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ヒトガタ  作者: 鮎太郎
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 ウィーンから馬車で三日。リクトはザルツブルグに到着した。

 その道のりは決して快適とはいえないが、本を読んでいればいいので、リクトにとっては楽なほうであった。

 特にトラブルもなく、予定通りに馬車は進んだ。

 ザルツブルグはウィーンから西に三〇〇キロの位置存在しており、ドイツとの国境付近にある都市である。『塩の城』という名に違わず、塩の貿易によって栄えた都市であった。

 リクトは噴水のある公園で馬車から降りる。日はまだ高く、小高い丘の上にはホーエンザルツブルク城が城下町を見下ろしていた。

「結構大きな城だな」

 見上げた先にホーエンザルツブルグ城がある。

 リクトは赤い法衣に黒い前掛けを付け、黒いマントを羽織った格好をしている。前掛けには白い十字架が描かれていた。メガネをかけ直して、これから向かう先を探す。

「さて、大聖堂はどこかな?」

 道の先に見えるドーム状の建物が、ザルツブルグ大聖堂である。石造りの家の間を通っている石畳の道を歩き、ザルツブルグ大聖堂へと向かった。

 道を行く人々がリクトに対して軽く会釈をしてくるので、それに応えながら先へと進む。出張先ではよくあることなので、慣れていた。

 大聖堂の巨大な扉を開けて中に入ると、中は薄暗くステンドグラスから入り込む光だけが頼りだった。

 人が入ってきたことに気が付いた白い法衣を着た中年の小太りな男性が、リクトに寄ってくる。

「おや、これは異端審問官様が何か用ですかな?」

 中年の男性はリクトの衣装を見て、異端審問官だと気が付いた。法衣を着ている事から、教会関係者であることには間違いない。

「私はリクト・ラインフィールド。ここ最近、ザルツブルグに現れるという不審人物について調査に来た」

 リクトはメガネを直しながら口元をつり上げる。

「ほう、それはご苦労様です。私はここで司教をしているトマスと言います。ちなみに、どちらからいらっしたのですか? この辺りでは見かけませんが」

「ウィーンからだ。不審人物の噂を耳にしたので、ここまで出向いた訳だ」

 トマス司教は朗らかに笑う。

「そうでしたか、遠くからよくいらっしゃいました。黒ローブの人物にはこちらも手を焼いておりまして……。こちらの審問官も目をつけたのですが、どうしても出会うことができなかったのです」

「それは不思議なことだ……」

 リクトはニヤリと微笑む。まだ、他の審問官の手にかかっていないことに、リクトは内心喜んだ。

「ええ、町で待ち構えていても、住居らしき場所に出向いても出会えなかったそうです。別に実害もないので今は放置してある状態ですがね」

「実害は出て無いのか?」

「はい。それどころか、売っているポーションの効き目は抜群らしく、街中では評判がいいぐらいなのです。その為、この町の審問官達も手を出し辛いみたいですね」

 他の異端審問官にちょっかいを出されずに調査ができることは、リクトにとっては幸運なことだ。下手な審問官と共に調査すると、足を引っ張られかねない。リクトとしては都合のいい状態であった。

「そうか。不審人物に関してもっと詳しい情報が欲しいのだが、どうだろうか?」

「かまいませんよ。その人物なのですが、実は錬金術師らしいのです」

「錬金術師……?」

 いかがわしい単語が出てきたことに、リクトは眉をひそめる。

「そうなのですよ。住居を調査しに行った審問官の話では、様々な器具が沢山あったと報告されています。器具の種類から恐らく錬金術師だろうという結論に至りました」

 リクトは黙って司教の話に耳を傾けた。

「その錬金術師なのですが、妙な話を耳にしましてね。ポーションを購入した人物から聞いた話しでは、極端に喋ることを嫌っていたみたいなのですよ。ポーションを買うときも、必要最低限の言葉しか口にしなかったとか」

