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魔術師の憂鬱  作者: 卓麻呂


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リサ・カルミナ

物心ついたときには、家に両親はいなかった。

祖父母が代わりにいて、二人ともよく働く人だった。祖父は整備士で、祖母は気の強い人。祖父の手はいつも油で黒く、爪の間に煤が溜まっていた。

工具箱の金属音が、子どもの頃の記憶の大半を占めている。別に金属が安心だったわけじゃない。ただ、身近にあった。それだけだ。けれど、気づいたときにはそれをいじっている時間がいちばん落ち着くようになっていた。


祖父はいつも言っていた。「機械は正直だ。正しく扱えば、正しく応える」

私はその言葉を信じた。たぶん、祖父が好きだったから。


両親の話はほとんど聞かなかった。子どもながらに、聞いてはいけない空気があった。

成人してから調べてみると、二人とも別々の家庭を持っていた。少し驚いたけれど、不思議とショックではなかった。ああ、そういうことか、とだけ思った。

「捨てられた」という言葉も頭をよぎったが、感情の実感はなかった。祖父母がいたからだ。あの二人がいてくれた時間に、欠けた部分を埋めようとする気持ちはなかった。


機械が好きだった。構造や原理が分かっていく過程が、何よりも楽しかった。

自然と工学の道に進み、火星の難関大学に入った。

成績は次席。悔しかった。少しだけ。

勝ち負けにこだわる性格じゃないと思っていたのに、結果を見た瞬間、心のどこかで何かがざらついた。

負けず嫌いというのは、たぶん、努力の副産物みたいなものだ。


卒業後、マッド社から誘いがあった。民間最大手で、待遇も良かった。

でも、どうも好きになれなかった。あの会社には機械の匂いよりも、人の匂いが濃すぎた。

そう答えたのは建前で、本当は分かっている。

父がそこで働いていた。

そのことを知って、なぜか胸の奥がざらついた。無意識に距離を取ったのだろう。

そんな自分に気づいた瞬間、嫌悪が込み上げた。

――ああ、まだあの人たちのことを気にしているんだな。

そう思って、しばらく何もしたくなくなった。


軍を選んだのは衝動だった。

現場の機械に触れられると思ったからだ。

研究所の白い壁よりも、整備ベイの煤けた床のほうが落ち着いた。

核融合炉の整備や改良、理論解析に携わるうちに、現場の人間たちにも名前を覚えられた。

「主任」と呼ばれるようになったとき、少し誇らしかった。

でも、同時に、自分が何を目指しているのか分からなくなる瞬間も増えた。

機械の奥に見えるのは秩序であって、人間ではなかった。


それでも、手は止められなかった。

工具を握る感覚は、呼吸みたいなものだ。

止めたら死ぬような気がした。


そんな生活の中で、イグナスと出会った。

あるパーティーの夜だった。

不慣れな場だった。軍の技術士官という肩書きで呼ばれていたが、華やかな空気にはどうも馴染めない。

人が多すぎて、音が多すぎて、頭が疲れる。

そんなとき、少し離れたテーブルで一人グラスを傾けている男がいた。イグナス。

誰かに話しかけられてもほとんど笑わず、ただ頷くだけ。

なのに、妙に空気が落ち着いていた。


何となく、声をかけてしまった。

何を話したかはあまり覚えていない。たぶん、仕事の愚痴か、機械の話か、どうでもいいこと。

彼はそれをずっと聞いていた。相槌を打つでもなく、ただ聞いていた。

気づいたときには、随分長く話していた。

それが心地よかった。


後で聞いた話では、彼は酒の席のことはほとんど覚えていないらしい。

それを知ったとき、少し笑った。

覚えていないのに、また話したくなるのは何故なんだろう。

たぶん、あの静けさが好きなのだ。


それから何度か連絡を取るようになった。

といっても、ほとんど私からだ。

彼から連絡が来たことは一度もない。

それでも、飲みに行くと聞いてくれる。

私は話して、彼は黙って聞いて、気づけば夜が終わっている。

それだけの関係。


イグナスのことを特別だと思っているかと聞かれれば、たぶん、そうだと思う。

でもそれは恋愛とは違う。

機械の中で偶然見つけた未知のパーツみたいな存在。

どう動くのか気になるけれど、手を出したら壊してしまいそうで触れられない。

そんな距離感が、ちょうどいいのかもしれない。


恋愛には慎重だ。

両親のことがあるから、無意識に怖いのだと思う。

人の関係は分解も修理もできない。

壊れたら終わりだ。

だから、なるべく触れない。

それが自分を守る唯一の方法だった。


でも、彼と話す夜だけは、少し違う。

声を聞くだけで、心の奥のノイズが静まる。

それが何かは分からない。

恋かもしれないし、ただの錯覚かもしれない。

けれど、次に会うとき、彼の方から何か言ってくれたら――

そんなことを考える自分に気づくと、少しだけ恥ずかしくなる。


私はまだ、誰かを信じることを学んでいない。

それでも、彼の沈黙の奥に何か温かいものがある気がしてならない。

機械の規則にはない、不確かな熱。

それを確かめたいとは思うけれど、言葉にはしない。

私にできるのは、次の仕事を完璧に終わらせることだけだ。

それが私のやり方であり、安心の形なのだ。


そしてその合間に、ふと彼の顔を思い出す。

静かな目。無表情。けれど、妙に落ち着く声。

――今度、また飲みに行こう。

それくらいの言葉なら、送ってもいいかもしれない。


たぶん、彼は相変わらず覚えていないだろう。

でも、それでもいい。


今回の航海でイグナスと組むことになるのは、おそらく艦長の差し金だ。そんな余計なお節介を、少し嬉しく感じてしまう自分が少し腹立たしい。


自分の中で何かが少しずつ変わっているのだ。 


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