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ヒトガタ  作者: 鮎太郎
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 ウィーンに戻ってから、一ヶ月が過ぎた。その間、リクトはザルツブルグの錬金術師に関する報告書を書くことに追われていた。

 報告書が完成したと思ったら、すでに一ヶ月が過ぎていた。リクトは急ぎ旅の支度をして、屋敷を出る。

 準備を頼んでいた馬車は既に、屋敷の前まで来ていた。

「リクト、またザルツブルグへ出張?」

 馬車の入り口前にはリーグルが立っている。リーグルは騎士団長だが、リクトが外出する時には、その護衛を受け持っていた。

 ただ、騎士団長という肩書きの為、ウィーン市外に出る場合は護衛を断念せざるを得なかった。リーグルにとって、それは不本意なことではあったが、騎士団長という自分の立場にも誇りを持っていた為、受け入れるしかなかった。

「ああ。今度こそ、いい結果を出す」

 そう言いながら、リクトは馬車に乗り込もうとする。その横から、リーグルは心配そうに声をかける。

「気を付けてよね。異端審問官はその職務から恨まれることが多いから……」

「それは俺が一番理解しているつもりだ」

 リクトが命の危険に晒されたことは何度もあった。大人しく捕まる異端者の方が少ない。それでも、リクトは今までやってきた経験と誇りがある。そう容易く相手に遅れを取ることはない。

「もし、滞在期間を過ぎても帰ってこなかったら、私がリクトを必ず助けるから、安心してよね」

「ああ。頼りにしている」

 リーグルの言葉を頼もしいと思いながら、リクトは馬車に乗り込む。すると、すぐに馬車は発進した。

 リーグルは心配そうな表情で、いつまでもリクトの乗った馬車を見つめている。馬車が見えなくなるまでずっと眺めていた。


 馬車で三日後、リクトは再びザルツブルグへとやってきた。広場から見えるホーエンザルツブルク城は、いつ見ても立派なものである。

 しばらく石畳の道を歩くと、遠くにドーム状のザルツブルグ大聖堂が見えた。だが、今回は用がなかったので、そのまま通り過ぎる。

 半日ほどかけて、ザルツブルグ郊外にあるヘルメスの小屋の前にやってきた。以前来た時より、周囲の草原の草は成長し、背丈が伸びている。

 以前はなかった木製のテーブルと椅子が草原に置かれていた。椅子が三つあることにリクトは疑問を抱くことはない。

 小屋の扉の前に来ると、リクトは鉄製のノックを三回ほど叩く。だが、前と同じように中からは何の反応もない。

「全く、相変わらずだな……」

 リクトはそう呟くと、少し大きく息を吸った。

「ヘルメス! いないのか? 俺だ! リクト・ラインフィールドだ! 扉を開けろ」

 リクトは扉に向かって大声を出す。すると、扉の奥から物音がした。そのすぐ後、扉に付いている覗き窓が開く。

 そこから覗く瞳を見て、リクトはぎょっとした。ありえない緑色の瞳がリクトを見つめている。ヘルメスの瞳の色は金色。ならば、この瞳は一体誰のものだというのだろうか。

 リクトは息を飲み、言葉を発することを忘れていた。すると、扉の向こう側から、幼く可愛い声が聞こえてくる。

「ブラウンの髪と瞳。四角いメガネ。赤い法衣に十字が描かれた黒い前掛けをした人物。あなたをリクト・ラインフィールドと認識しました」

 扉の向こうの人物が喋り終わると、鍵が開く音がして扉が開かれた。

 小屋の中には、緑色の髪と瞳をして、布切れのような服を着た少女が立っていた。リクトは緑色の髪と瞳というありえない人物を目の当たりにして、呆然としてしまう。

「上がって下さい。ヘルメスが待っています」

 緑色の髪と瞳を持つ少女はそれだけ言うと、小屋の奥に行ってしまう。リクトは呆然として、扉の前に取り残されてしまった。

 リクトは少女の正体を知るために、小屋の中に足を踏み入れる。

 小屋は以前と同じように薄暗く、テーブルの上に置いてあるランプが部屋の中を照らしていた。相変わらず、薬草が干してあり、部屋の中は薬のような臭いが充満している。

 部屋の奥では、銀色の髪の女性が机に向かって、何かを書いていた。

「ヘルメス、あの少女は一体何者なんだ?」

 ヘルメスは手を休め、視線をリクトに向ける。

「久しいな、リクト。ペストにやられたりはしなかったか?」

 ヘルメスはリクトの問いを気にしていない様子で、自分のペースで話し始めた。リクトは頭に手を当てて、ため息を吐く。

「ああ。幸運なことにウィーンではまだ流行っていない」

 リクトは適当に話を合わせた。

「そうか。だが、そんな話をしにきたわけではあるまい」

 自分で話を振っておいて、まるでリクトが悪いかのような発言をする。リクトは顔を引きつらせて、話の続きをした。

「そこの緑色の髪と瞳を持った少女は一体誰だ?」

 その少女はヘルメスの隣におり、興味深そうに二人の会話を聞いていた。リクトはその少女を指差しながら訪ねる。

「こいつなら、貴様は一度会っているぞ。よく思い出せ」

 緑色の髪と瞳に気を取られ過ぎていたが、よく見るとどこかで見たような気がする。

「そうか……確か、ガラスの容器の中にいた少女」

 緑色繋がりで思い出すことができた。

 ということは、この少女が人造人間なのだろうか。リクトは少女を凝視する。少女はどうして、見つめられているのか理解ができない様子で、リクトを見つめ返していた。

「思い出したようだな。そこの少女こそ、私の創り出した人造人間、ホムンクルスだ」

「――ホムンクルス?」

「そうだ。ラテン語で『小さい人』という意味だ」

 ホムンクルスの体を見ながら、リクトは疑問に思う。

 確かにホムンクルスは子供程度の大きさで、小さいといえる。だが、もっと小さい子供もいるのだから、適切ではないのではないか。

「いや、さほど小さくはない」

「私が言っているのは、こいつの素のことだ。貴様の精液から創った人間の素は、掌にも満たない大きさなのだ。その素がなければ、こいつは人形とたいして変わらない」

 リクトはその人間の素を見ていない為、なんともいえなかった。ついつい、ホムンクルスを凝視してしまう。

「ヘルメス、この人間があたしの親というのは本当か?」

 ホムンクルスはヘルメスの白衣を引っ張りながら訊ねる。

「ああ、そうだ。父親に当たる人物だ」

 ヘルメスはとんでもない事を言い出した。

「はぁ? 俺が父親だと?」

「何を照れているんだ? ホムンクルスは貴様の精液から生まれたのだ。娘同然ではないか。まさか孫ではあるまい?」

 ホムンクルスはリクトをじっと見つめる。ヘルメスの言う、父親という言葉を信じているようだ。

「冗談はやめろ。それより、本当に完成したんだな。そっちの方が驚きだ」

「何を言う。私の理論が完璧だったに過ぎん。できて当然なのだ」

 ヘルメスは胸を張り、自慢げに言う。胸を張ることで、元々大きな胸がさらに強調された。その言葉をうんざりした様子でリクトは耳を傾ける。

「そんなことより、このホムンクルスは凄いぞ。こいつは生まれながらにして、あらゆる知識を身に付けている。産まれてすぐ、私の知らない言語を口にしたぞ」

 ヘルメスは興奮している様子で、次々に言葉を紡ぐ。

「それだけではないぞ。賢者の石の製造法を言い当てた。それに、今までの歴史を全て言い当てる等、どんなことでも答えられるのだ。これは大発見だ。そうは思わないか? 大体、神が創り出した人間にはない知識を最初から持っているのだ。つまり――」

