八
日が沈み、処刑場は夜の闇が支配される。処刑場を警備する騎士団によって人払いされ、騎士達だけが残っていた。
警備を容易にするために、処刑場のあちこちには松明が置かれ、それなりの明るさを保っていた。処刑場の中心で磔にされたホムンクルスの状態は、牢に入れられていた時よりも酷い有様になっていた。体のあらゆる箇所に投石による擦り傷ができ、埃で全身は黒く汚れている。鮮やかな緑色もの髪も今は薄黒くなっている。
ホムンクルスはまるで死んでいるかのように、全く動くことはなく丸太に磔られている。騎士にとって、死んでいるかどうかは関係ない。明日、無事に火刑に処することさえできれば、それでいいのだ。騎士団の仕事は、このホムンクルスが逃げないように監視することである。
だが、それはまるで無駄な労力であった。ホムンクルスは微動だにせず、逃げる様子はまるで見られない。それに、人造人間を逃がそうとするような民もいるわけがなく、騎士達はただそこにいることが仕事になっていた。
そのせいか、警備も手薄になっており、騎士のやる気も目に見えてない。その様子に安堵するのは、リクトだけであった。
リクトは遠くから騎士の動きを観察している。ホムンクルスを助けるために、処刑場に潜入するにはどうすればいいかを考えていた。音が出ないように全身を鎖帷子で覆い、その上から目立たないように黒いローブを羽織っている。
もしかしたら、騎士の一人と剣を交えるかもしれないと思い、腰にはエストックが下げられていた。他にはウィーンを去って生活に困らないだけの道具、ホムンクルスを救出するための道具が準備されている。
観察してわかったことだが、騎士団の警備はかなり手薄なものだった。特に守る目的のホムンクルスから、警備する騎士との距離がかなり開いている。もし、ホムンクルスが逃げたとして、その姿を確認できないだろう位置で警備をしていた。
これはリクトにしたら非常にありがたい。ホムンクルスと共に逃げたとして、すぐに騎士団に知られないことは、ウィーン市外へ逃げ出す時間ができるということだった。また、騎士の数が極端に少ないこともあり、進入も容易そうである。
特に、交代の時間には処刑場から騎士が完全に姿を消してしまう。これはもうホムンクルスを逃がして下さいと言っているも同然だった。こういった事に関して素人同然のリクトにとっては、絶好の機会だった。もし、この時間がなかったら捕まってしまうだろう。
「リーグルの奴……何だかんだ言って、結局助けてくれるのか。本当にすまない」
リクトは一人で呟くと、荷物を持ち処刑場へと近づく。歩くと、鎖帷子がこすれる音が微かに鳴るが、相当近づかなければ気づかれない程度のものだった。後は気付かれないように処刑場へ進入するだけである。
暗い場所にいてずっと目を暗闇に慣れさせたかいがあって、月明かりだけでも十分行動することができた。不用意に足音を立てないように、処刑場に進入していく。
次の交代まではまだ時間があった。急いでホムンクルスの元に赴き、速やかに救出する必要がある。処刑場に潜入したリクトは騎士の動きを見ながら、ホムンクルスを目指した。
松明を持った騎士が、リクトのすぐそばを通過していった。胸の鼓動が高鳴るのを抑えて、処刑場を囲む柵の影に身を潜める。この柵を越えると身を隠す場所はなくな筈だ。柵を越えたら、素早くホムンクルスの元に駆け寄らなくてはならない。
騎士が遠くへ行ったことを確認すると、リクトは柵を超えホムンクルスの元に駆け寄る。
ホムンクルスが磔られている丸太の根元には、沢山の焚き木があり不用意に踏み込むと枝が折れ、大きな音が鳴ってしまう。もし、音が鳴れば騎士に見つかる可能性は大きい。リクトは慎重に足場を選び、ホムンクルスのすぐ隣までやってくる。
