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ヒトガタ  作者: 鮎太郎
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 西暦一五一四年、リクトが八歳の頃のこと。

 ここはウィーンの中心部にあるラインフィールド家の屋敷。屋敷からはシュテファン大聖堂がよく見えた。

 三階建てにもなる大きな屋敷で、一族以外には、数人のメイドが住み込みで暮らしている。ラインフィールド家には、当主に、その妻、そして息子と娘がいた。

 この息子こそリクト・ラインフィールド。そして、リクトには三つ歳の離れた妹がいた。

 名前はマンジェラ。マンジェラは五歳になるというのに、一向に言葉らしい言葉を口にすることはない。それどころか、常に口を開いており、その唇には涎が垂れていた。

 屋敷に住む者は誰も口にはしなったが、マンジェラが白痴であることを理解していた。まだ幼いリクトを除いて。

 食事の席では母親とリクト、マンジェラは一緒のテーブルで食べる。

 食事をする部屋には大きなテーブルが中央に置かれ、その上には純白のテーブルクロスがかかっている。そして、さらにその上にはパンにスープ、メインディッシュのステーキが並べられていた。

 部屋の隅にはメイドが数名待機して、食事の様子を見守っている。

 マンジェラは食器を上手く扱うことができない為、料理を手掴みで食べる。そのおかげで、いつも料理をテーブルの上にこぼしたり、洋服にこぼしたりしていた。

 母親は見ないふりをしているが、リクトは知っている。自分がいなくなった後、マンジェラをきつく叱ることを。

 リクトは教え込まれたテーブルマナーを正しく守り、上品に食事を食べる。そのため、テーブルを汚すことはない。

「ご馳走様でした」

 素早く食事を終えたリクトは部屋を後にする。そして、扉の隙間から食卓の様子を伺った。

 食事途中の母親は自分の席を立つと、マンジェラの元へ歩いていく。そして、おもむろにマンジェラの頬を平手打ちにした。

 部屋中にパンという乾いた音が響いた。いつものことで、メイド達も動じることはない。

「あなたはどうして、ナイフとフォークが使えないのかしら? 何度も教えたわよねぇ? リクトは五歳の時に食器を扱えたというのに……」

 マンジェラは頬を叩かれたというのに、口をあけたままボーっとしている。マンジェラには何が起こったのか理解できていない。

「あの子の前では我慢していたけど、私は限界です。どうして、あなたのような出来損ないが生まれてしまったのかしら? 全く、ラインフィールド家の恥だわ……」

 母親の目はまるで汚いゴミを見るかのように冷たかった。

「あ、あ……、う、うう……」

 マンジェラはようやく頬の痛みを感じたのか、マンジェラは涙をポロポロとこぼし始めた。その様子さえ母親にとっては疎ましく思えるのか、目つきはさらに険しくなる。

「泣けばいいと思っているの? 泣きたいのはこっちよ。折角、司教の嫁になったというのに、こんな子供が生まれてしまうなんて、思ってもいなかった不幸だわ。五月蝿いわね、泣き止みなさいよ!」

 声を上げてなくマンジェラの頬をさらにもう一発平手打ちにする。それを受けてさらに、マンジェラは大声をあげて泣きじゃくった。五歳とはいえ、マンジェラは産まれ立ての赤ん坊となんら変わらない。

「あー! あー! あー!」

 マンジェラは大きな口をあけて、涎を垂らしながら泣く。その涎はこぼれた料理と合わさって、汚れを拡大させていった。

「あなたはどうして、いつも私の手を煩わせるのかしら?」

 母親はマンジェラの頭を掴むと、飲みかけのスープに押し付ける。マンジェラは苦しいからか、熱いからか先程以上に手足をばたばたと動かした。

 その時の母親は悪魔のように笑っていた。

 母親に逆らう力のないリクトはその様子を、外から眺めていることしかできなかった。すると、扉の付近にいるメイド達の話し声が聞こえてくる。

「また始まったわ。こうなると、後片付けが大変なのよね……。お嬢様の洋服を着替えさせるこっちに身にもなって欲しいわ」

「それにしても、毎日毎日よくやるわね。確かにあんな子供ができちゃったら、ああなるのもわからないでもないけどね……」

 メイド達は主人の前だというのに、小さな声でお喋りをしていた。母親がマンジェラに夢中で、気が回らないことを知っているからである。それに、部屋中にはマンジェラの泣き声が響いており、メイド達の話し声など届かないということもあった。

