イグナス・ケイル
イグナスは交易で財を成した家に生まれた。祖父アーネストは交易商人だったが、ある航路で消息を絶ち、それ以来、家業は事実上止まっていた。それでも蓄えは十分で、何不自由のない暮らしだった。
両親は堅実で、息子にも当然のように「良い大学へ行き、良い企業に入る」ことを望んでいた。イグナス自身も、表面上はその流れに逆らう理由を持たなかった。進学校に進み、大学に入り、何となく大企業への就職を思い描いていた。だが、心のどこかで、その未来が透けて見えることが息苦しかった。
自分が歩むはずの人生が、あまりにも予定調和にできているようで、退屈だったのだ。
だからこそ、軍への入隊は衝動にも近い決断だった。
士官学校ではなく、あえて一般兵として志願した。両親は激怒し、親戚一同からも「家の恥だ」と言われた。だが、若さは常に反発を糧にする。イグナスは黙って出征した。
結果として、その選択は悪くなかった。
軍という組織は、理不尽で、時に非人道的だが、努力と成果だけは裏切らない。彼はその中で、静かに階段を上がっていった。25歳で特殊部隊に配属され、幾つもの作戦を経験した。任務の重圧にも、死の気配にも飲み込まれず、淡々とこなす姿勢は、仲間から「氷のイグナス」と呼ばれるようになった。
34歳の時、転機が訪れる。
海賊拠点制圧作戦。敵に情報が漏れており、部隊はほぼ壊滅。
次々と味方識別信号が消えていく。無線が割れ、指揮系統が崩壊した。
ヘルメットの中で、自分の息だけがやけに響いていた。あの音が、いまも耳に残っている。この戦いでイグナス自身も重傷を負った。救助艇に引き上げられた時、部下の半数が帰らぬ人となっていた。
その戦いの傷は今も体に残っている。
復帰は叶わず、特殊部隊は除隊。
だが、軍を完全に離れる気にはなれなかった。そんな彼に、上官が士官学校への進学を勧めた。一般兵出身で今さら士官など、と最初は笑った。だが、結局は受け入れた。未練が勝ったのだ。
士官学校を経て戦術幕僚となったイグナスは、艦隊戦でタリアンと出会う。
当時のタリアンは、まだ若く、経験も浅かった。会議の席で平然と上官の作戦を批判し、理詰めで戦術を組み立て直す。その大胆さに、イグナスは最初、強い反発を覚えた。
だが、議論を重ねるうちに分かった。タリアンの考えは、ただの理屈ではなかった。現場を知り、命を背負う覚悟の上での発言だった。
「生意気な若造」から「信頼できる指揮官」へと、イグナスの中で評価は静かに変わっていった。
その後、作戦が成功に終わると、自然と会話が増えた。二人は互いの考えを認め合い、次第に友情と呼べる関係になっていった。
今回の航海で副艦長に任命されたのも、タリアンの推薦だった。
「年上でやりにくくないのか?」と尋ねたことがある。
タリアンは笑って、「歳なんて関係ないさ」と答えた。
その言葉に、イグナスは少しだけ救われた気がした。
リサとの出会いは、もっと気楽なものだった。
何かのパーティーだったか、任務の打ち上げだったか、もう正確な記憶はない。
ただ、酔いが回る頃に、隣の席で延々と喋り続けていたのがリサだった。
リサはよく喋った。仕事の愚痴、機械の文句、酒の種類の話。
俺はただグラスを傾けていた。彼女はそれで落ち着くのだと知っていた。
酔えば酔うほど、俺は静かになった。
リサは笑って言った。「あなた、酔うとまるで氷みたいね。酔ったら氷のイグナスなんでしょ?」
彼女の取り止めもない話や愚痴をこぼすたび、イグナスは相槌を打ち、短く答えるだけだった。
不思議なことに、それで会話は成り立った。
イグナスは酒に酔っても声を荒げることはない。笑うこともない。逆に静かになり、視線だけが相手を捉える。
その無言の圧が、なぜか安心感を与えるらしい。
以来、リサは「付き合って」と頻繁に連絡を寄こすようになった。
彼は自分を誇ることも、卑下することもない。
この歳まで独身であることにも、特別な意味を見出してはいない。
ただ、過去の選択の全てが、今この瞬間に繋がっている気がする。
あの退屈な進学校を出た少年が、戦場で冷たい銃を握り、今は宇宙を渡る艦の副艦長として座っている。
奇妙な人生だ。
けれど悪くない。
航路の先で未知の空を見られるのなら——それで十分だと思っている。