「おい、意識はあるか?」
その呼びかけに応えて、ホムンクルスは顔をリクトに向ける。そして、ゆっくりとその緑の瞳を開いた。
「リクト……?」
「そうだ、助けに来た」
その姿を見たホムンクルスはいつも通り無表情で、何の感情も読み取れない。驚いてもよさそうなのに、どうしたのかとリクトは思う。
「……どうして来たの?」
「お前を見捨てられなかった。すぐに降ろしてやる」
リクトは丸太の後ろに回り込み、ホムンクルスを縛る縄を剣で切る。長時間縛られ続けていたせいで、ホムンクルスの手は赤く腫れ上がっていた。
自由になったホムンクルスをリクトは抱きしめた。辛い思いをしたのだろう。体は傷だらけだ。体も夜風にさらされて冷えてしまっている。こんな小さな少女にこれほどの仕打ちをどうしてできるのだろうか。リクトの心が痛む。
「リクト、どうして来たの?」
ホムンクルスは再び同じ質問をする。
「馬鹿だな……さっきも答えただろ。お前を見捨てられなかった」
リクトはホムンクルスを抱いたまま答える。
「リクトはどうなるの?」
ホムンクルスはリクトのしたことの罪深さを知っているようだった。
「……俺はウィーンを出る。お前と一緒に安住の地を探すのも悪くない。それと、俺はもう神を信じられなくなったようだ」
リクトは抱いていたホムンクルスを解放すると、黒いローブをホムンクルスに被せる。リクトが着ているものと同じもので、ホムンクルスにとっては大きすぎた。それでも、身を隠すこと、夜風から身を守ることには問題はない。
「どうして、リクトがそんな事を……」
「お喋りは後だ。今は脱出を優先させる。もうすぐ見回りが交代する時間だ。その時間に見張りがいなくなる。その隙に逃げるぞ」
ホムンクルスはリクトに言われるがまま頷いた。
処刑場から見回りがいなくなったのを確認すると、リクトはホムンクルスを抱いて走り出す。ホムンクルスの運動能力は知らないが、体のサイズから考えて、抱いて走ったほうが速いと考えての行動だった。
特に困ることもなく、リクトは簡単に処刑場から逃げ出すことができた。ウィーン市街を通るわけにはいかない。その為、ドナウ川にかかる橋を渡りウィーンから逃げ出すことにした。
ドナウ川にかかる橋の途中に来て、さすがにホムンクルスを抱いて走ることに疲れたリクトは、ホムンクルスを地上に降ろす。
「さて、早く逃げよう。いつ、見張りにばれるかわからないからな」
リクトはホムンクルスの右手を取って走り出す。しかし、ホムンクルスの手は石のように重く、動く様子がない。
「何しているんだ! 早く逃げないと!」
「どうして、リクトがこんな危険な事をしているの? あたしは助けて欲しいなんて、一言も言ってないよ……」
今更になって、ホムンクルスは逃げ出すことを拒否した。こんな展開を予想していなかったリクトは困惑する。
「な、何を言ってる……」
「あたしにはリクトが無理をして、助けてくれたことはわかってるよ……。リクトにはやるべき事があったんじゃないの? どうして、あたしなんかのために、それを台無しにしちゃうようなことをするの? あたしはそんな事をしてまで助けて欲しくなんかなかった!」
ホムンクルスの言葉は、後になればなるほど大きくなっていく。これほど、感情がこもった言葉を聞いたのは、初めてだった。
「お前は何も悪いことをしていない。そんな奴を火刑にする神など、俺は信じられない。お前に石をぶつける民衆も、それを黙認する教会もだ。それに、今ここでお前を見殺しにしたら、目的を達したとしても納得できない。俺はお前を含めた全員を救いたいと思ってる」