 リクトは興味なさそうに頷きながら、ヘルメスの話を聞き流す。結局、ヘルメスの話は長時間に及んだ。

「――という事なのだ。私はこの事実を書き記さなくてはならない」

 しばらく話し続けて、ヘルメスは満足したのか、話を止めて机に向かいだした。

「待て。俺は何をしていればいい?」

「ホムンクルスの相手をしていてくれ。その間に、私はホムンクルスの創造方法を纏めておく」

「ちょっ、ちょっと待て……」

 そう言いかけたリクトだったが、ホムンクルスが下からじっと見上げてくる。その愛くるしい姿にリクトは少しなら相手をしてやろうと、思ってしまった。

「そ、そんなに見つめてどうしたのだ?」

 リクトはどもりながら、ホムンクルスに訊ねる。まるで、いけない大人のようになってしまっていた。

「あなたはあたしのお父さん?」

「違う」

 リクトは即答した。

「そうなの? ヘルメスはお父さんだって言った」

「ヘルメスが嘘を言ったんだ」

 リクトは平気な顔をして、ヘルメスを悪者にする。そのことに、リクトはまるで罪悪感を覚えなかった。

「でも、人間における親子の関係と、あたし達の関係は酷似している。これを人間の関係に置き換えれば、あたし達は親子。あなたはお父さん」

 リクトは苦い顔をする。確かにホムンクルスの言うことは正しい。何とかして、父親という立場から逃げたかった。

「だがな、人間の子供は母親もいるんだ。お前には母親はいない。だから、人間関係に当てはめる事はできないな」

 苦しい言いがかりだったが、これで逃げ切れたとリクトは安心した。

「あー、そのことなんだけど、人間の素をその体に定着させるときに、私の血を使ったから、私が母親といえなくもないな」

 ヘルメスは机に向かったままとんでもない事を言う。何言ってんだこの女と、リクトは心の中で呟くが、怖くて口には出せなかった。

「じゃあ、ヘルメスがお母さんで、あなたがお父さん?」

 ホムンクルスが無垢な瞳でリクトを見上げてくる。その視線に耐えかねて、リクトはため息を吐きながら、口を開く。

「はいはい。お父さんでも、父上でも、父親でも、親父でも、どうでもいい。勝手に呼べ」

 リクトはやけくそになって、いい加減なことを口にしてしまう。

「じゃあ、あなたはお父さん!」

 ホムンクルスはリクトを指差す。早くも先程の発言を後悔する羽目になってしまったが、自業自得であった。

「! 人を指差してはいけないと、教えてもらわなかったのか?」

「あたしの知識にはそんなことはないよ?」

 リクトは口答えするホムンクルスにイライラしながら両肩を掴む。

「じゃあ、教えてやる。人を指差すのはいけないことなので止めろ。わかったかな?」

「お父さん、目が怖い」

 ホムンクルスを見るリクトの目は血走っていた。

「全く、ヘルメスの奴、躾ぐらいきちんとやれ……」

 両肩を持つことで、ホムンクルスの全身をよく見ることができた。改めてホムンクルスの格好を見ると、布切れ一枚だけという格好は酷いのではないかと、リクトは考える。

「なあ、ヘルメス。ホムンクルスの服はどうにかならないのか?」

「ホムンクルスの体に合う服がこの小屋にあると思うか?」

 ヘルメスは相変わらず、机に向かったまま答える。確かにヘルメスの言うとおり、この小屋にそんな気の利いたものがあるとは思えない。

「そうだな。だったら俺が買ってやる。このままの姿では、精神衛生上よろしくない」

 ホムンクルスの着ている布切れで、とりあえず大事な部分は隠れてはいる。しかし、動いたり、しゃがんだりしたら、見えてはいけない部分が見えてしまいそうで、視線がそちらに吸い寄せられてしまいそうだ。

 それに、今は夏なので問題ないが、肩や足が丸出しで冬になったら寒そうである。

 リクトは町に出る気満々で、扉に向かって歩き出していた。

「待ちなさい」

 ヘルメスの言葉にリクトは足を止める。そして、ヘルメスの方を振り返った。

「どうした? 何か文句でもあるのか?」

「貴様はホムンクルスのサイズを知っているのか? それ以前に、女性物の服を買ったことがあるか?」

 リクトの動きが止まる。当然、リクトはホムンクルスの体のサイズを知らない。それに、女性物の服どころか、自分の服すら買ったことがなかった。普段、法衣ばかり着ている為、私服を一着も持っていない。