「それは興味深い。何か隠している事があるに違いない……」

 リクトは腕組みをして、思考を巡らす。

「私が知っていることはこれぐらいですね。他に何か聞きたいことはありますか?」

 これ以上詳しく聞いたところで、誰も錬金術師と出会っていないなら、ろくな情報ないだろう。それより、自分で錬金術師に会ったほうが早いと、リクトは考えた。

「そうだな。できれば錬金術師の住居について詳しい場所を教えて欲しいのだが……いいだろうか?」

「ええ、わかりました。錬金術師の住居はザルツブルグ郊外の……」

 トマス司教から詳しい場所を聞いたリクトは、大聖堂から立ち去ろうとする。すると、トマス司教が声をかけてきた。

「おや、説教は行われないのですか?」

 大抵の異端審問官は集落、村、都市に赴き、最初に説教を行う。そこで、教徒から密告を受けて、異端者は告発されるのだ。

「いえ、私の目的は不審な錬金術師だ。他の異端者に関してはここの審問官に任せる」

 リクトはメガネを直し、ニヤリと微笑む。

「そうですか。それでは神のご加護があらんことを……」

 トマス司教はリクトに向けて十字を切る。リクトも十字を切り返した。そして、大聖堂を後にする。


 ザルツブルグ郊外にある錬金術師の住居に到着する。日はまだ高いところにあり、話を聞くには十分な時間だった。

 トマス司教から教えてもらった場所は、小高い丘になっており、辺りには草原が広がっていた。その中にぽつんと一つだけ、木製の古びた二階建ての小屋がある。結構年季が入っており、所々が補修されていた。

 辺りに民家はなく、どんな大きな音が鳴っても、誰からも苦情が来ないだろう。実験をするにはもってこいの場所だ。

 遮蔽物はなく、心地よい風がリクトの隣を通り過ぎていく。

「なかなかいい場所だ」

 リクトは木製の扉の前に立つ。遠くから見たより古びた扉は、本当に人が住んでいるのか怪しく思わせるのに、十分な説得力を持っていた。

 扉についている金属製のノックを三回叩く。しかし、小屋の中から何も反応はない。今度は先程より力強くノックする。それでも、やはり反応はなかった。

 リクトは扉を直接手で叩きながら叫ぶ。

「誰かいないのか?」

 反応がないので、勝手にお邪魔することにした。しかし、扉には古いながらも鍵がかかっており、開けることは叶わない。

「俺は異端審問官のリクト・ラインフィールド。ここの調査に立ち寄った。返事なき場合は強硬手段をとらせてもらう」

 小屋に向かって大声で叫ぶ。すると、小屋の中で物音が聞こえてきた。そして、扉についている覗き窓が開き、二つの金色の瞳がリクトを睨む。

「異端審問官というのは本当か?」

 扉越しにくぐもった声が聞こえてきた。恐らく、錬金術師本人の声だろう。トマス司教の言うとおり、必要なこと以外喋ろうとしない。

「ああ、本当だ。そんなに疑るなら、任命書を見せてやってもいい」

 リクトは常に任命書を持ち歩いている。異端者は大抵こちらが本当の異端審問官かを疑ってくるものだ。

「そんなものはいくらでも偽造できる」

 錬金術師の言葉にリクトはなるほどと納得してしまう。成程、確かに本物は本物を知る者にしか意味を成さない。

「ならば、どうやって証明すればいい?」

「私をどうする気だ?」

 質問を質問で返されて、リクトは気分を害すが錬金術師と会うためにぐっと我慢することにした。

「それは話を聞かないとわからないな。お前が何をしようとしているかによって決めさせてもらう」

 扉の向こうでふっと錬金術師が笑う声が聞こえた。

「いいだろう。今開けてやる」

 扉の向こう側でごそごそと何かをする音が聞こえてからすぐに、扉が開かれた。

「ようこそ、異端審問官殿」

 直接対面して聞く錬金術師の声は若く、高い声をしていた。まるで女性の声のようだった。錬金術師はフード付きの黒いローブを着込み、どんな容姿をしているかまるでわからない。身長はリクトより少し高い程度であった。だが、そんな格好だからこそ、目立つし、不審に思われる。

「初めまして、錬金術師殿」

 リクトは不敵に笑いながら、錬金術師に挨拶をする。そして、錬金術師に招かれるまま、小屋の中に入っていった。

 小屋の中は錬金術に使いそうな器具であふれている。ビーカー、フラスコ、小型の炉、蒸留器、様々な鉱物に、乾燥した薬草。それらが、整然と小屋のいたるところに置かれている。