一度は困惑したリクトだったが、はっきりとした決意の元で力強く言い切った。リクトの瞳には後悔はない。ホムンクルスを助けたいという強い意志がこもっていた。
「あたしのことなんて、放っておけばいいのに!」
ホムンクルスの言葉は悲鳴のようだった。そんな言葉を口にしたと言うのに、リクトは笑顔で頭を撫でる。
「今の言葉は俺が聞いた中で、一番感情がこもってた。お前はまだ生まれたばかりだ。こんなところで殺されていいはずがない。きっと、まだまだ成長するぞ」
「どうして? あたしは、どうせ近い内に体が崩壊して死ぬのに、リクトは自分の人生を犠牲にするの? そんなの、おかしいよ……」
ホムンクルスは頭を撫でられながら俯く。ずっと無表情であることは変わらなかったが、徐々にではあるが、感情が芽生えてきていることをリクトは確信していた。
「そうだな。人造人間の言うとおりだ……」
二人の間に別の声が割り込む。その声は凛としていて、誠実であり、言い知れぬ迫力をしていた。人を従えるほどの力を持った声である。
この声にリクトは聞き覚えがあった。
「リーグルか……」
リクトもウィーンを抜け出す前に、会うであろうと予測していた人物であった。リーグルは橋のこれから向かう方向に立っている。
兜はしておらず、鎧も軽装で最低限必要な装備しかしていなかった。いつもかけている神聖ローマ帝国の紋章が付いた前掛けをしていない。明らかに、警備中という格好では無かった。それでも、腰にはリクトがお土産に買ったエストックが下げられている。
「私だ、リクト」
「お前が処刑場の警備をわざと緩くして、逃げ易くしてくれたのだろう? お前には最後まで助けてもらってばかりだった」
リクトは声をかけるが、リーグルの雰囲気がいつもと違う事に違和感を覚える。いつものリーグルなら、人懐っこい声で喋ってくるはずだった。だが、この声で話しかけてくるときは、いつもリクトの意見に反対する時だけである。
「助けるのを最後にするつもりはない。リクト、あなたには戻っていただく。そこの人造人間と一緒にな!」
リーグルは一歩前に出た。それだけで、極度の緊張がリクトに走る。ホムンクルスを庇うように、リーグルとの間に入った。
「だったら、どうして警備を緩くした? 厳重に警備すれば俺が無理だと悟って諦めるかもしれなかった」
「あなたがそれしきの事で、そこの人造人間を見捨てるとでも? いくら警備を厳重にしたとしても、無謀な策を使い助け出そうとするだろう。その結果、私以外の騎士に捕まったら、言い訳ができん。あなたも一緒に火刑にかけられる可能性すらある」
リーグルの言うことは正しかった。どんなに警備が厳重でも、ホムンクルスを見殺しにすることは、リクトにできる筈もない。
「だから、部下に警備を緩くするよう命令した。人造人間を逃がした犯人は、私が捕まえるということで納得してもらってな。人造人間を囮に、他の異端者をあぶり出すと言ったら、喜んで賛成してくれたよ。人造人間を逃がす人物など、あなた以外にはありえないというのにね」
つまり、リクトはリーグルの掌の上で、いいように踊らされていただけだった。リーグルが散々リクトの考えに反対していた事を忘れ、自分にとって都合のいいように解釈しすぎていたという訳である。
「俺を教会に突き出すのか?」
「まさか、私の願いはあなたの出世。私が異端者を突き出して、功績をあげるためではありませんよ」
つまり、ここでリクトを取り押さえて、ホムンクルスを処刑場に戻す。リーグルはリクトが逃がしたことを公言しない。リクトがホムンクルスを逃がしたという事実を揉み消すために、リーグルはここで待ち続けていたのだ。
「諦めてもらえませんか? こんな人造人間ごときの為に、あなたがその人生を投げ出す必要なんてありません。どうか、お願いします」