「だ、だったら、お前が買え。お前が創ったんだから、サイズは知ってるだろ。それに服だって買ったことがあるだろ!」

 横柄な態度のヘルメスに腹を立てながら、リクトは言う。

「私は他の異端審問官に狙われているから、時間の掛かる買い物にはいけない」

「だったら、黒いローブを着ずに、素顔のままで町に行けば誰もわからないだろ!」

「素顔を晒すなんて危険な事、できるわけがない」

 リクトの意見はヘルメスに一蹴されてしまった。

「くっ! そうだ。せめて靴くらいはどうにかならないのか……」

 布切れ一枚しか身に着けていないホムンクルスは当然、素足である。これでは、外を歩くときに痛いだろうと、リクトは思った。

「……靴くらいなら、考えておく」

 ヘルメスはそれだけを言って何も言わなくなる。

 リクトは買いに行くのを諦めて、ホムンクルスの元に戻った。

「お父さん」

 ホムンクルスはリクトに抱きついて来た。人造人間とはいえ、見た目はただの少女と変わりない。そんなホムンクルスに抱きつかれて、リクトは少し動揺してしまう。

 抱きつかれた背中には胸の小さな膨らみを感じてしまい、さらに動揺する。

「は、離れなさい」

「お父さんはあたしの事は嫌い?」

 ホムンクルスは首を傾げて、上目使いでリクトを見つめてくる。

「ん? 別に嫌いではない」

「そうなんだ。それじゃあ、よかった」

 ホムンクルスは抱きついたまま、離れる様子がない。引き剥がしてもよかったが、この状態を維持したい自分がいるもの事実だった。

「まあ、そんなことはどうでもいい。それより、俺をお父さんと呼ぶのは止めないか?」

「どうして?」

 ホムンクルスは再び首を傾げる。リクトはどうやらこの仕草に弱いようだった。

「くっ! いや、ヘルメスの事はなんて呼ぶんだ?」

「ヘルメス」

「だろ? だったら、俺のことはリクトと呼んでくれ」

「どうして?」

 ホムンクルスは首を傾げて、不思議そうな目でリクトを見つめてくる。

「いや、母親のヘルメスは呼び捨てで、俺をお父さん呼ばわりはないだろ。それに、俺はまだ結婚していないから、お父さん呼ばわりされたくない」

「どうして?」

 ホムンクルスはどうしても納得できない様子だった。

「じゃあ、こいつは?」

 リクトは声を荒げながら、ヘルメスを指差す。

「お父さんは、さっき人を指差しちゃいけないって言った」

「今は例外だ。いいから答えろ」

「ヘルメス」

 ホムンクルスはさも当然といった風に答える。

「じゃあ、俺は?」

 リクトは自分を指差す。

「お父さん」

「違う! そうじゃない。リクトだ!」

 リクトに余裕がなくなってきて、声が次第に大きくなる。

「もう一度行くぞ。こいつは?」

 リクトは自分を指差す。

「お父さん」

「ちがーーーーーう!」

 リクトは興奮して絶叫する。

「五月蝿いぞ! 貴様ら! 邪魔するつもりなら、二階に行っていろ!」

 リクトの絶叫を超える大きな声で、ヘルメスが叫ぶ。

「すみませんでした!」

「ごめんなさい」

 リクトとホムンクルスは一言謝ると、二階に逃げていった。

「――全く、もう少し静かにできないのか……。大体、呼び方なんて何でもいいだろうに……」

 ヘルメスはため息を吐くと、再びペンを走らせ始めた。


 ヘルメスに追い出されたリクトとホムンクルスは、二階にやってきた。二階はベッド以外には小さな窓しかなく、自然とベッドに引き寄せられていく。

 リクトがベッドの上に腰掛けると、真似するようにホムンクルスもリクトの隣に腰を下ろした。その様子を横目に見てリクトはため息を吐く。

 何が悲しくてこんな子供の面倒を見なくてはいけないのだろうかと、リクトの内心は穏やかではなかった。

「リクト……」

「ん? 何だ?」

 リクトはボーっとして、なんとなく返事をする。

「リクトは好きなものってある?」

 突然、リクトは気がついた。

「お前! 今、俺の名前を呼んだな!」

「そうだけど……」

 ただそれだけのことなのだが、リクトは嬉しくてホムンクルスの頭をわしゃわしゃ撫でた。ホムンクルスはされるがままにしている。

「そうだ。俺のことはリクトと呼ぶんだぞ」

「うん。知ってる」

 ホムンクルスは感情のない瞳で、リクトを見つめてくる。

「そんなことより、あたしの質問に答えて……」

「いいぞ。俺の好きなものだな。俺は読書と沐浴が好きだな」

 リクトの回答に、ホムンクルスは顔色一つ変えない。

「えーっと、どうした?」

 リクトはつい不安になって、聞き返してしまう。

「どういうところが好きなの?」

「そうだな……」

 普段から特に気にせず、気に入ったことをやっていたリクトにとっては新鮮な質問だった。特にこれといって、特別な理由があって好きなわけではない。それでも、ホムンクルスの問いには答えてやりたいと、リクトは思った。

「読書なんかは、自分の知識が増えていくこと、自分の知らない事を知ることが楽しい。頭がよくなることを実感できる」

 そう言ってから、リクトは重大なことに気がついた。ホムンクルスは産まれたときから、全ての知識を持っている。ということは、これ以上知ることはないということなのではないだろうか。

 リクトは慌てて言いなおした。

「あー、それと、神話や、民話なんか面白い。その時代や地方の思想が反映されてるし、神という割には人間臭かったりして、人間の創作物って感じが強くする。それと、聖書もいい。俺が思うに、創作物の頂点だ。人間の感情や行動原理がよく理解した上で描かれているのがいい。それに……」

 リクトは本の話をする事も好きで、話し始めたらなかなか止まらない。

 それでも、ホムンクルスは興味深そうにリクトをじっと見つめ続ける。

「……がやっぱ面白いなっと、ちょっと興奮しすぎたな」

 リクトは頬を指で掻きながら、ホムンクルスの反応を見る。しかし、ホムンクルスは無表情にリクトを見つめているだけだった。

「やっぱり、あたしにはわからない。神話、民話、聖書。全て知っているのに、リクトみたいに色々と感じない。あたしにはそれらはただの文字列と、なんら変わりない……」

 二人の間に気まずい空気が流れる。リクトは失敗したなと、思った。そして、急遽話題を変えることにした。

「まあ、読書は他人から見たらつまらん。次は沐浴の話だ。沐浴はいいぞ。体を冷たい水で洗うと、涼しくて気持ちがいい。髪も洗うとさっぱりする。気分転換にもってこいだ。機会があったらやってみるといい。おすすめだ」

 今度の話はどうかと、ホムンクルスの反応を確認してみる。ホムンクルスは先程と変わらず、無表情にリクトを見つめていた。

「沐浴、やってみたい。そんなにいいものなの?」

 リクトはようやく気がつく。ホムンクルスはあらゆる知識を持っているが、体験したことはない。たとえば水なら、水がどういうものか理解はしているが、触ると冷たいといった経験は存在しないのだ。