 小屋には小さな窓しかなく、部屋の中は薄暗い。昼間だというのに、テーブルの上に置かれたランプに火が灯っている。

 小屋の中には多種の薬草の匂いが充満している。決して埃臭くないところから、普段から掃除を欠かさないことが読み取れた。

 錬金術師が木製の椅子を勧めてくる。部屋の中を見ると、椅子はその一つしかないように見えた。

「お前は座らないのか?」

「ここは客が来ることを想定していない」

 錬金術師はぶっきらぼうにそう言うと、テーブルを挟んでリクトの反対側に移動する。

「それなら、俺も椅子は必要ない。立ったまま話すとしよう」

 リクトは腕組みしながらそう言った。

「ふん。変わった奴だ」

 錬金術師はそう言うと、黒いローブを脱ぎ去る。初めて見る錬金術師の姿に、リクトは目を奪われた。

 艶やかな白髪のロングヘアに魅惑的な金色の瞳。その姿は間違いなく女性だった。見た感じ、二十歳代だと考えられる。胸も大きく膨らんでおり、見間違いには思えなかった。本当に錬金術師かと疑ってしまう。

「どうした? 驚いたか?」

 錬金術師はニヤニヤと笑いながら、リクトの反応を楽しむ。

 白衣に、ミニスカートで腰には宝石の付いた剣を帯びていた。今まで見たこともない奇抜な格好にリクトは唖然とする。

「ああ。しかし、どうしてわざわざローブで容姿を隠していた?」

「女性だと知られると、それだけで見下されるからな。できるだけ素顔は晒さないようにしている」

「なら、どうして俺の前で素顔を晒すのだ?」

「貴様は最初に名乗ったからな。その姿勢に敬意を評したまでだ」

 リクトは錬金術師にある程度信用されたのだと理解した。それはこれから調査を続ける上では重要なことである。

「それなら、名前を教えてもらってもいいか?」

「私の名はヘルメス・トリスメギストスだ」

 錬金術師の回答に、リクトは歯を噛み締める。

「何だその名は? 俺には本名を名乗る気はないということか?」

 錬金術師は不敵に微笑む。

「どうして私の名が偽名だと?」

 錬金術師の言葉にリクトが激昂する。

「ふざけるな! ヘルメス・トリスメギストスだと? 古代ローマの賢者の名前じゃないか! そんなことは誰でも知っている!」

 錬金術師はそんなリクトの様子を眺めながら、楽しんでいるように見える。

「悪いけど、私のことはそう呼んでもらうよ」

 本名を名乗る気のなさそうなヘルメスに諦めて、話を進める。

「ザルツブルグで聞いたのだが、錬金術師らしいな?」

「そうだが、何か問題でも?」

 リクトは眉をひそめる。ヘルメスは何の抵抗も見せずに、錬金術師であることを肯定した。それどころか、少し誇らしげだった。

「錬金術師など、ただの詐欺師だろう。石を金に変えることなど不可能だ。それなのに、まるで可能のような話をして人心を惑わせる。俺はそんな詐欺師が大嫌いだ」

 リクトはヘルメスを睨むが、ヘルメスは涼しい顔をしている。結構言われ慣れているように感じた。

「まあ、これでも前は大学の講師を務めていたのだがな。私の言うことが嘘だと思うなら、自分の目で確かめてみるかね?」

 ヘルメスは棚に並べられていた鉱石を一つ手に取ると、テーブルの真ん中に置く。鉱石は黒色に近く、どこにも転がっていそうな代物だった。そして、腰に付けている剣を鞘から抜き出した。その剣には「Azoth」という文字が刻まれていた。

「そんな剣でどうするつもりだ? 俺を殺す気か?」

 剣を取り出したヘルメスを警戒する。そんなリクトを馬鹿にするように、ヘルメスは見下す。何も知らない者を嘲笑うような嫌な視線だった。

 取り出した剣の切っ先をを鉱石に向ける。剣に付いていた宝石から液体が流れ出し、剣をつたって鉱石に雫が一滴落ちる。

 すると、みるみるのうちに、ただの鉱石が光り輝く黄金へと姿を変える。黒から金へと、色が変わる様子は、まるで空の色が変わるようだった。

 その現象にリクトは息を飲み、声を出すことができなかった。

 呆然としているリクトを尻目に、ヘルメスは剣を鞘にしまう。

「これで信じてもらえたかな?」

 リクトにとっては初めての出来事で、現実に対する理解が追いついていかない。

「これは本物なのか?」

 リクトが見る限り、本物の金に見える。確かな鑑定眼を持っているわけではないので、本物かは定かではない。だが、決して紛い物には出せない輝きを持っていた。

「さて、何をもって本物とするか明確な基準がわからないからな。貴様が本物だと思うのなら本物なのだろう」

 ヘルメスは一言も本物であることを肯定しない。何かトリックがあって、鉱石が金色になったとしても、リクトには見破ることはできなかった。

 金色になった鉱石を触ってみても、手に金色の染料が付くことはなかった。ただ色をつけただけでもないらしい。

「俺はやはり石が金になることを認められない。だが、お前は俺の目の前で金に変えて見せた。お前が錬金術師であるということだけは認めよう」

「ここまで見せて態度のでかい奴だ。もしまだ疑うなら、この金を貴様にやろう。遠慮はいらんから持っていけ」

 ヘルメスはニヤニヤしながら、リクトを眺める。リクトはじっと金を見つめた。これが本物だとしたら、かなりの金額になることだろう。俗物っぽい考え方だが、リクトにはそんな考えで頭がいっぱいだった。