リーグルはリクトに対して頭を下げる。神聖ローマ帝国の紋章が付いた前掛けをしていないのは、ここに立っている理由がリーグル個人の意思であることを示すためだったのかもしれない。
「リーグルの想いはわかった――だが、断る!」
リクトも一歩前に出る。二人の距離が近づく。
「やはり、聞き入れてもらえませんか……」
リーグルは神妙な面持ちで、エストックを抜きさる。それに反応して、リクトもとっさにエストックを抜いた。
「ならば、実力行使を実行します。無礼な振る舞いをお許しください」
リーグルはエストックを構えた。リクトもそれに対応できるように構える。
しかし、リーグルとリクトには、圧倒的な実力の差がある。以前、剣術訓練をしたとき、リクトは本気であったにもかかわらず、リーグルには一度も勝てなかった。しかも、その時リーグルは本気を出していない。
「剣を持ってきたのですね。やはり、戦うつもりだったのですか?」
「ああ、いざという時の為に。だが、その相手が騎士団長様では、分が悪い……」
「残念ですが、あなたの腕で倒せるような弱い騎士は、我が騎士団には所属しておりません。戦うべき場所をお間違えになってますよ」
何十人もいる騎士を従えているだけのことはあり、その言葉は堂々としたものだった。リクトもまともに戦えば勝てないことくらいは理解している。その為の先手必勝。
リクトは鋭い突きをリーグルに向けて放つ。喉元を狙った必殺の突き。自分でさえこれほど鋭い突きができるのかと、驚きを覚えるほどのものだった。
だが、その突きはリーグルの剣によって軽くいなされてしまう。全体重を乗せた突きを避けられて、リクトの姿勢は隙だらけになった。元々、勝負にならない戦いである。先手の一撃が決まらなかった今、リクトの負けは確定していた。
だが、リーグルはリクトに攻撃を仕掛けることはなかった。先程の隙なら、確実にリクトの息の根を止められたというのに。
「どうした? 殺さないのか?」
リクトは姿勢を整え、再び剣を構える。
「先程も言ったように、私はあなたを止めに来ただけです。殺す気は毛頭ありません。ただ、ちょっと別の方法は取りますが……」
リーグルが言葉を言い終わる前に、リクトは再び突きを繰り出していた。その一撃も簡単に剣でいなされてしまう。リクトはリーグルが命を奪う気がない事を知り、とにかく手数でリーグルを圧倒しようと考えた。無茶な姿勢になり、隙だらけになっても、リクトは攻撃を止めない。
それでも、リーグルはリクトの攻撃を全て剣で受け止めてしまう。絶対的な力の差がそこにはあった。
「もうわかったでしょう? あなたの攻撃は私には届きません。諦めてもらえないでしょうか……」
リクトは答えることなく、剣を振るい続けた。
月夜のドナウ川に金属と金属が擦れ合う音が響き渡る。月の光は橋の上にいる二人の影を映し出した。黒いローブを着た男と、鎧を着た騎士の二人。
ここが橋の上でなければ、市民の誰かが気付くぐらいの激しい打ち合いだった。ローブの男は肩を上下させ、声を出すこともかなわない。一方、騎士は顔色一つ変えていなかった。
騎士はため息混じりに口を開く。
「仕方がありませんね。この方法だと、我々騎士団の汚名になってしまいますが、致し方ありません」
リーグルが初めて攻勢に出た。既に息切れをおこして、ふらふらのリクトに向けて一撃が放たれる。攻撃しか頭になかったリクトは、防御する事ができなかった。
ガキィィィンという、今まで一番激しい金属音が響いた後、ドナウ川にエストックが落ちた。
丸腰になったリクトを無視して、リーグルはホムンクルスの目の前に立つ。そして、手にした剣の切っ先をホムンクルスに突きつけた。