「ああ、最高だ。俺は沐浴が大好きで、屋敷に専用の施設まで作ってもらったほどだ。興味があるなら、今度ヘルメスに頼んでみろ。一緒に沐浴してくれるかもしれん」

 リクトの言葉にホムンクルスはリクトをじっと見つめてくる。先程と同じ無表情に見えるが、その目に若干の光が灯っているような気がした。

「今度、ヘルメスに頼んでみる。沐浴楽しみ……」

 ぱっと見た感じ、喜んでいるようには見えないが、ベッドから垂れ下がった足が少しぶらぶらと揺れている。かなり、わくわくしているようにリクトは感じた。

「じゃあ、今度は俺から質問だ。ホムンクルスは俺のことは好きか?」

 自分でもなんて事を聞いているんだと、リクトは思ってしまうほど馬鹿馬鹿しい質問だった。

「……よくわからない」

 ホムンクルスは少し考えてから答えた。

「なら嫌いなのか?」

「違う」

 ホムンクルスは即答した。嫌われていないことを知って、リクトは何故かほっとした。

「なら、好きってことにしておけ。嫌いじゃなければ好きでいいじゃないか」

 リクトの言葉にホムンクルスは頷く。

「わかった。リクト好き」

 その言葉に自分で言わせたにもかかわらず、リクトの頬は緩んでしまう。

「ヘルメスも好き」

 その言葉に、リクトは急に冷静に戻った。

「そうだな。ヘルメスも大切だな」

 リクトはそっけない返事をした。なんとなく、あの人間を辞めているようなヘルメスと同じレベルなのが気に入らない。


 ホムンクルスと話していたら、随分と時間が経った。小さな窓の外は夕焼けで赤く染まっている。

「もうこんな時間か……下に行くぞ。ヘルメスがきっと食事の準備をしているはずだ」

 リクトの言葉にホムンクルスは頷く。そして、下の階へ向かうリクトの後ろを付いていった。

「ヘルメス、食事はできているか?」

 一階にたどり着くと、リクトは開口一番にそう言う。

「ああ、もうそんな時間か。忘れていたな」

 ヘルメスはそう言うとペンを置く。そして、実験器具の間に挟まれたキッチンに向かった。

 一階のテーブルには相変わらず一つの椅子しかない。木製の椅子にホムンクルスを座らせると、リクトは立ったまま夕食が出てくるのを待った。

 夕食の準備が終わったのか、ヘルメスがテーブルの上に皿を並べる。テーブルの上には二枚の皿、その上にはチーズを挟んだパンが置かれた。

「って、この前食べたのと同じか……。せめて、スープかサラダを付けるべきだ。美味しいことは美味しいが、バランスが悪い」

 文句を言うリクトにヘルメスは舌打ちをする。

「あ、お前、今舌打ちしたな」

「してない」

「絶対した。舌打ちするのは止めろ!」

 ヘルメスの舌打ちがリクトの琴線に触れてしまったようで、妙にこだわる。ヘルメスは面倒くさそうに、「はいはい」と適当にあしらった。

「食事の種類について、今回は目をつぶってやる。しかし、どうして二つしかないんだ? ここには三人いるではないか」

 小屋にはリクト、ヘルメス、ホムンクルスの三人がいた。それに対して、テーブルに置かれた皿は二つしかない。

「ちょっと考えればわかるだろう。ホムンクルスの体は私が作った物だ。食事ができるようには作っていない。だから、食事は必要ない」

 ヘルメスの回答にリクトが唖然とする。

「そうなのか?」

 ホムンクルスに訊ねると、小さく頷いた。

 リクトは恥ずかしくなり、頭を抱えて縮こまった。そんなリクトを眺めていたホムンクルスが口を開く。

「あの、気を使ってくれて、ありがとう」

 リクトはそんな健気なホムンクルスの態度を見ていて、胸を打たれた。そして、感情の赴くままに、抱きしめる。

「おおー、可愛いなぁ。可愛いなぁ」

 ホムンクルスは抱きしめられるのが苦しいのか、顔を少し歪めた。

「嫌がってるから、止めなさい」

 ヘルメスはリクトを横目で見ながら、パンを口に運ぶ。そんな態度のヘルメスをリクトはジト目で睨む。

「あんな風に育ってはいけない。健やかに真っ直ぐ育つのだ」

 ホムンクルスはよくわからない感じだったが、とりあえず頷く。その様子を横目で見ていたヘルメスは少し笑っていた。

 リクトもいい加減ホムンクルスを解放して、パンを口に運ぶ。

「うむ、量はともかくこのパンは美味い」

「私のお気に入りの店で買ったものだ。時間が経っても美味しいから、重宝している」

 リクトがヘルメスの出したパンを評価していると、ホムンクルスはパンをじっと見つめる。それに気がついたリクトはどうしたのか訊ねることにした。

「どうした? パンがそんなに気になるのか?」

 ホムンクルスは問いに頷く。

「パンは小麦粉を原料とし、水でこね、発酵させてから焼きあげた食品。だけど、あたしはパンの味を知らない……。どんな味がするの?」

 ホムンクルスの問いにリクトは首を捻る。どんなと言われても、パンはパンの味であって、言葉で説明などした事はない。

「こういうときこそ、実力を見せるときだ。ヘルメス」

「さて、食事も終わったし資料の作成を再会するか」

 それだけ言うと、ヘルメスは机に向かって行ってしまう。テーブルにはリクトとホムンクルスだけが残された。

 ホムンクルスはリクトをじっと見つめる。パンの味についての回答を心待ちにしているようだった。

「そ、そうだな。小麦が香ばしくて、ふわふわとした食感が楽しめる。ちなみに、このパンにはチーズが挟んであるから、チーズのこくと、塩味が合わさりレベルの高い味に仕上がっているのだ」

 リクトはホムンクルスをちらちらと見るが、理解できない為首を傾げている。

「よくわからない……」

 リクトとしては全力でパンの味を伝えたつもりだったが、まるで伝わっていようだ。だが、心の底ではそうだろうなと、感じてしまう。

「とにかく、美味いってことさ」

 リクトは適当に誤魔化すことに決めた。

「ちょっと食べてみたい……」

 リクトはヘルメスをちらりと見る。相変わらず背中を向けたまま、資料の作成にいそしんでいた。

「まあ、飲み込まなければ問題ない」

 こっそりと聞き耳を立てていたのか、ヘルメスが答える。

 ヘルメスの言葉を聞いたリクトは、ホムンクルスに食べかけのパンをちぎってあげた。ホムンクルスはゆっくりとパンを咀嚼する。

「うーん……。味っていうのがよくわからない……」

 ホムンクルスは口の中のパンを皿に吐き出す。

「そうか、残念だったな。次は違うことに挑戦したらいい」

 リクトは残りのパンを平らげる。

「ご馳走様」

 リクトはヘルメスにそう言うと、二階に上がって行った。それに合わせて、ホムンクルスも付いて来る。

「待て。どうしてお前が付いて来る?」

 ホムンクルスは何がいけないのかわからずに、おどおどする。その様子を見たリクトは小さくため息を吐く。

「俺はこれから寝るから、お前ももう寝るんだぞ」

 それだけ言うと、リクトは二階に上って行く。ホムンクルスはリクトに言われたとおり、二階には上がってこなかった。

 日が落ちた為、二階は真っ暗である。しかし、ベッドに潜り込んで寝るだけのリクトには特に関係なかった。


 朝日の眩しさにリクトは目を覚ます。小さな窓から朝日が差し込み、部屋の中を明るく照らしていた。

「――さて、そろそろ起きるか」

 ベッドの上で両手を上げて背筋を伸ばす。

「おはよう……」

「おう、おはよう」

 リクトは何事もなかったように、挨拶を返す。

 ベッドから降りて、革靴を履き、メガネをかけた。そして、何もない部屋をぐるっと見回して、あることに気がつく。一応、確認のために、メガネをかけ直してみる。

「って、どうしてお前がいる……」

 リクトは部屋の隅で立っているホムンクルスを見つけた。視線はリクトを捕らえているものの、表情のない顔をしている。

 そんな様子のホムンクルスを見て、リクトは気がついた。

 この小屋にあるベッドは、二階にあるこのベッドだけだ。そのベッドを独占してしまったら、ホムンクルスは一体どこで寝るのだろう。無表情でこちらを見つめているのは、無言の圧力というものなのだろうか。

