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魔術師の憂鬱  作者: 卓麻呂


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束の間の休息

GC.119.1.18

 

宇宙は、時としてあまりにも静かで、こちらの胸の鼓動すら聞こえてしまうと錯覚するようだ。

アストラルの融合炉が沈黙した瞬間から、その静寂は艦内に染み込み、乗員たちの肌に薄い霜のように張りついた。探査船ルナトレースとの強引とも言えるエネルギー接続は、ぎりぎりの綱渡りだったが、結果的には命の灯を繋ぎ止めた。今、アストラルはかろうじて生命維持と重力制御、外殻シールドを維持しながら、推進能力の大半を失ったまま漆黒の海を漂っている。


ただ“生きている”。それだけ。

しかし、絶望の淵で手を伸ばし、何とか縁を掴んだ直後のような充足感が艦には確かにあった。危機はひとまず去ったのだという安堵。それだけで涙が出そうになる種類の安堵だ。

だが、宇宙は甘やかしてはくれない。


一ヶ月。救助が到着するまでに必要な時間。

その間、広大な宇宙航路のどこかから海賊船が跳び込んでくるかもしれない可能性は非常に高い。脳裏に影を落とすには十分だ。もし今、アストラルが襲われたら抗う手段はほとんど残っていない。防御シールドは生命維持に不可欠なので稼働しているが、武装に回せるほどのエネルギーがない。

宇宙は、漂流船に優しくない。


それでも、窓外に広がる星海は静かに美しかった。

無数の点が、まるで時間そのものを忘れさせるような輝きを湛え、遠い過去の光を今ここに届けている。そこに音はないが、星々の軌道には確かなリズムがあった。

古代地球人は、こうした天の動きに神性を見出した。夜空を見上げ、星々の運行をただの自然現象ではなく、意思ある秩序と考えた。彼らは望遠鏡すら持たず、裸眼で宇宙の構造を読み取ろうとした。その姿勢には、今の時代の科学万能主義が失いかけていた何かが確かに宿っていた。


その古代から数千年。

人類は地球圏の空を突き破り、恒星間航行を現実のものとし、今まさに宇宙へと版図を広げようとしている。

アストラルも、そうした波のひとつだった。

技術は進歩し、文明は拡張し、人類は宇宙へ散り始めた。だが、こうして漂流し、頼れるのは他船のわずかなエネルギーのみという状態になると、根本的にはあまり変わっていない本質が見えてくる。宇宙は巨大で、冷たくて、圧倒的に無関心だ。そして人類は、どれだけ強大な艦を造ろうとも、その胸の内に原初の不安と畏れを宿し続ける生き物なのだ。


その不安と、危機を回避した安堵が、いま艦内の空気の中で奇妙に絡み合い、どこか甘くも苦い香りを放っていた。

生き延びた。

けれど、本当の勝負はここからだ。


星々は静かに瞬いている。

人類が宇宙へ飛び出した理由のひとつは、この静かな輝きに触れたいという衝動だったのかもしれない。

そして今、アストラルはその真っ只中にいる。


漂流は、絶望ではない。

宇宙に存在しているという事自体が、すでに人類の歴史に刻まれた奇跡の延長なのだから。

 

艦長室


アストラルの艦長室はそれなりに広い。タリアンはいくつもの酒を持ち込んでいた。

漂流中の艦内は妙に静かだ。機体の振動が細い糸のように伝わり、壁に溶けていく。ふだんなら騒がしい冷却ラインの唸り声も、今は弱々しい寝息に変わっていた。


窓の外には、ただただ、真っ黒な宇宙が広がっている。

無音の深海を見ているような感覚――どれだけ目を凝らしても掴めない、底のない闇。


その闇の前で、カイとタリアンはテーブルを挟んで向かい合っていた。


タリアンがどこからか見つけてきた酒は、もう古い年代物で、ラベルも半分剥がれている。緊急時に飲むようなものじゃないのは明らかだったが、カップに注がれた琥珀色が、わずかに心を温めた。