「貴様が死ねばリクトが罪をかぶる必要はなくなる。つまり、私が貴様を殺せば目的は達せられるということだ。しかし、人造人間は死ぬのかわからないな。まあ、首を落とせばさすがに死ぬだろう」
リーグルの言葉を聞いたリクトは急いで、二人の間に割ってはいる。そして、ホムンクルスを庇うようにリーグルと対峙した。だが、目の前に突き付けられた剣の切っ先が、リクトの心臓の鼓動を速くさせる。
「退いて下さい。あなたを殺すつもりはありません」
リーグルは眉一つ動かさずに、リクトを見下す。リクトの予想通り、ホムンクルスを庇えばリーグルは攻撃を仕掛けてこない。それでも、目の前に剣の切っ先があると生きている心地がしなかった。
「やるなら、俺ごと殺れ。さっきも言ったが、俺はこいつを見殺しにはできない」
強がってはいるものの、リクトの足はかすかに震えている。丸腰で剣を突き付けられるのは、初めての経験だった。
「困りましたね。どうしてもどいていただけないのですか?」
「くどい!」
頑ななリクトの態度にリーグルは小さくため息を吐いた。
「見殺しにしない、ですか……。ですが、先程も言っていましたが、そこの人造人間は死ぬことを望んでいます。あなたのしていることは無意味ですよ」
リーグルは剣を突きつけたまま、リクトの説得を始める。自分がどんなに悪役になっても、リクトの考えを改めさせたい一心だった。
「そんな事は知っている。さっき否定されたからな」
リーグルの言葉にリクトはまるで動じない。リクトはもはや自分の考えを貫くことしか考えていなかった。それを自分勝手というのだろうが、リクトの決意は変わらない。どれだけ恨まれても、ここで死んでいいはずがないと思っている。生きていればきっと、いいことの一つや二つある筈だ。
「このままでは平行線ですね」
リーグルはリクトの覚悟を相当なものだと判断する。もしかしたら、今のままホムンクルスを殺せば、今後の活動に影響を及ぼすほどだと考えた。リーグルはターゲットを変更する。
「そこで、呆けている人造人間。貴様に問う」
その言葉にホムンクルスは顔をリーグルに向けた。
ホムンクルスはリーグルが登場してから、直立不動でピクリともしていなかった。無表情なその顔からは何を考えているか、まるでわからない。
「貴様はリクトに迷惑をかけたくない。だから、処刑を受けるのだな?」
リーグルの問いに、ホムンクルスは頷く。
「つまり、リクトの為なら死を厭わないというのだな?」
その問いにも、ホムンクルスは頷く。
「ならば、私がこの場を見逃すと言ったらどうする? 逃げるか? それとも、この場に留まるか?」
ホムンクルスは少し考えた後、口を開く。
「……あたしだけで逃げます」
「なるほど、そういう手もあるわね。なら、そうしましょうか?」
リーグルはあっさりとホムンクルスを逃がすことを決める。
「駄目だ。お前が一人で逃げたところですぐに捕まる! それは承服できない」
二人の会話にリクトが口を挟む。
「私にとって最大限の譲歩だったのですが、どうして拒むのですか? そこまでこの子が大切なのですか?」
リーグルの冷たい声がリクトに届く。
「それもある。だが、俺はもう神を、教会を、民衆を信じられない。このまま、異端審問官を続けられない……」
リクトは声を絞り出すように言った。その様子に、リーグルはある決断をする。
「マンジェラがいなくなって、あなたはさらに勉学に励むようになりました。ここで、この人造人間が死ねば、また再び高い地位を目指せるようになるでしょう……」
リーグルは一度剣を下げると、鉄製のグリーブを履いた蹴りをリクトの腹部に繰り出す。鎖帷子を着込んでいるとはいえ、その威力は強烈で二、三メートル程度吹き飛ぶ。
「がはっ! げほっ、げほっ!」