「もしかして、ベッドを独占したこと、恨んでいるのか?」

 直球ど真ん中に聞いてみる。

「そんなことないよ」

 表情を変えずにそう言うホムンクルスの態度がまた怖い。相当怒っているのだろうか。リクトは恐る恐る聞いてみる。

「昨日はどこで寝た?」

「寝てない」

 予想外の事実に、申し訳なさで胸がいっぱいになる。

「す、すまない。お前の寝る場所がなかったな。起こしてくれればよかったのだが……」

 リクトが頭を下げると、ホムンクルスは首を振る。

「そうじゃないの。あたしは寝る必要がないから……」

 リクトは忘れていた、彼女が人造人間だということを。

「そう、なのか? だったら、昨夜は何をしていたんだ?」

「ずっと、ここに居た」

 その不憫さに、少し涙が零れた。

「そうだったのか。今日はもう少し夜遅くまで付き合ってやる」

 その言葉に、ホムンクルスは頷いた。その愛くるしさから、リクトはついつい頭を撫でてしまう。すると、ホムンクルスは気持ちよさそうに、目を細めた。

 リクトはホムンクルスと共に一階に下りる。一階では朝は早いというのに、ヘルメスが机に向かっていた。

「おはよう、ヘルメス。もしかして、お前も寝ていないのか?」

 声をかけられて、ヘルメスは初めて二人の存在に気がついた。

「ああ、もうそんな時間か……」

 そう言ってペンを置き、立ち上がる。

「二人は先に外に出ていろ、私は準備をしてから行く」

 ヘルメスは狭いキッチンスペースに移動する。

 リクトとホムンクルスはヘルメスの言いつけどおり、小屋から出ようと、扉に向かって歩く。

「ちょっと待ちなさい」

 ヘルメスに呼び止められ、二人は足を止める。

「どうしたんだよ」

「これを渡そうと思ってな」

 ヘルメスはホムンクルスの近くまで来ると、足元に古ぼけた靴を置く。その靴は古いが壊れているわけではなかった。

 ホムンクルスは差し出された靴を履く。その靴はホムンクルスに対しては大きく、ぶかぶかだった。

「もっとましなのはなかったのか……」

 リクトはヘルメスの方を見る。

「悪かったな、私のお古しかなくて」

 悪かったと言っている割には、悪びれた様子はなく、平然と言い放つ。

「ヘルメス、ありがとう」

 ホムンクルスの言葉にヘルメスは驚いたのか、目を大きく見開いた。だが、それも一瞬のことで、すぐに平常に戻る。ヘルメスは外に出て待っていろと言うと、台所に戻っていった。

「どうしたんだよ?」

「なんでもない……」

 ヘルメスは顔をリクトに向けようとしなかった。もしかしたら、少し照れているのかもしれない。

 外は日差しが強かったが、朝ということもありそよぐ風は涼しかった。

「そういえば、外にテーブルと椅子があったな。そこで、ヘルメスを待つとするか」

 そう言って、二人はテーブルへ向かう。

 テーブルには椅子が三つ備わっていた。

「どうして、椅子が三つもあるんだろうな」

 ホムンクルスに訊ねると、首を横に振るだけでその理由を知らないようだった。

「まあ、今にしたら都合がいいな。椅子に座って待つとしよう」

 リクトとホムンクルスは椅子に座って、ヘルメスが来るのを待つ。

 リクトは頬杖をつきながらボーっとする。ホムンクルスも暇なのか、足をぶらぶらさせていた。ぶかぶかの靴は脱げそうになるが、それを楽しんでいるように見える。リクトはそんな様子のホムンクルスを眺めていた。

「なあ、ふと思ったんだが、食事は必要ない、睡眠も不要、あらゆる知識を持っている。そんな状態で生きていてつまらなくないか?」

 リクトにとって、ホムンクルスは異形の者。自分の理解が及ばないホムンクルスは、薄気味の悪い存在かもしれないと感じ始めていた。

「正直、どうなのだ?」

 ホムンクルスはそんな様子のリクトを見つめる。この無表情な様子も、リクトにとっては理解の及ばないところであった。

「つまらないなんて事はないよ。あたしは確かにあらゆる事を知ってる。だけど、これから起こる事は知らないし、わからない。これから、何が起こるかわからないから楽しいよ」