「い、いや、止めておこう。これが偽物だとばれて、俺の立場が危うくなるのは困るのでな。俺はそんなことでこの地位を失う訳にはいかない」

 そう言い切るリクトだが、金塊が気になって何度もちらちらと見てしまう。その様子をヘルメスは口を押さえながら笑っていた。

「立派だね。でもそれぐらいでなくちゃ異端審問官は勤まらないといったところか?」

 ヘルメスは話の邪魔になる金塊をリクトの目が届かない場所に片付けた。

「それで、異端審問官様がわざわざこんなとこまでお出ましとは、一体何の用件だと言うのかね?」

 ヘルメスの言葉にリクトはハッとする。金塊に目を奪われて、本来の目的を忘れていた。リクトは咳払いをして場を誤魔化そうとする。

「そ、それはだな。お前が何の目的でここにいるかということだ。ここで何かやりたいことがあるのだろう? だから、姿を晒してまでポーションを売り、金を稼いだ。違うか?」

「へぇ、それなりに頭を使っているな。確かに私にはどうしてもやりたいことがある。だが、そう簡単に話す訳にはいかない。異端者になりたくないからな」

 「異端者になりたくない」という言葉は裏を返せば、異端者とされるような事をしているということだ。ここは少し餌をまいて相手の出方を見ようと、リクトは考える。

「何をしたいのか、興味がある。お前のしようとしている事が教会の役に立つなら、多少の事なら目を瞑ってやろう。それでも話せないか?」

 ヘルメスはその言葉にニヤリと笑う。まるで、釣り糸に魚がかかったかのような笑顔だった。異端者として告発できなくとも、その技術を教会に献上出来ればリクトの地位はより確固なものとなる。

「私の目的は、人造人間の創造だ」

 その発言にリクトは目を大きく開いて驚く。

「人造人間の創造だと! 何を馬鹿な事を……。そんなこと、不可能に決まっている。いや、それ以前にそれは創造主である神・ヤハウェの領域に、足を踏み入れる事を意味するのだぞ!お前は自分がしようとしている事が、どれだけ罪深いか知っているのか?」

 リクトは声を荒げて叫ぶ。

 創造主ヤハウェとは、キリスト教における最高神のことで、その領域を侵すことは最大の禁忌とされている。

 ヘルメスはリクトの言葉に、ただニヤニヤするだけで答える事はなかった。

「何故そのようなことをしようと考えた! お前は神にでもなるつもりか?」

 リクトの手がかすかに震えている。目の前の女が、自分では想像もできないことを考えていることに、恐怖しているのかもしれない。

「さて、どうしてこんなことを考えたと思うかね?」

 ヘルメスは余裕たっぷりにリクトを見下す。

 リクトにはヘルメスが何を考えているか、想像もできなかった。ただ、脂汗をかいてじっとしていることしかできなかった。

 何も言わないリクトに、ヘルメスが語りだす。

「私はな、人間の可能性を知りたいのだよ。人間はどこまでできて、どこまでできないのか。ただ、それだけよ」

 だから、私は神の領域を侵すと、ヘルメスはリクトに宣言していた。

「馬鹿な。人間を作るならその身に宿せばいいではないか。女性であるお前ならできることだ。わざわざ人間を創り出すなど愚かしいことを……」

 リクトは言葉の途中に口ごもってしまう。あまりにも馬鹿馬鹿しいことに、頭がどうにかなってしまいそうだった。人間など、男と女がいれば作る事は容易い。それはとても当たり前なことで、自然なこと。だが、目の前の女はわざわざ人間を創ると言うのだ。神の領域に足を踏み込んだとしても。