 マンジェラに酷いことを平気で行う母親が、リクトは嫌いだった。リクトは肩を落として、扉の前から立ち去るしかない。子供の力ではマンジェラを助けることなど、できないことを知っていた。

 ――力が欲しい。

 いつしか、リクトはそう思うようになっていた。


 リクトは教会で読み書きを習っていた。それ以外にも、聖書の内容やキリスト教の成り立ち。と、司祭になる為の知識を教え込まれていた。

「ただいま……」

 リクトが教会から帰ってくると、メイド達よりも先にマンジェラがやってきた。マンジェラはいつも通り、口をあけてその周りを涎まみれにしている。

「あー、あー……」

 マンジェラは両手を挙げて抱きついてくる。まだ小さなマンジェラはリクトの胸に顔をうずめてきた。すると、リクトの着ていた法衣が涎まみれになってしまう。

「ただいま、マンジェラ」

 リクトはマンジェラを抱き返し、頭を撫でてやる。

 すると、マンジェラはくすぐったそうに笑う。マンジェラはリクトになついており、いつもリクトのそばに居ようとした。だが、母親がそれを許さない。

 リクトには司教になるという目的があり、その為に小さな頃から勉強漬けになっていた。母親もリクトが司教となって父親の跡を継ぐことを期待している。リクトはその期待にこたえるべく、毎日勉強に勤しんでいた。

 マンジェラに遅れて、別の人物が姿を現す。

「やぁ、リクト。お邪魔してるわよ」

 姿を現したのは近所に住んでいるリーグルだった。この頃は二歳という歳の差は大きく、リーグルの方が身長は大きかった。

「ああ、リーグルも来ていたのか。マンジェラの相手をしてくれていたんだな」

「まあね。でも、私はどうやら嫌われているみたいなのよ。全然懐いてくれないし、悲しいわよね」

 リーグルは頬をぽりぽりとかいて、苦笑いを浮かべる。

「家でも懐いてるのは、俺だけなんだ。仕方がないよ」

 リクトはさらにマンジェラの頭を撫でる。マンジェラは気持ちよさそうに目を細めた。

「そんな事より、リーグル。君は勉強をしなくてもいいのかい? 今は勉強をするべき時間じゃないのかい?」

 リクトの的確な指摘にたじろぐリーグル。ここにきたのは勉強をサボる口実みたいなものだった。

「ははは、この子は年下というのに容赦ないわね。まあ、リーグルお姉さんは勉強が嫌いだから仕方がないわよね」

 リーグルは笑って誤魔化す。そんな様子に、リクトは小さく息を吐いた。

「まあ、君がいいならいいけどさ、何しにきたのさ?」

「そこそこ、リクト一緒に剣術訓練するわよね? あんたは男の子なんだから、剣術ぐらいできないとね」

 笑顔のリーグルに対して、リクトはげっそりとしている。

「またか……。どうして君は家に来ると必ず剣術訓練に巻き込もうとするんだ。そのおかげで、無駄に剣術が上達したよ……」

 ちなみに、リクトは司祭になるための勉強をしているので、正式に剣術を習ったことはななかった。全て、リーグルが仕込んだと言ってもいい。

「そんなこと気にしないの。さあ、行くよね」

 リーグルはリクトの手を取って、外に出かけようとする。だが、リクトにはマンジェラが抱きついていて離れない。

「マンジェラも連れて行っていいか?」

 リクトの言葉にリーグルの表情が曇る。

「それは、ちょっと……」

 リーグルは断りたいが、なかなか断れない感じで言いよどむ。

「どうした? 歯切れが悪い返事だな」

「えーっと、なんと言ったらいいのかな? とにかく、リクトの母上もマンジェラを外に出さないようにしているわよね? 私の判断で外に出すのは、難しいよね」

 リーグルの言っていることは本当で、リクトの親はマンジェラを外に出すことを極端に嫌っていた。白痴のマンジェラを人前に晒して、ラインフィールドの名が穢れる事を恐れている。