 そう言うホムンクルスは無表情で、ちっとも楽しそうに見えない。

「それに、人間の考えや、好き嫌いをあたしは理解できないの。だから、こうやって話すことがとても楽しい」

 リクトはホムンクルスの話を聞きながら、メガネを押さえる。楽しいと言っているのに関わらず、無表情であることに違和感を覚えた。

「んー、楽しいと思うなら、笑ってみたらどうだ? いつもそんな表情していたら、疲れるぞ?」

 ホムンクルスは首を傾げる。

「笑う? おかしさ、うれしさ、きまり悪さなどから、やさしい目付きになったり、口元をゆるめたりする事……?」

「まあ、そんなところだ。ちょっとやってみろ」

 リクトがせかすと、ホムンクルスは表情を変えようと顔をぴくぴくさせる。その様子はただ痙攣しているだけで、まるで笑顔になっていない。

「おいおい、それでは全然駄目だな。いいか? 笑顔っていうのはこうやるんだ」

 リクトは両口端に指をあてて、それを両側に引っ張るように上げる。そして、目を細める。

 そこに、ヘルメスがタイミングよく現れた。そして、リクトを見つめること、三秒。盛大なため息を吐く。

「貴様は何をやっている? ついに頭がイカレたのか?」

 ヘルメスからの冷たい突っ込みに、リクトは顔を赤くしながら表情を元に戻した。そして、咳を一つして誤魔化そうとする。

「ホムンクルスに笑顔の見本を見せていただけだ。別に頭はイカレていない」

「おめでたいな」

 ヘルメスはリクトの意見を一蹴する。ヘルメスの態度にリクトは怒りで歯を噛み締めた。

 ヘルメスは持ってきたバスケットをテーブルの上に置く。その中にはいつもと同じようにパンが二つに、ティーポットとコップ二つが入っている。

「また同じメニューか……」

「黙って食え」

 またもヘルメスに一蹴されて、大人しくパンを口に含む。

「! 今度はチーズと一緒に卵が入ってるのか。これも結構美味い!」

 リクトはパンの美味しさに自然と笑顔になった。その顔を見たホムンクルスは指を使って笑顔の練習をする。

「いつもと同じじゃ不満なのだろう? 折角だから少し手を加えてみた。確かにいつも同じものを食べていては、つまらないな」

 ヘルメスはそう言うと、パンを口に運ぶ。いつも無愛想なヘルメスも、今日ばかりは少し笑顔になっていた。

「なあ、このテーブルを見て疑問に思っていたんだが、どうして椅子が三つも用意されているんだ?」

「何を寝ぼけたことを言っている。私に貴様にホムンクルスの分だろう」

 ヘルメスの手回しのよさに、リクトは少々驚く。

「へぇ、そういうところはあまり気にしないタイプだと思っていたんだが、お前の評価を少し変える必要があるみたいだ」

「前に貴様が来た時に言っただろう、『外で食べるのもなかなかにいいものだ』と。だから、わざわざ三人で居られるようにしたのだ」

 ヘルメスはさらにパンを口に運んだ。少し照れているのか、目をつぶっている。その他にも、手の動きが心なしか速い。

「まさか、あの時の事を覚えているとは驚きだ」

「私は好きなことをして生きるのが好きなのでな」

 リクトもさらにパンを口に運ぶ。

 テーブルには一種の緊張が漂い、それを察知したホムンクルスは笑顔の練習を止めて、二人を交互に見た。

「まあ、そうだな。人生とはそうありたいものだ」

 リクトはパンを食べ終わる。

「もう少しゆっくり味わって食べたらどうだ?」

「悪いが、俺は好きな物ほど早く食べたがるようなのでな。お前のパンは美味かった」

 リクトはティーポットから、ビーカーへお茶を注ぐ。お茶は相変わらず黄色だった。

「これが紅茶だったら、最高だったのだが……」

 薬の臭いのするハーブティーを一口すする。

「貴様はそれなりに金持ちなのだろう。持参すればよかったではないか」

 ヘルメスはまだパンを食べていた。

「そうか‥‥そうすればよかった」

 リクトはハーブティーを飲むたびに顔をしかめる。ヘルメスはそんなリクトを横目で見ていた。お茶を作った者として、不満があるようである。

「どうしてリクトは、そんな顔をしながらお茶を飲むの?」

 ヘルメスも直接聞かないことを、ホムンクルスは平然と聞いてくる。その為、テーブル一帯には、さらに緊張した空気が流れ始めた。

「そうだな。食事の後は喉が渇くものだ。その渇きを潤すためにお茶を飲むわけだ。確かに自分の好みではないが、これはこれで味がある」

 リクトはそう言い終わると、ハーブティーに口を付ける。その様子をヘルメスはじっと見つめていた。

「別に私に気を使う必要はない。不味いがこれしかなく、仕方なく飲んでいると言えばいいではないか」

「何だよ、その言い方は。俺は別に不味いなんて思っていない」

 だが、リクトがハーブティーを飲むときの表情が、事実を物語っていた。それは、ヘルメスだけでなく、ホムンクルスにもわかるほどである。

「嘘を吐くな」

「嘘じゃない」

 リクトとヘルメスは睨み合った。その間でホムンクルスは二人を交互に見る。

「俺は不味いものは不味いと言うし、不味いものを好きこのんで飲んだりしない。ただ、好みじゃないだけだ」

「好みじゃないというのは、不味いという意味なのではないか」

 それから、しばらく二人の口喧嘩は続いた。その間に挟まれたホムンクルスは縮こまることしかできない。


 昼になり、太陽が真上に差し掛かる。季節は夏、当然暑くなってきた。となると、汗をかくのは当然の摂理といえよう。

「ヘルメス、沐浴したいんだがどこかいい場所はないか?」

 小屋の中は風通しも悪く、思ったより熱がこもってくる。リクトはその暑さに負けて、法衣の首元をだらしなく広げていた。

 そんな中、ヘルメスは机に向かってペンを走らせている。

「沐浴か。それなら、裏の井戸を使うといい。私が使う道具もあるから、不便することはないだろう」

 ヘルメスは椅子に座ったまま、首だけリクトの方に向ける。その顔はいつもと変わらず、汗一つかくことなく涼しげであった。

「井戸なんてあったのか。てっきり雨水を利用していると思ったんだが……」

「貴様は知らないかもしれないが、錬金術の研究には大量の水が必要なのだ。雨水ではとても足りない。その為にわざわざ井戸を掘ったのだ。まあ、十分に活用してくれ」

「そうか、じゃあ遠慮なく使わせてもらう」

 リクトが小屋から出て行くのを確認すると、ヘルメスは再び机に向かった。すると、白衣の裾を引っ張る感触がある。そちらを見ると、ホムンクルスが白衣の裾を掴んでいた。


 小屋の外に出てから、裏手に回るとそこには立派な井戸があった。ヘルメスが言ったとおり、大き目の桶が井戸に立てかけてある。木綿のタオルも一緒に干してあり、沐浴にはもってこいだった。

「ヘルメスの言ったとおりだな」

 リクトは呟くと桶を手に取り、地面に置く。人一人が入れるくらい大きな桶だった。ヘルメスもアレで女だから、沐浴は欠かさないのだろう。そうでなければ、あの綺麗な白髪は維持できるものではない。そう、リクトは思った。

 桶に井戸の水を注ぐと、リクトは上半身だけ裸になる。そして、タオルを水に浸してから、絞って水分を取る。

 まずは、そのタオルで体を拭く。濡れたタオルはひんやりとして、リクトの体温を奪っていく。それがとても気持ちがいい。タオルが温くなる度に、桶の水で洗い再び冷やす。

 リクトが沐浴を楽しんでいると、誰かの足音が近づいてくる。

「どうした? ヘルメス、何の用だ?」

 リクトは気にせず、体を拭き続ける。すると、足音は急に早くなり、聞こえなくなった。その次の瞬間、バシャーンという音と共に水しぶきを頭から浴びることになる。

「一体何が起こった!」

 リクトが桶を見ると、そこには全裸のホムンクルスが水に浸かっていた。

「おい、何やってる?」

 リクトは顔にかかった水滴を拭いながら訊ねる。

「沐浴」

 ホムンクルスは水に浸かったまま答えた。

「今は俺が沐浴してる。早く出て行きなさい」

「一緒に沐浴しようよ」

「駄目だ。俺は男、お前は女。一緒にするものじゃない。大体、ヘルメスに入れてもらえばいい」

「ヘルメスが、リクトに入れてもらえって言った」

 リクトは頭を抱える。

「あの女……」

 そんなリクトを無視してホムンクルスは桶の水を全身に浴びて、沐浴を楽しむ。

「これが沐浴。気持ちがいい」

 ホムンクルスは沐浴が気に入ったらしく、桶の水を体に浴びせる。桶の中ではしゃぐホムンクルスはいつも以上に幼く見えた。とはいえ、いつもと同じ無表情のままである。

 そんなホムンクルスを見ていると、このまま追い払うのも可哀想な気がしたので、このまま付き合ってやることにした。

「はぁ、仕方ない。今回だけだ。次からはヘルメスに入れてもらえ」

 その言葉にホムンクルスは頷く。

 リクトはホムンクルスを座らせて、髪の毛を洗ってやる。濡れた髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。緑色の髪がまるで海草のように見える。

