マリエル・フォンタナ
マリエルが生まれた家系は、地球でも屈指の政治一族だった。
フォンタナの名は、地球圏で政治を語るなら必ず耳にする。父は政府中枢の要職につき、兄二人も若くして官僚の幹部候補。家の中に流れる空気は常に硬質で、礼節と威厳で構成されていた。
幼い頃のマリエルにとって、その息苦しさは“世界の普通”でもあった。正しく、美しく、聡明であれ。家名に恥じる振る舞いは一切許されず、笑う角度さえ矯正されるような日々だった。
しかし、成長するにつれ、その“普通”が自分の価値観とは程遠いものだと悟る。
政治家の娘としての振る舞いは、表向きは華やかで、裏では陰に満ちている。
優雅な笑顔と、裏腹の舌打ち。その綻びを隠し続ける世界を、彼女は次第に冷めた目で見つめるようになった。
反発心が芽生えるまで、時間はかからなかった。
更に拍車をかけたのが、医学部への進学希望だった。
当然のように両親は反対した。“もっと安全で、家の力が役に立つ道へ行け”という、もっともらしい理由を添えて。しかし、マリエルにはそう聞こえなかった。
要は“一族の型に嵌れ”という圧力でしかない。
彼女は押し切った。押し切る自分に少し興奮していた。
政治の世界に魅力を感じなかったし、自分で選んだ領域で生きたいと初めて強く思った。その衝動に従った。
医学部では、努力が苦にならなかった。むしろ快かった。
膨大な知識と実技を吸い込み、卒業時にはストレートで医師免許を手にした。だが、その先を考えたとき、迷いはなかった。地球から逃げるように火星行きを選んだ。
両親の干渉を断ち切りたかったのだ。
火星では、彼女は軍医となった。
ただ、その選択を両親が心から尊重するはずもない。
どう考えても裏で何か手が回されている。危険地帯へは絶対に配属されない“透明な壁”が彼女を守っているのが分かる。
火星政府も、地球の大物政治家の娘を無下に扱って国際問題の火種を作りたくない。
そういう圧力があることも知っていた。
退屈だった。
せっかく火星まで来たのに、また両親の影。
自由を求めたはずの彼女の人生は、皮肉にも別の形で囚われていく。
彼女はため息をつくたびに、乾いた笑みを浮かべていた。
アストラルへの配属が決まったとき、それがまた両親の“安全配慮の延長”だと思った。
しかし、蓋を開ければ、予想とは真逆だった。
この航海は、刺激的だったのだ。
海賊の襲撃を受け、医務室は混乱し、負傷者が押し寄せ、緊張と危険が同時に襲ってくる。かつて地球の安全圏では決して得られなかった高揚感が、彼女の中に冷たい光を宿らせた。
胸を締めつける危機感は、どこか彼女の空虚をみたしてくれる。
死にたいわけではない。
だが、生ぬるい日常で窒息するくらいなら、心臓が跳ねる危険の方がよほどましだ。
その感覚に、自分はどこか壊れているのでは、と薄く笑うこともある。
アストラルの乗組員たちは、彼女の素性など知らない。
おそらく艦長のタリアンだけは察している。
地球出身とだけ述べたときの、あの一瞬の理解の気配。政治家の娘として扱われることを彼が避けてくれているのも分かる。
あの“必要以上に踏み込まない距離感”は、マリエルにとって心地よいものだった。
恋愛は、地球にいた頃は遊びの延長だった。
家柄目当ての男たちをかわすのは簡単だったし、適度な関係を楽しむこともできた。
だが、束縛や干渉がちらつく瞬間、彼女はいつも冷めてしまう。
火星に来てからは、いっそう男に対する興味は薄れた。忙しさもあったし、なにより彼女の中の“退屈への警戒心”が強まったせいだろう。
アストラルでの生活は、そんな彼女の心を少しだけ軽くしている。
未知の宙域に向かう巨大な船体が発する微細な振動。
クルーたちの気配。
何が起きるか分からない緊張感。
どれもが、幼い頃からまとわりついてきた“窮屈な名家の空気”を薄めてくれた。
自分がここにいるのは、たぶん偶然ではない――そう思う瞬間すらあった。
もちろん、それが運命だなんて馬鹿げた考えは抱かない。そんなものは政治家の演説でいくらでも聞ける。
ただ、アストラルが“生まれでも家柄でもなく、自分自身の肩書きで立てる場所”であることは確かだった。
退屈は、彼女の最大の敵だ。
その敵と決別するために、生まれた星を離れ、家名の影を逃れ、未知の船に乗った。
その選択が正しかったかどうかなんて分からないが、この航海が胸を震わせるのだけは事実だった。
“退屈だけは、絶対に嫌。”
静かに呟くその声には、確かに喜びがあった