 そのため、五歳という年齢に関わらず、屋敷の外には一切出して貰えない。教会にすら連れて行っていない有様である。

「そ、そうだな。母上に外出の許可を貰うのは難しそうだ。だから、無断で連れ出そうと思うがどうだろうか?」

 両親がマンジェラを外に出すことを嫌っていることをリクトも承知している。だが、マンジェラを外に出さない理由は知らない。

 リクトの言葉にリーグルは脂汗を流した。連れ出せばその事は絶対にばれる。その場合、自分が責任を問われるに違いない。何故なら、リーグルもマンジェラが白痴であり、人前に出すことははばかられる事を知っているからだ。

 何とかして、リクトを説得しなくてはいけないと、リーグルは思った。

「リクト、聞いて。マンジェラを外に連れ出せば必ず母上に知れるよね。そうしたら、被害を被るのはマンジェラなのよ? そうしたら、二度と外に出してもらえないかもしれないよね?そこまでして外に出したいの?」

 リーグルは自分が汚い手を使っていることはわかっている。リクトが外に連れ出さなくても、マンジェラは二度と外に出ることはできない。リーグルはそれを知っている。だが、リクトはそれを知らなかった。

「だから、マンジェラは屋敷に置いて行くわよ?」

 リーグルはリクトの両肩に手を置いて説得する。リクトは首を縦に振った。そして、マンジェラを体から引っぺがす。

 マンジェラは何が起こったかわからない様子で、リクトをじっと見ている。

「俺はリーグルと外出してくるから、お前は屋敷で大人しくしてるんだぞ?」

 マンジェラに言い聞かすが、マンジェラがその言葉を理解できるはずもなく、再びリクトの法衣を掴む。

 リクトは困った顔をしながら、マンジェラの手を離させた。だが、再びマンジェラはリクトの法衣を掴む。

「――リーグル、やっぱり」

「駄目よね」

 リクトの言葉はリーグルの言葉に遮られてしまった。仕方なく、リクトはマンジェラの手を振り解く。

「マンジェラ、俺は外出してくる。大人しくしてるんだ」

 そう言うと、リクトはリーグルと共に外に出て行く。

 石畳の道を歩きながら、屋敷の方を振り返る。やっぱり可哀想だったかなと、思ったがそのまま、リーグルの後をついて歩いた。


 リクトの父親は司教で、教区内の教会に出張しては説教をしている。その為、屋敷にいることは少なく、たまに帰って来た時にはリクトへのお土産を忘れない。

 今日も父親がお土産を持って出張から帰って来た。

 夕食は両親と、リクトと、マンジェラの四人で取ることになった。家族が揃ったこともあり、今日はいつも以上に豪華な食事が並んでいた。

 父親と食事を共にするのは久しぶりで、リクトはとても嬉しかった。

「こうして家族で食事を囲むのは久方ぶりだ。リクト、勉強は進んでいるか?」

 父親も久しぶりの家族との食事を楽しんでいるようだった。

「はい。まずは助祭を目指して頑張っています」

 リクトにとっては司教である父親は憧れにも近い感情を抱いていた。父親の言うことは絶対であり、決して間違いのないことだと信じている。

「そうか、そうか。それは頼もしいな。お前は我が家の期待の星だ。これからも勉強を怠ることなく上を目指すのだぞ」

 息子の成長ぶりに、思わず笑みが漏れる。

 事実、リクトの父親はリクトに期待しており、将来は立派な司教になってもらいたいと考えている。だが、司教を選ぶのは教皇であり、世襲制ではない。だが、リクトは聡明で信心深いので、このまま成長すれば司教に任命されるだろうと、父親は思っている。

