述べて踵を返した。
今度とは何時の事なのか、彼女はまた聞きそびれてしまった。
それから何度か、兄の代わりに彼の姿を見るようになり、ある日、彼と彼女は流行の歌劇の舞台を観に行く事になった。
女学生同士ならともかく彼と二人きり、両親が楽しんでおいで、と、笑顔で送り出してくれるのを若干怪訝に思ったが、待ち合わせ場所に彼の姿を見つけると、その疑念も霧散してしまった。
ここまで送り届けてくれた兄が苦虫を噛み潰したような顔になっているのも気にならない。
その兄に対して、彼が満面の笑みを浮かべてみせた事も。今更、自分の身なりなどが気になって、気分がそぞろになっている彼女は気付かなかった。
「お嬢さん」
彼は彼女の事を名前で呼ばない。
ただ、敬意を込められたその呼び掛けは、彼女を一人前の女性として扱っているように思われて、彼女は嬉しかった。
「遠出をして疲れたでしょう。少し、あちらの庭園で休んでいきませんか。
この時分にも灯篭に火が入っていて、とても幻想的なのですよ」
劇場から少し離れた場所にある、あまり人に知られていないらしい、こじんまりとした古風な庭園に連れ出され、二人でゆっくりと歩幅を同じくする。
寒いかと気遣われ、首を横に振った。心に響く歌劇の熱がまだ冷めやらぬからか、それとも、初めての想い人と共に過ごしているからか、ちっとも寒さは感じなかった。
ぼんやりと照らし出される庭園の中央で、彼は彼女に向かい合った。
「よろしければ、先日の返事をいただけないでしょうか」
ゆるりと許可を求められ、彼女は彼の顔を見上げたまま固まった。
先日の返事と言われても、心当たりがまったく思い浮かばず、咄嗟に何も口にする事が出来なかったのだ。
兄の友人であるその人は、やはり、僅かに苦笑すると、彼女の瞳を真直ぐに見つめて言った。
「あなたの事をお慕いしています」
驚きに自分の目が見開かれる。
「初めてあなたにお会いした時から目が離せなくなりました。
あなたの仕草や笑顔、私を一人の人として見てくれるあなたのそのてらいのない瞳が、その心がとても愛しい」
穏やかなばかりだった口調に隠し切れない熱が灯る。
言葉も態度も違えようがなく、それは自分に告げられた告白だった。
「他の誰にもあなたを渡したくはないのです」
真摯な眼差しに刺し貫かれて、彼女は僅かに背を震わせた。
信じ難い気持ちのまま、体中を巡る熱に浮かされたように、「わたくしもあなたをお慕いしております」と、蚊の鳴くような声で返す。
それを聞いて、彼の顔にとびきり優しい微笑が広がった。
「それでは、証をくださいませんか」
「え…?」
距離が詰められる。そう理解した時には、背裏に手が添えられて、引き寄せられていた。
見上げた彼女の額と間近に迫った彼の顎先が触れ合いそうなほどに近い。
呼吸が止まってしまいそうだと思った。
「どうか、あなたのそばに」
見つめ合った瞳が甘く細められる。
何を言われるわけでもなく、自然に瞼が下りていた。
彼の手によって導かれ、向かいの肩に指先を立てる。
そっと身を屈める衣擦れの音が近付いた。
―――そうして彼女は、今再び、声ならぬ告白をその身に受けたのだった―――。
このようなお話で恐縮ですが、こちらは「初めて。」の絵師さまであるジョアンヌさまに捧げさせていただきます。
素敵なイラスト、眼福でした。このような機会を与えていただき、本当にありがとうございます。今後ますますのご活躍をお祈り申し上げております。