 この女は狂っている。リクトが出したヘルメスに対する感想だった。

「そこで、相談がある。今、必要な材料が不足している。それを是非分けて欲しい。リクト、私と手を組まないか?」

 悪魔の囁きがリクトの耳に届く。

「お前と手を組んでこちらに得があるとは思えない。それより、お前を異端者として突き出したほうが、よっぽどましだ」

 リクトは悪魔を拒絶する。ヘルメスもそう言うことを予想していたようで、笑顔を崩すことはない。

「人造人間の創造に成功したら、その技術を提供するが、どうだろうか? 悪い話ではないと思うが?」

 今度の悪魔の囁きはとても甘美に聞こえる。

 人造人間創造の技術。これを教会へ提供すれば、自分の地位は今より格段に上がることになる。教会は異教の文明を否定しつつ、その文明を密かに蓄え力をつけてきた。人造人間の創造が可能となれば、カトリックの力はさらに確固たるものになることに違いない。

 異端審問官は通常、正義心が強く教えに背く者を容赦なく裁く者だ。しかし、リクトはそうではない。自分の地位向上こそが最も優先されるべきことなのだ。そのリクトにとって、ヘルメスの言葉はあまりにも美味しく、甘い蜜なのだ。

 そして、その蜜に引き寄せられる虫のごとく、リクトはヘルメスの言葉に心を奪われた。

「その言葉、忘れるなよ……」

 ヘルメスの目が怪しく光る。巣に引っかかった獲物を捕らえるときのような蜘蛛の目をしていた。

「当然。これで、私達は共犯だ。私は貴様に人造人間の技術を……」

「俺はお前に協力を……」

 リクトはヘルメスの異端行為を見逃すことにした。カトリックの為になるなら、異端者を告発しないのも審問官の務めだとリクトは考えた。

「具体的にどんな協力をすればいい?」

 リクトは自分が神の領域を侵すことに気持ちが高揚して、笑顔になったまま治らない。

「まずは、私を異端者として告発しないこと」

「ああ、それは当然だな」

「そして、ある材料を提供してもらいたい」

 ヘルメスの瞳がさらに怪しく光る。

「もったいぶらなくていい。だが、俺が提供できるものなどたかが知れているぞ?」

 リクトは首を傾げる。教会関係者にしか持ち出すことのできない何かが必要なのだろうかと、リクトは考えを巡らす。

「とても簡単だが、私には絶対に出すことのできないものだ」

 ヘルメスの謎かけのような言葉にリクトはさらに首を傾げる。

「で、結局何が必要なんだ?」

「精液さ」

 突然のことにリクトは噴出す。ようやく材料を言ったと思えば、冗談としか思えないものだった。

「俺をからかっているのか?」

「何、顔を赤くしている。早くこのビーカーに精液を出せ」

 ヘルメスは表情一つ変えずに、テーブルにビーカーを置く。その様子にリクトはげんなりする。ビーカーだけ出されても、つものもたない。

「いや、それ以前に! 生殖以外の目的で射精することは非道徳的なことだということを知らないのか?」

 リクトはちょっと引き気味に、呆れた顔をする。

 キリスト教において性交は生殖のために、神から命ぜられた行為であると位置付けられている。そのため、生殖を目的としない射精は神の命令に背く行為とされ、非道徳的であり重い罪とされていた。

「そんなことを気にしているのか? これから神の領域に踏み込もうとする者が、神の命令を破る事ごときで怖気づいたか?」

 ヘルメスはそんなリクトを嘲笑う。

「くっ! そんなんじゃない。お前が知らないと思って言ってやったまでだ。俺が本当に言いたいのは、ビーカーを目の前にしただけでは、射精はできないということだ! 女のお前には理解できないと思うがな」

 ヘルメスの態度に頭にきたリクトは、売り言葉に買い言葉でつい口走ってしまった。言った後、自分がとんでもないことを言っていることに気が付いて、後悔した。

「へぇ……、なら、私が文字通り一肌脱いでやろう。私はこれでも女だからな。女の裸があれば欲情できるかな?」

 ヘルメスが挑発的に微笑みながら、白衣をずらして肩を露出させる。

 リクトから見て、ヘルメスは美人に相当する。汚れのない白髪のロングヘアーは銀糸のように輝いている。魅惑的な金色の瞳は見る者全てを魅了する。滑らかな肌には、一切のシミはない。艶やかな唇もリクトの劣情を誘う。