「はい。わかりました父上」

 いつもは目上の者にも高慢な態度を取るリクトであったが、父親の前では歳相応の少年だった。

「頑張っているお前には、お土産をあげよう」

 そう言うと、父親は一冊の本を取り出す。

「出張先で見つけたのだが、カトリックの教義がわかりやすく記してある。まだ子供のお前でも読んで理解できるだろう。これを読んでさらに勉強に励みなさい」

 リクトは父親から本を受け取る。ハードカバーの分厚い本であったが、リクトは嬉しさのあまり、重さも忘れてページを開き始めた。

「ははは、勉強熱心なのはいいことだが、今は食事の場だ。読むのは後からにしなさい」

「あらあら、リクトは本当に勉強熱心ね」

 両親そろって笑いあう。それにつられて、リクトも笑い出す。一家団欒の食卓がそこにはあった。

 リクトは貰った本を傍らに置くと再び食事に集中し始めた。

 次はマンジェラにお土産をあげるのだと思っていたリクトだったが、いつになっても、父親はお土産をあげようとしない。不思議に思ったリクトは父親に尋ねてみることにした。

「父上、マンジェラへのお土産はないのですか? マンジェラも父上が留守の間、いい子にしていました」

 すると、父親は困ったように苦笑いを浮かべた。

「マンジェラにはまだ早いと思ってな、今回は買ってこなかったのだよ。そうか、いい子にしていたのか、次に帰って来たときには考えないといけないな」

 父親はマンジェラを一度も見ることなく、リクトばかりを見ている。その態度にリクトは少し不自然なものを感じた。

 リクトがマンジェラぐらいの歳には、歳に合わせたお土産を探してきてくれたものだった。それだというのに、マンジェラに何も買ってこないのはおかしい。

 リクトの記憶が正しければ、父親は一度もマンジェラにお土産を買ってきたことはない。貰うのはいつもリクトだけだった。

「父上、マンジェラはまだ一度もお土産を貰っていないと思います。何かあげてもいいのではないでしょうか?」

 リクトはなるべく、父親の機嫌を損ねないように言葉を選んで発言する。しかし、父親の表情は明らかに不機嫌なものに変わっていた。

「そうだったかもしれないが、今回はお前の分しか買っていないのだ。買っていないものは、やれないのだよ」

 父親の視線にリクトは俯く。やはり、父親の鋭い視線は幼いリクトにとっては怖いものであった。

「そうよリクト、お父さんに無理を言っては駄目よ。あなたにはわからないかもしれないけど、お仕事で忙しいの。その時間を割いてあなたのお土産を買ってきたのよ。これ以上贅沢を言ってはいけないわ」

 母親まで口を出してくる。これはもう無理だと悟ったリクトはこれ以上何も言わなかった。

 マンジェラを見ると、相変わらずフォークとナイフが使えなくて、料理を手掴みで食べていた。お土産を貰えなかった本人は何も気にすることなく、食事を続けている。

「まあ、確かにマンジェラだけにお土産がないのは可哀想だな。次は何か買ってきてやろう」

 リクトの落ち込んだ姿を見た父親は、そんなことを口走る。その言葉を聞いたリクトは顔を上げた。

「ありがとうございます、父上。よかったなマンジェラ。今度はお土産がもらえるぞ!」

 喜ぶリクトだったが、マンジェラは先程と変わらず黙々と食事を続けていた。

「あなた、そんな約束をしていいのですか?」

「構わんよ。そんなことぐらいなら、仕事に支障をきたすこともないだろう。リクトもそうした方が喜ぶだろう」

 結局、父親と母親の中にはマンジェラの為ということはなく、全てがリクトの為である。それを知らないリクトは、マンジェラがお土産を貰えることを心の底から喜んでいた。


 ある日、教会から帰って来たリクトはラインフィールド家の屋敷の扉を開けて、中に入る。

「お帰りなさいませ、リクト様」

 出迎えたのはラインフィールド家に仕えるメイドの一人である。いつもは真っ先にマンジェラが駆けつけるのに、珍しいとリクトは思った。

「マンジェラを知らないか?」

 リクトは出迎えたメイドに訊ねてみる。

「私は存じ上げません」

 メイドはそれだけしか言わない。リクトは自分で探すことにした。

 まずは普段ならいつもいるマンジェラの自室を訪れた。マンジェラの部屋は片付いているというより、何もない。あるのは窓とカーテン、それとベッドぐらいだった。両親は基本的にマンジェラに物を買い与えることはしない。服や下着などは全てメイドに管理させている。

