一
こちらの小説は、以前小説大賞に投稿して落選した作品です。
元々は長編でしたが、文字制限等の理由により複数に分割いたしました。
二年ほど前に書いたもので、稚拙ではありますが当時、真剣に取り組んだ作品です。
読者様の暇を潰せたら幸いです。
若き異端審問官リクト・ラインフィールドは異端審問に立ち会っていた。
「グラーツで貿易商を行っていた被告は、限度を超える利益を生み出し、一商人として身に余る程の財産を築いた。これは、商人という身分を逸脱した行いであり、決して許せるものではない」
リクトはグラーツの商人に対して告発する。
西暦一五三〇年。
オーストリア大公領の首都、ウィーンにある異端審問所。現在ここでは異端審問が行われている。
異端審問所には大きな十字架が飾られており、その下で被告は罪を問われるのだ。リクトを含む四人の異端審問官と、一人の異端裁判長が被告に対し、刑罰を決定する。
被告が逃げられないように、両脇に騎士が槍を手にして立っている。その様子は罪人そのものであった。
厳粛な場所である異端審問所は、裁判所に似た雰囲気が漂っていた。
被告はグラーツで貿易を商う商人、その罪は商人としてあるまじき財産を築いたこと。
カトリックでは自給自足体制が奨励され、身分固定制が聖化され、それらを超える一切のものは反キリスト教的なものとして否定の対象とされている。
この商人の成功はまさに、カトリックの教えに反するものであり、異端として扱われるべきものであった。
「馬鹿馬鹿しい。事業を成功させて富を得ることの何がいけないのだ。そんな古い考えだから、教会の連中はいつまで経っても駄目なのだ!」
被告は声を荒げて反論する。
被告より一段高い場所から、全ての異端審問官が見下していた。被告の主張を馬鹿にするような視線を投げかける。異端裁判長はさらに高い位置から、被告を汚らわしい物を見ているようだ。
興奮して被告席から乗り出そうとする被告を、両脇にいる騎士が槍を使って取り押さえる。槍で押さえつけられた被告は、審問官達を睨みつけた。
「被告はキリストの教えが間違っているというのですか?」
裁判長が被告に訊ねる。その声は冷たく、一切の慈悲は含まれていない。そもそも、異端審問にかけられている時点で、人間として見られていないのだ。
「そう聞こえなかったのか? これからは資本主義の時代だ。いつまでもそんな教えを守ろうとするから、他の国に差をつけられるのだ。私は貿易商として働いてきたからわかる。時代は変わっていくのだ!」
商人は熱く語るが、その言葉は誰にも届かない。それどころか、商人に向けられる視線はますます厳しいものへと変わっていく。この時代において、商人の言葉はありえない話で、ただの妄想としか捉えてもらえない。
「やはり、他国との関わりがあると、おかしな思想に犯されるのですね。全く嘆かわしい。神の教えを理解できないのですね」
異端審問官の一人が発言する。
「ごらんのように、被告は我々の教えを頭から否定して、改める気はまるでありません。異端者として刑罰を与えるべきだと、考えます」
リクトはタイミングを計ったように発言した。審問の流れは完全にリクトの思い通りに進んでおり、このままなら被告を異端者として裁けるだろう。リクトは笑みを隠し切れなかった。
「くそっ! 主の犬が!」
被告はリクトを睨み、口汚い言葉を発した。負け犬の遠吠えにはまるで耳をかさず、リクトは平然とし続ける。
リクトはさらに追い討ちとして、取って置きの資料を提出する。
「この資料をご覧下さい。被告はユダヤ人以外には、高額な料金を請求しています。これは我らカトリックに背く行為であり、重罪だと判断します」
リクトは腕組みをして、高圧的に被告を睨み返した。いくら遠吠えしたところで、無意味であることを知らしめる。
提出した資料は被告が取引した相手と金額をまとめたもので、明らかにユダヤ人以外の客には高額で取引をしている。
資料の提出に審問所全体がざわめく。
ユダヤ教は選民思想が強く、ユダヤ人以外に対する差別性が極めて高い。ユダヤ人優遇の事実は被告が、ユダヤ教徒であることを色濃く示している。
カトリック教会はユダヤ教を異端視しており、ユダヤ教徒は異端者となんら変わりがない。
「被告はこの報告を事実と受け入れるか?」
裁判長の言葉に、被告は舌打ちをして顔を背ける。
「我々は神と契約を結ぶために選ばれたのだ。それ以外の人間をどうして優遇できようか」
ついに被告の口から決定的な言葉が発せられた。
「ご覧下さい、被告はユダヤ教徒であり、我々カトリックを蔑視しています。裁判長、厳粛なる判決を下してください」