 ヘルメスを眺めながら、リクトは生唾を飲み込んでしまう。それに、こういうことの経験は皆無であることも、原因の一つであった。

「そ、それより、精液でどうやって人造人間を創るのか、是非教えてもらいたいな」

 リクトはあからさまに話題を変えようとした。ヘルメスはそれを理解した上で、話に付き合った。

「蒸留器に精液を入れて四十日密閉し腐敗させると、人間の素のようなものができる。その、人間の素をこの――」

 ヘルメスはそこまで言うと、小屋に唯一ある小さな窓のカーテンをめくる。そこには、大きなガラスの器があり、その中には緑色の溶液に満たされた少女の体があった。

「――体に定着させる」

 ガラスの器の中にいる少女の体は一四〇センチほどで、十六歳程度に見えた。その体は緑色の溶液の中に浮いており、まるで、人間の標本のようである。衣類はなく、全裸で液体に浸っていた。

「こ、これは?」

「勘違いする前に言っておくが、この体は人間のものではない。私が作り上げた人造人間用の体だ。生きた人間は材料にしていない」

 ヘルメスはそう言うが、リクトには本物の少女にしか見えない。

 薄暗い小屋の中に緑色の溶液に浸かった少女に様々な器具。まるで、黒魔術師の部屋にいるようで気分が悪かった。

「それにしても、よくできている……」

 ガラスの器に入った少女は細部まで完璧と言っていいほどの出来だった。人造人間なら必要なさそうな乳房や、乳首も作りこまれている。

「疑問なんだが、どうして女なんだ? 男を作れば力があって、兵士として使えると思うのだが?」

 ヘルメスは嫌そうな顔をして、リクトを睨んでくる。

「私は女だ。男の細部は知らない。それに、男のここは個人差が結構あるらしいじゃないか? そんなもの、作り難くて仕方がない」

 ヘルメスが睨んでいたのは、リクトの股間だった。それに気が付いて、リクトは股間を手で覆う。法衣を着ているので、直接見えることは決してないのだが、あまり見られることを好まない為、手で隠した。

「まあ、女である理由は理解した」

 リクトの顔は少し赤みを帯びていた。

「理解してもらえたなら、何よりだ。この体を完全なものにするためには、人間の素が必要なのだ」

 ヘルメスはリクトを真っ直ぐ見つめる。今までのようなふざけたような様子ではなく、真剣な眼差しだった。

「それで、人間の素を創るために精液が必要なのだな……」

 体はすでに完成している。後は、魂となる人間の素が必要なのだろう。

 確かに今の時代では、精液が人間を生み出すもので、女の体はあくまで入れ物であると考えられている。ヘルメスの考えなら、人造人間は本当に完成するかもしれない。リクトは心の中で呟いた。

 リクトの顔は自然と微笑んでいた。

「いいだろう。精液は提供させてもらう」

 リクトはそう言っていた。

 以前、ヘルメスに対して狂っていると評価したが、今は違う。ヘルメスだけではなく、リクト自身も狂っているのだと自覚した。


 リクトはベッドの上で目を覚ました。窓からは朝日が差し込んでいる。それでも薄暗い部屋の中、法衣を纏う。

 昨日、リクトに割り当てられた部屋は小屋の二階だった。元々はヘルメスの寝室のようだったが、まるで生活感がなかった。

 洋服ダンスはないし、テーブルもない。本当にベッドが置いてあるだけだった。ベッドもまるで使っていないようで、新品そのままである。

 ヘルメスはどこに寝るのかと訊ねたところ、「私は椅子で十分だ」という回答が返ってきた。ヘルメスがそう言うなら遠慮する必要はないと考えたリクトは寝室を使う事を決める。ベッドに横になっても、何の匂いもしない。本当に普段から使われているものか疑問に思った。

 だが、ベッドは意外にも柔らかく、よく眠ることができた。

 リクトは体を伸ばして、メガネをかけると階段を下りる。そして、ヘルメスの実験室となっている一階へ赴いた。

「おはよう――」

 朝の挨拶をしようとした瞬間、異様な臭いが鼻につい思わず口を閉ざしてしまった。

「リクトか、よく眠れたか?」

 リクトの声が聞こえたのか、ヘルメスはその存在に気付く。ヘルメスはその異様な臭いの中、平然とリクトの方を振り返った。

 ヘルメスは相変わらず、昨日と同じ白衣にミニスカートという格好をしている。

「まあな、よく眠れたが、この臭いは一体なんだ?」

 リクトは眉をひそめながら、辺りを見回す。そこには茶色い物体の入った蒸留器があった。昨日と比べて変わっていたのはそれぐらいである。

「ああ、これか? 今、人間の素を作っているところだ」

 リクトの視線に気付いたヘルメスは説明をする。だが、リクトは聞きたいことはそれじゃないというように、抗議の視線を向ける。

「それは知っているが、どうして糞の臭いがするんだ。それに加えて何か別の臭いまでするんだが……」

 リクトは鼻をつまんだまま言う。

「なに、精液に数種のハーブと馬糞を混ぜただけだ」

「だけだって、何故そんな事をする! せっかく提供したというのに!」

 リクトの言わんとする意味をようやく理解したヘルメスは説明を始める。

「私が行ってきた実験の結果、精液だけよりハーブと馬糞を入れたほうが人間の素ができやすいことがわかった。違うものでも上手く行くかもしれないが、私が調べた範囲ではこれが最上だ」