腹部を押さえてリクトはくの字に曲がる。攻撃を予想していなかったリクトは呼吸困難に陥るほど咳き込んだ。激しい腹部の痛みに悶絶する。
「さあ、死になさい」
今度こそリーグルはホムンクルスに、剣の切っ先を突きつける。ホムンクルスは表情のない顔で、その切っ先を見つめていた。死を目前にして何を考えているかは、本人しかわからない。
「止めろ、リーグル! ホムンクルスも、どうしてそんなに死にたがる!」
呼吸を回復させたリクトは、大声で叫ぶ。どうしても、伝えたいことがあった。腹部の激痛を我慢して、今はホムンクルスに呼びかける。
その言葉を聞いたのか、リーグルは剣を突きつけたまま動かなかった。恐らく、今生の別れの言葉くらい許すつもりだったのだろう。
「お前は体が崩壊していつ死ぬかわからない。だから、死んでもいいと言ってたな。それは人間も同じだ。いつ死ぬかなんて誰もわからない。だからこそ、精一杯その日を生きる。いつ死んでも悔いがないようにだ。お前は今ここで死んでもいいのか!」
リクトの必死の呼びかけに、ホムンクルスは応えない。ただ、黙っているだけだった。
「死ぬのは怖いだろ! 俺は知っているぞ。お前に本当は感情があることを。喜び、怒り、哀れみ、楽しみ。それらを感じることのできるお前は人間だ。生まれなんて関係ない。お前は人間と変わらない。だから本当の事を言え! お前はここで死んでいいのか? 生きたくはないのか?」
リクトは大声で叫ぶ。その言葉にホムンクルスが肩を震わせた。
「あたしだって……、本当は死にたくないよ……」
それは本当に小さな声だった。耳を澄ますとようやく聞こえる程の小さな声。ホムンクルスは生まれながらにあらゆる知識を持つことで、精神的バランスが極端に偏っている。本来は感情的には赤子同然の状態でありながら、大人以上の思考ができた。
誰にもわからない葛藤がホムンクルスの中にある。だから、どんな顔をすればいいかわからなくて、いつも無表情であった。
だが、今、リクトに人間と認められて、そのバランスが崩れた。ずっと、理性で閉じ込めていた感情が、あふれてくる。
「嫌だよ。リクトと離れることも、死ぬことも……」
それはダムの決壊のように、最初は小さな穴だった。そこから流れ出した感情はもう止まらない。激しい感情のうねりが、穴を大きく広げていく。
「あたしは、死にたくない! リクト、助けてよ。もっと生きていたい。もっとリクトと一緒にいたい。もっと、もっと、もっと、もっと!」
そして、いつしかダムは完全に崩れ去り、感情の大洪水となった。ホムンクルスは感情を制御できなくなり、涙をボロボロと零す。言いたいことが山ほどあるのに、それが言葉にならない。
生物なら誰もが持つ生存本能が、ホムンクルスの思考を埋め尽くしていく。感情を思考で制御できていた頃は、死は怖くなかった。訪れるべき当然のものだと感じていた。だが、ホムンクルスは、本当に達観するほど長く生きていない。
一度、死の恐怖を覚えたホムンクルスに、死ぬという選択肢は残っていない。みっともなく、生きることにすがり付く赤ん坊がそこにはいた。
「今更、何を言うのか! 貴様の死は確定事項だ!」
ホムンクルスの急変に焦ったリーグルは、手に持ったエストックを振り上げる。
「待ちな。それ以上動くと、貴様の命はない」
リーグルでもない、リクトでもない、ホムンクルスでもない、この場の誰でもない声が突然横から入ってきた。
「何の真似ですか?」
「動くなと言っている。儀式用の剣だが、貴様の頚動脈を切り裂くことぐらいはできる。命が惜しくば、じっとしていろ」
リーグルの首には宝石の埋まった剣の切っ先が突きつけられていた。その剣を持つ人物の髪は、月明かりに照らされて銀色のように輝いていた。