リクトはやや芝居がかった大げさなお辞儀をする。
裁判長は他の審問官と相談した後、刑罰を下した。
「被告を異端者とし、全財産没収の後、国外追放の刑に処す」
裁判長の絶対的な判決が下される。審問官達は被告――いや、すでに異端者となった者に対して侮蔑的な視線を向ける。
判決を受けた異端者は、苦悶の表情と共に怨嗟のこもった目で、審問官達を睨む。だが、審問官達はそんな事をまるで気にする様子はない。
「財産の没収か! そんなことをしないと、ろくに財源の確保もできない教会が大きな顔をするな! 贖宥状などという物を売らないといけない程、資金に困っているのは、考え自体に問題があるのがわからないのか!」
異端者は開き直り、教会の問題点を叫び始める。
現実に贖宥状は、教会が資金難を逃れるために発行されたものである。贖宥状は罪の償いを軽減する証明書であり、罪の償いのために信者が購入するのだ。
これには過剰ともいえるほどカトリックに従順で、その教えを正しいと考える異端審問官の神経を逆撫でする事になる。
「――口を慎め……。お前は国外追放では飽き足らず、鞭打ちの刑まで所望するつもりか? それとも、火刑によって火に焼かれることを望むのか?」
リクトはメガネを整えながら、怒気を含んだ静かな声を出す。だが、その口元は笑うようにつり上がっていた。
「よく見ておけ、主の犬どもめ! 今の私の姿が、貴様達が将来辿る姿だ! その目に刻んでおけ! 貴様達に未来などない」
異端者はリクトを睨み、吼えるように叫ぶ。異端者があまりに暴れるため、騎士はその体を押さえつけ、身動き取れないようにする。
「さぁ、こちらに来い!」
判決の出た異端者を騎士達が、審問所の外に連れ出す。この後、異端者は全財産を没収された後、オーストリア大公領から追放されるのだ。
野垂れ死ぬか、商売仲間に助けてもらうしか道はない。リクトは異端者の行く末を想像して、鼻で笑った。
告発した商人が異端者と判明して、リクトの教会内の発言力はさらに上がる事だろう。それを考えるだけで、リクトは笑いが止まらなかった。何よりこの裁判で、商人の膨大な資産が教会へと流れ込む。こうして、異端者から没収した財産、技術が教会をより強大なものへとしていくのだ。
異端審問が終了し、その後処理も一通り終わり、ようやく異端審問所から出ることを許された。
外に出ると太陽の光がまぶしい。遠くにシュテファン大聖堂が見えた。ゴシック様式のとても大きな大聖堂で、眺めるだけでも美しい。リクトは異端審問後に見るシュテファン大聖堂が特に好きだった。
異端審問が始まったのは昨日の夜だったが、今はすでに日が昇り、朝になっている。
「はぁ、ようやく終わったか……」
リクトは太陽の光を浴びて一息ついた。徹夜したこともあり、心身共に疲れていた。それでも、リクトは少しずれたメガネを整えると、普段のように隙のない姿勢を取る。
「いやー、大変だったみたいね、リクト」
後ろから声をかけられ、リクトは声の方を振り返る。
「リーグルか……。何か用か?」
「異端審問、ご苦労様。また告発した人が異端者に認定されたんだって? 優秀だねぇ」
この慣れ慣れしく話しかけてくる女性は、リーグル・ヴェルヘイム。リクトの幼馴染である。
リクトより二歳ほど年上で、姉のような存在でもあった。リーグルも弟のように思っており、気さくに声をかけてくる。多少は身分を考えた方がいい気もするが、それに慣れているため、今更そんなことをいう気にはなれなかった。
金のロングヘアで、瞳は藍。プレートメイルに鉄製のグリープを履き、神聖ローマ帝国の紋章である双頭の鳥が描かれた前掛けを着用し、腰には装飾の施されたエストックを帯びている。まさに騎士という出で立ちであった。
「別に優秀ではない。俺は与えられた仕事をこなしているだけだ。優秀というのはリーグルのように、女性でありながら若くして、騎士団長を務める人物を指すのだ」
リーグルはウィーン騎士団の団員で、騎士団長を務めている。
「そんなことないんだよね。ただの親の七光り。騎士団長の父上が引退したから、私が跡を継いだだけなのよね。昨年あったオスマントルコ軍の襲撃で父上が怪我しなければ、私はただの一団員でしかなかったのよね」
リーグルは金色の髪をいじりながら軽く言う。だが、実際、彼女はウィーン騎士団を統率していた。団員達も彼女の実力を認めた上で従っている。世間ではそれを親の七光りとは言わない。
「若干二十歳で異端審問官になったリクトには敵わないよね!」
リーグルはおどけるようにウィンクをしながら言う。
「父が司教だっただけだ。別に凄くなんかは――」