「まあ、それならいいのだが……」

 それでも、リクトは不満そうな顔をしている。折角提供した材料を、馬糞と一緒にされたのは気分が良くない。

「大丈夫だ。必ず人造人間を完成させてやる」

 ヘルメスがそう言うと、リクトは表情を元に戻す。

「しかし、この臭いはどうにかならんのか? こんな臭いの中で朝食を食べるのは簡便だぞ?」

「何を言っている。これから腐敗させるのだから、臭いがきつくなるのはこれからだ。まあ、貴様が体験することはないのだろうがな」

 ヘルメスは何が楽しいのか、笑顔でリクトの相手をする。

「とにかく、俺はこんな臭いの中で食事をとる気はない!」

「そうか、なら外で朝食にするとしよう。たまにはそんな朝食もいいだろう」

 ヘルメスは朝食をバスケットに入れて準備をする。リクトは臭いに耐えられなくなり、一足先に小屋の外に逃げ出していた。

 リクトはその辺の草の上に腰を下ろして、ヘルメスが来るのを待った。

「ははは、そんなに慌てて外に出て、よほどお腹が減っていたと見えるな」

「どうしてそんなに上機嫌なんだ。俺はその理由が知りたいのだが?」

 ヘルメスはリクトの隣に腰を下ろすと、手に持っているバスケットをリクトの前に置く。

 バスケットの中にはパンが二つと、ティーポットが一つ、コップのようなものが二つ入っていた。

 ヘルメスの様子は昨日と打って変わっていて、まるで別人ではないかと疑いたくなるほどの変貌ぶりだった。

 リクトはそんなヘルメスを訝しみながら、バスケットの中からパンを取り出す。パンは間にチーズを挟んだだけの簡単なものだったが、味は意外とよかった。

「ついに人造人間が完成するかと思うと、気持ちが高ぶってくるのだよ。貴様にも経験はないのか? 長年の悲願が叶う時の高揚感は?」

 ヘルメスの気持ちはわからないでもないが、そこまで変わられると少し気味が悪い。

「まぁ、確かに悪くない。それより、意外といいもの食べているのだな。このチーズはかなり美味しい」

「食は長い人生の中で最も楽しむべきものだからな。生存のためだけの食事は勿体無い」

 ヘルメスの中にはそんなポリシーがあるようだったが、リクトは無視してパンをかじり続けた。

 パンを食べ終わったリクトはお茶を飲むためにコップを取り出す。だが、それはビーカーであった。

「こ、これで飲めと言うのか?」

 リクトはビーカーを手に持つとまじまじと見つめる。

「安心しろ。きちんと洗ってある。人体に影響はないはずだ」

 そういう問題でないことはわからないのかこの女はと、思うリクトだったが、気が付くような人間じゃないと結論付けて、何も言わなかった。

 リクトは諦めてティーポットからお茶を注ぐ。だが、そのお茶は黄色をしていて、妙な臭いがしてきた。リクトの知っている紅茶ではない。

「これは?」

「私の作ったハーブティーだ。体にもいいから飲め」

 ヘルメスは少し胸を張って言うが、とても大丈夫そうでない。

 リクトは意を決して、ハーブティーに口をつける。

「うっ! 薬のような味がするな……。俺は紅茶の方がいい。紅茶はないのか?」

 眉間に皺を寄せる。

「紅茶なんて高いものがあるわけないだろう。そのハーブティーはそこら辺に生えている薬草から作ったものだ。文句を言わずに飲め」

 ヘルメスの有無を言わさない言葉に、リクトはため息を吐いて、ハーブティーを飲み続ける。慣れてしまえば、それほど悪いものではないのかもしれない。

「外で食べるのもなかなかにいいものだったな」

 食事を終えたヘルメスがそんなことを言い出す。リクトは興味なさそうに食後のお茶を楽しんでいた。

「そうだ、貴様が次ぎに来る時には外で食事ができるようにしておこう。その方が貴様も嬉しいだろう」

「次来る時だと? 俺はまたここに来ることになるのか?」

 ヘルメスの言葉にリクトは予想していなかった様子で、途端不機嫌とになる。

「当然だろう。人間の素ができるのに四十日かかる。貴様はそれまで私の世話になる気か? いくら優しい私でも、そこまで面倒は見られないな」