「気持ちいいか?」

 リクトの言葉にホムンクルスは頷く。

「息を止めろよ。これから水で流してやるからな」

 ホムンクルスはぎゅっと目をつぶって、息を止める。それを確認すると、頭から井戸水をかけてやった。

「はぁ、気持ちいい」

 ホムンクルスは無表情のまま、そう言う。見た感じあまり気持ちよさそうではないが、本人がそういっているのだから、よしとすることにした。

「よ、よし。次は体を拭いてやろう」

 ホムンクルスの背中をリクトに向ける。そして、背中をごしごしと拭いてやる。

「気持ちいいか?」

「うん」

 リクトは少し嬉しくなって、ホムンクルスの体を念入りに拭いてやる。

 体を拭き終わると、今度はホムンクルスが提案してきた。

「リクトの体を拭いてあげる」

「お? そうか? それでは、頼むとしよう」

 リクトはホムンクルスに背中を向けた。すると、背中にタオルのこすれる感触がする。力は強くないが、丁寧な拭き方はリクトを喜ばせた。

「リクト、ズボン脱いで」

 上半身を拭き終わると、ホムンクルスは下半身も拭こうとする。

「駄目だ。そこは自分でやる」

 リクトはさすがに下半身を晒すわけにはいかないと思い申し出を断った。

「そう、なの……」

 ホムンクルスの残念そうな声がリクトの耳に残る。ホムンクルスの俯いた様子を見ると、頼んでやりたい。しかし、少女の容姿をしたホムンクルスに下半身を拭いてもらうのは、色々な意味で危険ではないだろうかと、考えてしまう。

 リクトが腕を組んで考えていると、水が飛んできてズボンが水浸しになってしまう。

「おい、何をしている?」

「ごめんなさい。ズボンが濡れちゃったね。早く脱がないと、風邪ひいちゃうよ?」

 指をわきわきと動かしながら、全裸のホムンクルスが近づいてくる。

「おいっ! 何言ってるんだ!」

「脱がないのなら、実力行使します」

 無表情のはずのホムンクルスの顔が笑っているように見える。そして、ホムンクルスの手が、リクトのズボンに触れた。

「アッーーーーーー!」

 リクトの絶叫が草原中にこだました。


 小屋の中でペンを走らせるヘルメスはリクトの絶叫に顔を上げる。

「あいつらは外にいても私の邪魔しかしないのか……」

 ヘルメスは頭を掻き毟りながら、再びペンを走らせる。

 それから、小屋の中にさめざめと泣くリクトと、満足そうな顔をしたホムンクルスが入ってきたのは、数十分後だった。

「もうお婿にいけない……」

 リクトはそう呟きながら、涙を流す。対照的にホムンクルスは満足そうにリクトに抱きついている。

「貴様ら何をしていた?」

「聞くな……」

「ヘルメス、沐浴楽しかった」

「――それはよかった」

 ヘルメスは深くまで話を聞くことはしなかった。


 太陽が頂上より少し下がった頃、リクトは外にあるテーブルでハーブティーを飲んでいた。確かに薬っぽい味と臭いは独特なものがあるが、紅茶の代用品としては決して悪くない。

 昼食を終え、ヘルメスは資料作成の為小屋に戻ってしまった。ホムンクルスはぶかぶかな靴をカポカポと鳴らしながら、その辺を歩いている。どうやら、野草や昆虫に興味を持ったらしく、草原を歩き回っていた。

 緑色の髪と瞳。本来はありえない色をした創られた人間、ホムンクルス。ここの人通りは殆どなく、ホムンクルスも気兼ねなく外出できる。

 しかし、一度街に行ったら、大パニックだろう。リクトのような異端審問官が出てくるかもしれないし、その前に兵士に捕らえられるかもしれない。

 最近は魔女狩りなるものも地方で頻繁に行われるようになっていた。ホムンクルスは真っ先にその標的になるだろう。だが、ここで暮らす限りはそんなことは起こり得ない。

 ここは実に居心地がいい。ウィーンでは仕事に追われ、こんなにのんびりすることは許されない。立派な屋敷も豪華な食事もないが、ここでの生活を気に入り始めていた。

「しかし、日差しは暑いな……」

 リクトはそう言いながら、熱いハーブティーを口に含んだ。気温自体は高いので、額に汗がにじんでくる。その汗は、時折吹く風が拭い去ってくれる。

 リクトは目を瞑り、少しうとうとし始める。遠くでホムンクルスの歩く足音が聞こえるのが、平和に感じられた。ここでのゆっくりと過ぎ去る時間が、とても心地よい。

 服を引っ張られる感触に、リクトは目を覚ます。すぐ隣にいたホムンクルスが法衣の裾を掴んでいた。

 リクトは眠たい目をこすりながら、ホムンクルスを見る。相変わらず、無表情な顔をしていた。

「リクト、外で寝ると風邪ひくよ?」

「ははは、大丈夫。外はこんなに暑い。これぐらいじゃあ風邪はひかないのだ」

 リクトはホムンクルスの心配を笑い飛ばす。その時、ホムンクルスの顔に何か黒い線のようなものがついていることに気がついた。

 リクトは目を凝らして、その黒い線をよく見る。その黒い線は亀裂だった。古い建物にできるような亀裂がホムンクルスの額に走っている。

 人の顔に亀裂が走るなんて聞いたことのないリクトは、ホムンクルスの顔をまじまじと見つめる。見間違いではなく、間違いなくそれは亀裂だった。亀裂ということは裂傷のはずだが、ホムンクルスからは血が一滴も出ていない。

「おい、お前、額に傷があるが、痛くはないか?」

 ホムンクルスはリクトの言葉を聞き、顔のあちこちを触って、額の亀裂にたどり着いた。

「痛くはないよ。あたしに痛覚はないから……」

 初めて知ることだった。ホムンクルスは味覚もなければ、痛覚までなかったのだ。リクトは息を飲んで、もう一つ質問をしてみる。

「もしかして、血もないのか?」

「うん。ないよ」

 ホムンクルスは重大なことを事も無げに言う。

 ここで、さらにホムンクルスと人間の違いを思い知った。

「その傷、もしかしたら結構深いかもしれないな……」

 リクトはホムンクルスの額の亀裂を見ながら、呟いた。あまりリクトがじっと見るものだから、ホムンクルスは額の亀裂を撫で回す。その時、額を撫で回していた左手の人差し指がポロリと、とれてしまった。