「そんなことないよね。異端審問官といったら、知的エリートの中の超エリート! 将来有望間違いなしよね!」
リクトの言葉を遮って、リーグルは審問官の凄さを語る。
調子を崩されたリクトはメガネを直し、自分のペースを取り戻そうとした。
「異端審問官など、法皇の犬に過ぎない」
リクトの言うことは正しく、異端審問官は絵画において、法皇の足元に犬として描かれることが多い。それを皮肉って、『主の犬』と呼ばれることは多い。実際、先の異端審問でも口にされた程である。
「でも、そんなとこで終わるつもりはないわよね? 目指すは法皇かしらね?」
リーグルは微笑みながらとんでもないことを言う。法皇はこの時代における、最大権力者だ。
「そんな恐れ多いことは考えていないさ……」
そう言うリクトの表情は怪しく微笑んでいる。
「おお、怖い怖い。悪い顔になってるよ。一体何を企んでいるのかねぇ……」
リーグルもリクトにつられてニヤニヤ笑う。
「別に何も」
リクトはそう答えて立ち去ろうとするが、リーグルによって羽交い絞めにされてしまう。
「ちょっと、リクト、少し冷たいんじゃないの? 当然、これから私といい事するよね?」
「放せ。異端審問のせいで徹夜なんだ。今は少しでも早く屋敷に戻って沐浴したいんだ」
リクトはリーグルを振り払う。リーグルも本気で羽交い絞めにしていたわけではないので、簡単にリクトを解放した。
「けちー。リクトは運動不足だから、私と剣術訓練するべきよ」
「相手をしたいのはやまやまだが、これから旅支度しなくてはいけないので、遠慮させてもらう」
リクトは冷たく突っぱねる。
「えー、この前はグラーツに行きっぱなしで、私の相手をしてくれなかったよね。いつも待たせてばかりで本当に罪な人……」
「何を言っているんだ。グラーツへ行ったのは調査のためだ。別に遊んでいたわけではない。今度の調査から戻ってきたら、相手をしてやる」
リクトは羽交い絞めされて乱れたマントを正した。
「本当! 今度はどこに行くのよ!」
リーグルはぱっと笑顔になる。その様子に、リクトはやれやれと一息つく。
「ザルツブルグだ。噂によると、フード付きの黒いローブを纏った人物が、怪しげな薬を売っているらしい。調査するには十分な噂だと思わないか?」
「ザルツブルグって結構遠いよね。そんな場所の調査は、そっちの審問官に任せればいいのに、どうしてわざわざリクトが行くのよ!」
機嫌が直ったのもつかの間、リーグルの機嫌は再び悪くなり、じと目でリクトを見つめてくる。そんなリーグルにリクトは説明してやった。
「俺は無意味な調査はしない。だが、調査する価値があると感じればどこへでも行くつもりだ。今回はザルツブルグだが、わざわざそこに出向く。その意味はわかるな?」
「ふーん。つまり、今回の噂は信憑性が高いって事よね?」
「いや、噂はただの噂に過ぎない。俺が気になっただけだ。だが、これは重大な事件になりそうな臭いがする」
リクトは口の端をつり上げる。リクトがそう感じるのは、異端審問官としての勘なのだろうか。
「残念だけど、お楽しみは後に取っておくよね。それと、お土産忘れないでよね。前にグラーツに行ったときは、何も買ってきてくれなかったし……」
「お前の方が年上だろうに、どうしてそこまで気を使わなくてはいけないんだ」
「何言ってるのよ! 年上を敬うのは当然のことよね」
リクトはリーグルの言動に頭を抱える。そんなリクトのマントの端をつまんで、逃げられないようにする。たまに幼稚な行動をするリーグルには、敵わないことが多い。リクトは諦めて、リーグルの言葉に従う。
「何か買ってきてやるから放すんだ」
「約束よね!」
「はぁ……。あまり期待するなよ」
それだけ約束すると、リーグルは喜んでマントを放す。リクトは小さく息を吐くと、屋敷に向かって歩き出す。
「リクト! 気をつけるのよ?」
リーグルが突然まともな事を言ったので、リクトは驚いてリーグルの方に振り返る。
「ああ、ありがとう」
リーグルはリクトに向かって大きく手を振る。リクトもそれにつられて、軽く手を振り返す。
「それじゃあ、私はこれから仕事がありますので、これで失礼します」
突然、リーグルの雰囲気が変わる。幼馴染から、騎士団長へと切り替わったのだ。その切り替えのよさは、リクトを感心させる。
リーグルはその場を立ち去っていく。そして、その場にはリクトだけが残された。
「……もしかして、からかわれたのか?」
リクトは首を傾げながら再び屋敷に向けて歩き始めた。
「はぁ、早く帰って沐浴したい。それが終わったら、遠出の準備をしなくては……」
リクトは疲れた体を引きずりながら、屋敷への帰路についた。