 ヘルメスの言葉にお前のどこが優しいんだよと、心の中で突っ込んだ。だが、後が怖いので口には出さない。

「それに、人造人間の創造方法が必要なんだろ? 完成したらそれも作らないとな」

 ヘルメスの笑顔が先程の穏やかなものから、急に怪しげな笑みに変わった。その変化にリクトは気付き、同じく笑みを浮かべる。

「そうだったな。それが一番大事なところだ」

 二人は爽やかな風に包まれながら、不敵な笑いを交わしていた。


 リクトは旅支度を終えて、小屋の入り口前に立っていた。

「それじゃあ、俺は一度ウィーンに戻るとする。その間、ここのことは調査中ということにしておくから安心しろ」

 ヘルメスは扉の内側から、リクトに声をかけた。

「ああ、わかった。そちらも抜かりないように頼むぞ。そして、四十日後を楽しみに待っていろ。必ず人造人間を完成させるからな」

「今度会うのは四十日後だな」

 リクトはそう言うと、ヘルメスとその小屋に背を向けて、ザルツブルグの都市を目指して歩き出した。ヘルメスはリクトの姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を眺めていた。

 ザルツブルグの都市に着いたリクトは再びトマス司教と出会う事になった。教会用の馬車を手配してもらう為、再びザルツブルグ大聖堂を訪れたからだった。

「おや、リクト審問官ではないですか。例の不審人物とは出会えましたかな?」

 トマス司教の言葉にリクトは首を横に振る。

「いや、色々と探したが、結局出会えなかった」

 リクトは嘘を吐いた。会ったなどと言って、後が面倒になるのは避けたかった為である。

「そうでしたか……。あの錬金術師が何を企んでいるか知りたかったのですが、残念です」

 トマス司教は残念そうな顔をする。リクトは心の中で、そんなことを知ってどうするつもりだったのか、案外この司教も腹の中では何を考えているかわかりもしないと、思案を巡らせた。

「一度ウィーンに戻って、錬金術に関する情報を集めるつもりだ。恐らく、もう一度ここを訪れることになる。その時はまたよろしく」

 リクトは爽やかな笑顔でそう言う。

「そうですか、こちらからもよろしくお願いします」

 トマス司教も人のよさそうな笑顔を向ける。

「おや、馬車の準備ができたようですね。それではお気をつけてお帰り下さい。貴方の旅に神のご加護がありますように、アーメン」

 トマス司教は胸の前で十字を切る。それにあわせて、リクトも十字を切り返した。

 そして、リクトは馬車に乗り、ザルツブルグを後にした。


 リクトは馬車の中で声を殺しながら笑う。

 馬車の中は狭く、薄暗い。天井から吊るされたランプだけが唯一の明かりだった。その明かりも馬車が揺れるたびに揺れて心許ない。そんな明かりの中、リクトは本を広げて読んでいた。ただの暇つぶしに読んでいるものなので、内容は殆ど覚えていない。

 リクトは今回の出来事を思い返す。このザルツブルグへの出張は、自分が思っていた以上の成果があった。上手く行けば、四十日後には人造人間の創造技術が手に入る。それを教会に提出すれば、また自分の地位が上がることは間違いない。

 こんなに上手くいっていることがおかしくて仕方がない。怖くなるぐらい順調だった。だが、油断することは許されない。自分が危険な橋を渡っていることは重々承知している。だが、危険な橋を渡らなければ、出世などできないのだ。

「くっ、くっ、くっ、くっ……」

 声をこらえているにもかかわらず、リクトの喉から笑い声があふれてきた。自分はこの橋を渡りきる自信がある。もう、自分の出世は決まったも同然なのだ。

 これが愉快でなくてなんだというのだろうか。

「これでは、ヘルメスのことは笑えないな……」

 リクトは顔を歪ませながら、共犯者である錬金術師のことを思い出した。あの異端者を見逃すのは惜しいが、自分の立場が危うくなっては元も子もない。

 ここは共犯者を貫く方が利口なやり方だろう。リクトはそう思いながら、再び本に目を落とした。

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