 驚愕的な出来事に、リクトは言葉を失った。

「あ、取れちゃった。さすがにもう限界かな……」

 ホムンクルスは驚くことなく、いつもと同じ無表情でとれてしまった人差し指を拾い上げた。

「どうしたんだ! 何が起こったんだ! そうだ、ヘルメスなら何か知ってるかもしれない。ヘルメスのところに行くぞ」

 リクトはホムンクルスを連れて、小屋の中に入る。メガネがずれたのも気にせずに、小屋の中でたっている。小屋の中では相変わらず、ヘルメスが机に向かっていた。

「ヘルメス! ホムンクルスが大変なんだ。ちょっと見てやってくれないか?」

 リクトの尋常ではない様子に、ヘルメスはペンを置き、椅子から立ち上がった。

「こいつを見てくれ、額に亀裂ができたと思ったら、今度は指が取れたぞ……」

 その本人はいたって平然としていたが、リクトだけが取り乱していた。

 ヘルメスはホムンクルスのところまで来て、その様子を眺める。

「落ち着け。貴様が取り乱してどうする」

 言葉だけで落ち着けるほど、今のリクトに余裕はなかった。

「それで、これは治るのか?」

「……簡潔に言おう。これはもう治らない」

 ヘルメスは絶望的な言葉を、顔色一つ変えずに言い放つ。

「何でだよ、どうして治らないんだよ!」

「ホムンクルスは失敗作だからだ。すでに限界が来たのかもしれないな」

 ヘルメスの言葉に頭にきたリクトは、ヘルメスの胸倉を掴む。

「失敗作ってどういう意味だ! 俺にもわかるように説明しろ!」

 リクトは一人、大声で叫ぶ。ヘルメスは胸倉を掴む手を振り払うと、白衣の襟を正した。その仕草の冷静さを見たリクトは、さらに怒りを感じる。

「簡単に言うと、ホムンクルスの創造の方法に誤りがあったのだ。これは、ホムンクルスが誕生したときに知った話だ。だが、安心しろ、ホムンクルスから完全な人造人間の創造方法を聞きだした。それを今、資料に纏めている」

 リクトは握り拳を作り、力を込める。その肩は少し震えていた。隣にいるホムンクルスは心配そうにリクトを見上げている。

「俺が心配しているのはそんなことじゃない! ホムンクルスの体のことだ! 何で治らないかを説明しろよ!」

 ヘルメスは冷たい目でリクトを見ながら、ため息を吐く。

「創造の方法が間違っていた。人間の素を別の器に入れるのでは、不完全だった。創造過程が間違っている物を直せるわけがない。つまり、不良品というわけだ」

「言うべきことはそれだけか?」

 ヘルメスはリクトが何を言わんとしているのか、理解ができず首を傾けた。

「そうだな。特にない」

 リクトは力を込めて握った拳をヘルメスの顔面に叩き込んだ。

 ヘルメスは殴られた勢いで、後方に吹っ飛び、各研究器具に派手な音を立てながら突っ込んだ。ガラス製品のものが多かったため、器具の殆どは割れて地面に散らばる。

「何をする?」

 ヘルメスは口元から垂れる血を拭いながら立ち上がる。透き通るようなヘルメスの肌は、殴られた頬のみ赤みを帯びていた。

「お前はそれでも人間か! 人間らしいところもあると思っていたが、俺の思い違いだったようだ!」

 リクトはヘルメスに向かって大声で叫ぶ。ホムンクルスはそんな二人の様子を交互に見ていることしかできなかった。

「おかしいのは貴様だ。ホムンクルスは人造人間。人間ではない。それとも、本当に父親にでもなったつもりか? 馬鹿馬鹿しい」

 リクトはヘルメスの態度に腹が立ち、奥歯を噛み締める。

「お前は! 指の取れたホムンクルスを見て何も思わないのか? 可哀想だとか、助けてやりたいとか、思わないのか?」

「それは失敗作で、いつ壊れてもおかしくない代物だった。だから、当然のことが起こった程度の認識しかない。それより、貴様の方がおかしいぞ。私達は人造人間を完成させるために手を組んだ共犯者だろう。完全な人造人間の創造方法を得られて、喜ぶべきではないのか?」

 確かにヘルメスの言うとおり、リクトは人造人間の創造方法を得られればそれでよかったはずだ。その技術を持ち帰り、さらに地位を上げることがリクトの目的だったはずである。

 だが、今のリクトはホムンクルスを放っておけなかった。ホムンクルスがこんな事になったことを、とても悲しんでいる。

「とにかく、何とかできないか? 治す事はできなくても、これ以上傷つかない方法とかあるんじゃないのか? 頼むよ……」

 ヘルメスは口を閉ざした。その意味は、ヘルメスにも打つ手がないということなのだろう。

「リクト、泣かないで。あたしはこうなることを知ってたから。あたしの体が崩壊する事を知っているから大丈夫だよ。平気だよ」

 知らず知らずのうちに、リクトは涙を流していた。自分でも何で泣いているか、理解ができない。

「お前はいいのか。このまま、死ぬかも知れないのだぞ?」

「あたしはこうなることを知っていたの。だから、大丈夫」

 ホムンクルスはいつもと変わらない無表情で言葉を紡ぐ。その様子は全てを達観した者のように思えた。

「そんなこと言うな。知っていれば、諦められるのか? 違うだろ、もっと生きたいと思わないのか?」

 ホムンクルスはリクトの言いたいことが理解できないのか、ただ首を傾げるだけだった。

「リクト、諦めろ。それが貴様の為だ」

 ヘルメスはそう言い放った。だが、それはリクトを思っての言葉である。それが理解できたリクトは余計に辛かった。

「俺は諦めない。絶対だ。絶対にこのまま死なせない」

 興奮するリクトを見たヘルメスは限界だと感じて、懐に忍ばせた注射器を取り出す。

「何をするつもりだ!」

 ヘルメスの取り出した注射器にリクトは敏感に反応する。

「今の貴様は興奮しすぎている。少し頭を冷やした方がいい」

 そう言うと、ヘルメスはリクトとの距離を詰めた。リクトも警戒して、身構える。その様子にヘルメスは舌打ちをして、その場で止まった。

「ホムンクルス、奴の気を逸らすんだ」

 ヘルメスの言葉に頷く。そして、素早くしゃがむとリクトの足にしがみついた。その行動に驚いたリクトはヘルメスから視線を外す。

 その瞬間を見逃さず、ヘルメスはリクトとの距離を詰める。そして、手に持った注射器をリクトの首へ素早く刺した。そして、その薬を注入する。

「ヘルメス、お前……」

 すぐに効き目が現れて、リクトの意識はすぐに闇の中に解けてしまった。そして、リクトはその場に倒れてしまう。

「全く、酷い有様だ。私が苦心をして集めた器具が台無しだ」

 ヘルメスは殴られた頬をさすりながら、壊れた器具の数々を眺める。それから、ホムンクルスの方を向くと、口を開いた。

「ホムンクルス、ちょっと来い。これから、お前をどうするか決めなくてはならん」

 ヘルメスの言葉に従うように、ホムンクルスはヘルメスの元に歩いていく。

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