 部屋の中には誰もいない。他の場所にいるのだと思い、他の部屋へ移動した。

 たまに居ることのある、リクトの部屋。勉強用の机と椅子、それと部屋を覆う本棚。それと、睡眠に必要なベッドがあるくらいだ。リクトも衣服の類はメイドに管理させている。

「ここにもいないのか……」

 リクトは自分の部屋を後にする。

 マンジェラは何かを食べている最中かもしれないと思い、いつも食事をしている部屋に足を運ぶ。その部屋では母親が椅子に腰掛け、紅茶を飲んでいた。

 ここにもマンジェラの姿が見えない。

「どうしたのですか?」

 きょろきょろとしているリクトを不審に思ったのか、母親が声をかけてきた。リクトは母親なら何か知っているかもしれないと思い、マンジェラのことを訊ねてみる。

「母上、マンジェラがどこに行ったか知りませんか? 探しているのですが、見つからないのです。母上ならご存知かと思いまして……」

 リクトの言葉を聞きながら、母親はゆっくりと紅茶をすする。

「マンジェラ? マンジェラとは誰だったかしら?」

 母親は首を捻る。その仕草が不自然であることは、リクトから見ても一目瞭然だった。芝居がかったような仕草は、相手に不快感を与える。

「母上、何を言っているのですか? 妹のマンジェラですよ」

「妹? おかしいわね。私の子供はリクト貴方だけだというのに、なんて変なことを言うのかしら?」

 母親の異常な態度におかしいと気付き始める。最初はただの冗談だと思っていたリクトも、母親の言動は冗談と思えない真剣さが含まれていた。

「変なのは母上ですよ。どうしてそんなことを言うのですか? まさか、本当に忘れてしまった訳ではないでしょう?」

 母親の真意がわからないリクトは、それを知ろうと母親に尋ねる。

「おかしなことを言うのね。忘れたも何も、マンジェラなんていう子は最初から存在しなかったのよ」

 母親の言葉でリクトは確信する。忘れてしまったわけじゃない、存在をなかったことにしようとしているのだと。

「母上、どういう意味なのですか? どうして、最初から存在しなかった、などと言うのですか?」

 リクトは母親を問い詰める。リクトの胸に嫌な思いが暗雲のように漂ってきた。心臓は高鳴り、呼吸が乱れてくる。リクトは鼓動を抑えるために、右手で胸を押さえた。

「何度も言わせないで。私の子供はリクトだけ、マンジェラとかいう娘は、もう存在しないの。私の子供は貴方だけ……」

 母親は席を立ち、リクトのすぐそばに来る。そして、リクトの顔を愛でるように撫でた。まるで、宝石を触るような手つきである。

 リクトは母親の顔を見てぎょっとする。薄く細まった瞳からは狂気が溢れ、裂けたかのようにつりあがった口元。リクトはその時、初めて母親に恐怖した。これが狂った人間なのだと、本能で理解させられる。

 今の状態の母親なら、何をしてもおかしくない。リクトは直感的にそう感じ取っていた。

「マ、マンジェラに何をしたのですか? まさか、殺したのですか?」

 リクトは自分も殺されるのではないかと思いつつも、マンジェラの事を聞かずにはいられなかった。

「人殺しは駄目よ。ラインフィールドの名に傷がついてしまうわ。私はただ、要らないゴミを捨ててきただけよ」

 母親は笑いながら、とんでもないことを言い放った。まるで、日常会話のように自然に言葉を紡ぐ。本当に些細なことだとしか認識していない。

「ど、どうしてそんな事をしたのですか? マンジェラは妹ですよ? 貴女の娘なのですよ?」

 リクトは恐怖のあまり、意味を持たない言葉を口にしてしまう。母親はリクトの顔をさすりつつ、微笑んだ。

「私、あのゴミを処分したかったの。ラインフィールドの名を貶めることしかしないあのゴミを。それをようやく処分できて、今はとても清々しい気分だわ。今日ほど美味しい紅茶を飲めたのは五年ぶり。リクト、貴方も飲みなさい」

 母親はリクトの返事を待たずに自分で、ティーカップを用意して紅茶を注いだ。そして、自分の席に再び座る。リクトはまだ母親に聞きたいことがあったので、紅茶を出された席に座った。ちょうど、母親と対面になる席である。

 リクトは紅茶に口を付ける。砂糖の入っていない苦い紅茶だった。

「母上、このことは父上もご存知なのですか?」

「ええ、そうよ。この指示をしたのは、お父さんよ」

 母親の言葉にリクトは戦慄する。母親がマンジェラを嫌っていることは知っていた。しかし、父親までそのように嫌っていたとは知らない。それに、父親は司教という聖職者だ。そんな父親が、自分の娘を捨てるように指示することが、信じられる訳がない。