カイは苦笑しながら、カップの縁を指で弾く。


「非常事態だってのに、こんなもん持ち出してくるあたりが、お前らしいよ。」


タリアンは目を細めて笑い、椅子に背中を預けた。


「こういう時こそ、一杯の酒が必要なんだよ。精神衛生ってやつだ。」


「科学的根拠ゼロだな。」


「経験則だよ。宇宙で学んだ知恵ってやつだ。」


そんな軽いやりとりが終わると、しばらく二人は、ほとんど音のしない空間でカップを傾けた。

飲み込むたび、重力制御の弱い揺らぎが、体の奥をふわりと浮かせる。


タリアンが、ぽつりと呟く。


「さて……問題はだ。」


「海賊か?」


カイの問いは、先回りするように重かった。


タリアンは無言で頷く。その顔には、表面だけの余裕ではない、冷静な軍人の目があった。


「今のところ索敵には何も引っかかってない。だが、この状態で一ヶ月。ただの漂流船が、無傷でいられると思うか?」


「思えないな。」


「だろ? あいつらからすれば、アストラルは脂の乗ったクジラみたいなもんだ。丸呑みし放題。」


ラウンジの照明がわずかに揺れ、タリアンの顔に影が落ちた。


「推進力の回復は難しいのか?」


「トラブルの中心は点火系だ。色々試しているが正直言って、リサでもお手上げに近い。」


「……なるほど。」


カイはカップを置き、窓の外を見た。

星が見えるでもなく、ただ暗闇が際限なく続いている。何もないからこそ、逆に恐ろしい。


そして、不意に思い出したかのように口を開く。


「……例の石のことだ。」


タリアンが眉を上げる。


カイは喉を鳴らして、ゆっくり言葉を紡いだ。


「明確な確証はない。ただ……何とかなる気がしてる。科学者が“気がする”なんて言っちゃいけない立場だが。」


「お前がそこまで言うのは珍しいな。」


「そうだろうな。俺も言ってて恥ずかしいよ。」


少しの沈黙の後、カイは静かに続けた。


「あれは……どう見ても、人の意思に反応している。そんな馬鹿な、と言いたい。原理もわからん。量子でも重力でもない、既知のどれでも説明がつかない。つまり……説明できない。」


タリアンは口を挟まず、ただ耳を傾けていた。


「だがな……検証を積んだ結果、どう考えても出来すぎてるんだ。こっちの意図に合わせて反応してるとしか思えないような挙動ばかりなんだ。」


カイは目を伏せる。


「その正体を知りたいという好奇心はある。でも、もし失敗したら、俺のせいで皆が死ぬかもしれない。それが怖い。」


彼は顔を上げ、タリアンを見る。


「こんな重大な話をお前にだけ相談するなんて、まるでお前に決断を丸投げするようで嫌なんだ。」


タリアンは手元のカップを回しながら、しばらく無言で考え込んだ。

やがて、決めたように息を吐く。


「どちらにせよ、何もしないって選択肢は死とほぼ同義だ。」


その声は落ち着いていたが、奥にある覚悟は揺れなかった。


「ダグの話じゃ、前に襲ってきた海賊のテリトリーは想像以上に広いらしい。詳しく知る立場じゃなかったから、具体的には分からないみたいだがな」


タリアンは静かにカイを見る。


「次に遭遇したら、前みたいに撃退できると思うか?」


カイは答えなかった。

答えはわかっていたから。


タリアンはわずかに笑って言う。


「俺は、あの石を使ってみてもいいと思う。」


カイは目を見開く。


「ただし、二人で勝手に決めるのは筋が通らん。皆に話すべきだ。意見も聞く。反対もあるだろう。でも……」


タリアンは窓外の漆黒の宇宙を見つめながら言う。


「何もしなければ、俺たちはただここでゆっくり死ぬだけだ。生き延びたいなら、非常識な手段にも手を伸ばす時だ。」


ラウンジに、深い沈黙が降りた。


艦のどこかで、重力制御装置がわずかに軋む音がする。

宇宙は静かで、冷たくて、凛としている。星々は見えないが、闇の奥で無数の光が呼吸している気配があった。


その光の向こうは、人類がつい最近ようやく踏み出したフロンティア。

古代地球人が星の運行に神性を見出したように、今また人類は未知の闇へ挑みつつある。


そして、その闇の中心で――

漂流するアストラルの中で、二人の男が静かに未来の岐路を見据えていた。


決断は、もはや避けられない場所まで来ている。 


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