黒いローブを纏い、白い髪、金色の瞳を持った女性が、リーグルの後ろに立っていた。その手には剣が握られている。
「ヘルメスか……?」
まさかの第三者登場に、リクトは少し頭が混乱していた。
「私の創造物が生きたいと願うのでな。不本意だが、ここは助けてやろう」
ヘルメスは空気を読まずに軽口を叩く。
「一体、どこから? 貴様の気配をまるで感じなかった」
「さて、どこからかな? まあ、貴様に答える義理などないがな。おっと、動くなよ。手が滑ってしまいそうだ」
剣を突き付けられている状態で、リーグルは口を噤む。その隙に、ホムンクルスは泣きながら、リクトの元へと駆け寄った。
「リクト、リクト、リクト……。怖かったよ。怖かったよ。怖かったよ……」
倒れるリクトに抱きついてくる。泣きじゃくるホムンクルスの頭を撫でてやると、ホムンクルスは落ち着きを取り戻した。
「貴様達はさっさと逃げろ。いつ、こいつに形勢を逆転されるかわからん」
リクトはホムンクルスを抱いたまま立ち上がる。
「すまない。恩に着る」
「礼はいい。速く行け」
ヘルメスは普段と違い、余裕のない様子で言う。専門外のことをしている為なのか、それとも、リーグルが強すぎるからなのか、それはわからなかった。
ヘルメスの言葉を無視して、リクトはまだ逃げ出さない。どうしても、言っておきたいことがあったからだ。
「リーグル、色々我侭ばかり言って悪かった。それと、期待に沿えることができなくて、すまない」
「――世の中、上手くいかないものよね。私はあなたの傍らで、手助けができればそれだけでよかったのに、それ以上は望まないのに、それすら叶わないのよね。もし、あなたにマンジェラという妹がいなかったら、結果は変わっていたかしら?」
いつもの人懐っこい声で、リーグルはリクトに問う。だが、その問いには答えられない。何故なら、リクトにはマンジェラという妹がいた。それは変えようのない事実であったから。
「さようなら、リーグル」
リクトは最後にそう言うと、ウィーン市外に向けて走っていく。そして、その姿はすぐに夜の闇に消えていった。
「はぁ、行っちゃったよね……。さあ、私を斬りなさいよ、錬金術師」
もう、この世に未練はないと言わんばかりに、リーグルは言い捨てる。
「もう用は済んだ。わざわざ殺して事を大きくする必要もないからな」
そう言うと、ヘルメスは剣を鞘に収める。そして、リクト達が消えた方へ歩いていった。
橋の上にはリーグルだけが残された。リーグルは手から剣を落とし、その場に崩れ落ちる。そして、一人涙を流した。
「どうして、私じゃ駄目だったんだろう……」
その言葉は誰にも聞こえなかった。
ウィーンの市外に出る。あたりは草原ばかりで、建物は民家すらなかった。ここまでくれば、通報される恐れもなかった。
ようやく一息ついたリクトは抱いていたホムンクルスを地面に降ろそうとする。しかし、ホムンクルスは抱きついたまま離れようとしない。
「はぁ、はぁ、はぁ、このまましがみ付かれると、苦しいのだが?」
リクトは肩を激しく上下させながら言う。橋から民家がなくなるこの場所まで全力疾走してきた。もう既に体力は限界で、このままでは一歩も動けない。
「やだ。リクトと一緒にいたい」
泣き出す前のホムンクルスとはまるで違っていた。この姿が本来あるべき姿なのだろうと、リクトは思う。
「はぁ……我侭になったな」
「リクトと一緒だもん。あたしも我侭だよ」
リクトは諦めて、ホムンクルスを抱いたまま地面に腰を下ろす。
「一時はどうなることかと思ったが、上手く行った……」
誰に言うでもなく、一人呟いた。
「何が上手く行っただ。私が来なければ、ホムンクルスはあそこで殺されていたぞ」