 今まで信じていた柱のようなものが、崩れたようにリクトは感じた。

「ふふふ、アレを捨てた時の事は忘れられないわ。捨てられたというのに、あの子は何が起こったのかも知らずに、いつものように口を開けて涎を垂らしていたわ。本当に馬鹿な子。救いようがないわ。動物以下ね」

 母親は笑いを堪えることなく、大きな口を開けて、大声を出して下品に笑う。その笑い声は非常に不愉快なものだった。

「マンジェラが何をしたというのですか! 何も悪いことはしていないじゃないですか! どうしてそんな仕打ちをマンジェラが受けなければいけないのですか!」

 リクトは感情のままに叫んでいた。母親の笑い声よりも大きな声で叫んでいた。

 マンジェラは確かに知恵遅れだった。だが、悪いことをしたわけじゃない。食事の時に、洋服を汚したり、テーブルを汚したりすることはあっても、それは子供なら誰もがすることだ。罪を犯したわけじゃない。

「あの子の存在は、私の気分を害したわ。それだけじゃない。あのこの存在が、この家の人間全てを不幸にしていたわ。これは、許されない事だわ」

 大声で笑っていた母親は突然笑うのを止めて、静かな声で言う。今まで笑っていた顔も、急に冷たい物に変わっていた。本当に人間の顔かと疑うような、冷徹な血の通っていない顔。

 リクトは先程とは違う恐怖を感じた。勝手に手が振るえ、体温が二、三度下がったような気がする。きっと、殺人鬼はこのような顔をしているに違いない。

「もう、アレの話はしないで頂戴。私の気分が悪くなるわ」

「はい。わかりました」

 あの顔を見てしまったら、もう反論することはできなかった。今度、母親の気分を害すれば、捨てられるのは自分かもしれない。そう思うと、もう従うほかなかった。

「さあ、お茶の続きをしましょう。折角の美味しい紅茶が冷めてしまうわ」

「はい」

 母親に言われるがまま、リクトはティーカップを持つ。しかし、その持つ手は振るえ、上手く飲むことができない。

 母親は笑顔に戻り、美味しそうに紅茶を飲んでいる。リクトもかろうじて紅茶を飲むことができたが、味はわからなくなっていた。

「ご馳走様でした」

 何とか紅茶を飲み干したリクトはそう言って、部屋から逃げ出す。

 その後、リクトは一直線に自室へと戻り、ベッドに身を投げ出して泣き始めた。

 マンジェラがいなくなったことが悲しかった。母親に自分の意見を全て言えなかった自分が情けない。そして、マンジェラの為に何もしてやれない、無力な自分が嫌だった。

 力が欲しい。

 どんな権力にも負けない発言力。すなわち、最高権力が欲しい、手に入れたい。そう強く思った。

 マンジェラがいなくなってから、毎日のようにマンジェラの夢を見た。その度、リクトは罪悪感に悩まされる事になる。そして、さらに力を得たいという欲求は増していった。

 いつか、同じような境遇にあった人を助けたい。その為の力が欲しい。リクトは今まで以上に勉強にのめり込んだ。

 あの日以来、リクトがマンジェラと会う事はなかった。ラインフィールド家ではマンジェラの事を話すこともタブーとされ、会話に上がることはなかった。

 父親が再び出張から帰ってくると、リクトへのお土産はあったがマンジェラへのお土産はない。母親が父親の指示だと言った事は、事実だったとリクトは思い知らされた。

 以前は父親のような立派な聖職者になりたかった。でも、今は違う。聖職者でなくても、とにかく力が欲しい。誰にでも命令できる地位が。その一心でリクトは勉学に励んだ。

 その結果、リクトは若干二十歳という若い年齢で、エリート中のエリートである異端審問官に抜擢されることになった。

 それからも、リクトは上を目指すことを止めようとはしない。異端審問官になったリクトは数々の異端者を異端審問にかけ、異端者の撲滅に大きく貢献した。

 だが、その極端な上昇思考は同僚から嫌われる原因となる。信心深い異端審問官達にとって、信仰心があまり高くないことも嫌われる要因となった。だが、リクトの業績は素晴らしく、誰も口出しをすることができない。

 そして、グラーツの異端者調査の際、ザルツブルグに出現する不審な人物の噂を耳にする事となる。

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