突然の声にリクトは驚いて振り返る。そこには、白い髪、金の瞳をした錬金術師が立っていた。
「わっ! な、何でお前がいるんだ!」
橋から全力でここまで走ってきたはずだったのに、リクトより後に出発したであろうヘルメスがいた事に驚く。しかも、リクトのように息を乱しているわけではなく、顔色一つ変えずに平然としていたことに、二度驚いた。
「全く、私がいてよかったな」
「本当に助かった。お前が来なければ、今頃……」
「だがな、本当は助ける気はなかった。予想外に貴様がホムンクルスの感情を呼び覚ましたから、手伝ってやっただけだ。あいつが、生きたいと言わなければ、望みを叶えてやるつもりだったからな。あの騎士には悪いことをした」
相変わらず冷静な奴だと、リクトは思い知らされた。
「ヘルメス、ありがとう」
ホムンクルスはリクトに抱きついたまま、首をヘルメスに向けて言った。その様子にヘルメスは優しく微笑む。その顔はまるで、母親のようだった。
「まあ、娘の願いくらい叶えてやらないとな」
どことなく、ヘルメスは照れているようだった。
「お前はこれからどうするんだ? もし、行き先がないのなら、俺達を一緒に来ないか?」
「……その言葉は、さっきの騎士に言ってやるべきだったな。私は遠慮する。貴様達といると余計な厄介ごとに巻き込まれそうだ」
リクトは残念そうに「そうか」と呟く。
「ヘルメスも一緒に来ればいいのに……」
ホムンクルスは口先を尖らせる。その言葉に、ヘルメスは困ったように微笑むだけだった。
「これは餞別だ。これからの旅の足しにでもしてくれ」
ヘルメスが懐から取り出したのは、金塊だった。リクトが初めてヘルメスと出会った時に、錬金して見せたものである。
「いいのかよ……」
リクトは恐る恐る金塊を手にする。これだけの金があれば、国外に行っても十分に暮らしていけそうだ。
「ああ。私はいくらでも作れるからな。あまり作りすぎると厄介なことになりそうだが、その程度なら問題ないだろう」
ヘルメスはリクトを見つめる。
「これから先、どこか当てはあるのか? ホムンクルスとの旅は今までとは違う。世界全てが敵になるのだ。それは理解できているのか? 恐らく、貴様が想像しているより、遥かに過酷なものになるぞ」
リクトはヘルメスの警告を素直に受け止める。今までは異端審問官という地位と、司教の息子という立場によって守られていた。だが、これからはリクトと、ホムンクルスを守るものは何もない。自分たちの力で何とかするしかない。
「わかっている。とりあえず、国外に逃げるつもりだ。絶対にホムンクルスを幸せにして見せる。そうでなければ、リーグルに合わせる顔がない」
「それならいい。もう、二度と会うことはないだろう。さらばだ、リクト、ホムンクルス」
「それじゃあな、ヘルメス。色々とありがとう」
「バイバイ、ヘルメス」
ヘルメスは二人に別れを告げた。そして、二人に背を向けると、夜の闇に消えるように姿を消した。
リクトとホムンクルスは二人きりになって、夜空を見上げた。
「これから、お前の人間としての生活が始まる。きっと、楽しいことだけじゃなく、辛いこともあるだろう。それでも、俺に付いて来てくれるか?」
「うん。リクトとなら、どんな困難でも乗り越えられるよ。あたしの体が完全に崩壊するまで、一緒にいようね」
リクトは体力が回復したので、立ち上がる。いくら、辺りに民家がないとはいえ、いつ追っ手が来るかわからない。少しでもウィーンから離れるべきだ。
リクトが立ち上がると、ホムンクルスはリクトから離れた。そして、そっとリクトの手を握る。リクトはその手を握り返す。
二人はウィーンを離れるために、再び歩き出す。自由を得た二人は、生きるための旅へと赴くことになった。