タリアン・クロウ
格納庫の照明は最小限に落とされていた。
非常灯が赤い筋を描き、薄暗い空気の中で工具の影が揺れる。金属の壁面が、どこか生きているように鈍く光を返す。振動はほとんど感じられず、ただ船体を伝って低い唸りだけが響いていた。
その音は、心臓の鼓動よりも静かに、しかし確かに船の“生”を告げていた。
タリアンは一人、無人の通路を歩いていた。
足音が響くたび、遠い記憶の断片が立ち上がってくる。目を閉じれば、もう何年も前の光景が、まるで昨日の出来事のように鮮明に蘇る。
——あれは、まだ十代の頃。
地表の埃っぽい居住区で、毎日がどこか薄汚れた現実の連続だった。錆びついた空調と、油の匂いが染み付いた街。空を見上げれば、くすんだドームの天井があって、そこから見える星は全部“スクリーンの中の星”だった。
子どもの頃の遊びといえば、壊れた端末を拾って分解するか、廃棄場で走り回ることくらい。未来なんて言葉は、教科書の中にしか存在しなかった。
そんな中で、カイは異質だった。
あいつは、汚れた手を拭きもせず、何かの回路図を描いていたり、拾った金属片を光にかざして考え込んでいた。
口数は少ないが、何かをじっと見つめるときの目の強さがあった。
子どものくせに、“理屈”という言葉を使い、誰も知らない数式を黒板に描く。
正直、最初は気に食わなかった。けれど、どうにも放っておけなかった。
タリアンは、いつもカイを引っ張り出した。
遊びにも喧嘩にも、時には大人の世界の端っこにも。
カイは呆れたように付き合いながら、結局最後までついてきた。
悪戯が過ぎて機械を壊したときも、誰より先に修理を始めたのはカイだった。
黙々と、何時間も。あの手際の良さにはいつも感心した。
「お前、本気で面倒見がいいよな」
そう言うと、カイは苦笑して「君が面倒を起こさなければね」と返した。
そんな調子で、気づけばいつも一緒にいた。
やがて、タリアンが働き口を探し始めた頃、カイは言った。
「士官学校を受けてみないか」
真面目な顔で、まるで当然のように。
笑い飛ばすつもりだった。そんな金も才能もない、と。
だがカイは、何日もかけて奨学制度を調べ上げ、申請書類まで整えてきた。
「お前が行けるようにしておいた」と言われた時には、腹が立つよりも呆れた。
だが、なぜかその言葉が心の奥に残った。
あの時、何かが動いたのだ。
気がつけば、入学試験を受けていた。
士官学校の生活は、最初は地獄だった。
規律、訓練、座学。すべてが重くのしかかる。
けれど、艦の構造を学び、模擬戦術を組み立てる授業には妙な高揚感があった。
「現場を動かす」ことの意味を、その時初めて知ったのだ。
机上の理論より、仲間との動き。数字より、勘。
その感覚が自分に合っていると気づいたとき、初めて自分の居場所を見つけた気がした。
卒業後、いくつかの配属を経て艦隊の戦術幕僚になった。
海賊掃討戦や物資護衛、時には非公式の作戦にも関わった。
誰かの命を守る判断を一瞬で下す――その重みが、妙に心地よかった。
あの感覚は今でも忘れられない。緊張と集中の狭間で、時間の流れが遅くなるあの瞬間。
やがて、地球軍との小競り合いが起きた。
資源小天体の所有権を巡っての、いわば“名ばかりの紛争”だった。
だが、現場にいた者にとっては命懸けだった。
敵は数で優り、装備でも劣勢。撤退の決断を下すまでに、多くを失った。
それでもタリアンは冷静だった。小惑星帯の影を利用し、敵艦を欺きながら退路を確保した。
あの撤退戦は、後に本部で高く評価されたという。
だが、本人にはピンと来なかった。
評価などより、生きて戻れたことの方が奇跡に近かったからだ。
その戦いで、イグナスと出会った。
当初は衝突ばかりで、互いに一歩も譲らなかった。
けれど、結局は彼の冷静な判断が自分の策を支え、自分の直感が彼の計算を補った。
戦場で“敵わない”と思った数少ない相手だった。
以来、言葉を交わさずとも理解できる関係になった。
月日が流れ、三十歳で艦長の任を受けた。
あの知らせを受けた時、周囲は祝福の声で満ちていたが、タリアン自身は妙に静かだった。
「運が良かっただけだ」
それが本音だった。
他の候補者が負傷して繰り上がった任命だったし、自分より優秀な者は幾らでもいた。
けれど、それでも与えられた艦の名が「アストラル」だった瞬間、胸の奥が震えた。
あの時の感覚は、今でも覚えている。
運だけでここまで来た――そう思いながらも、彼は誰よりも船と乗員を信じていた。
今、艦はほぼ漂流状態にある。
だが不思議なことに、焦燥はなかった。
過去を思い返しているせいか、むしろ時間の流れが緩やかに感じられる。
人は、動けなくなって初めて「ここまで何を積み重ねてきたのか」を考えるものだ。
タリアンはその静けさの中で、かつての友の顔を思い浮かべた。
真面目で、冷静で、時にとんでもない行動をとる男――カイ。
気づけば、ずっとあいつの背中を追いかけてきたのかもしれない。
あいつが理屈を追うなら、俺は現場で現実を掴む。
その違いが、互いを支えてきた気がする。
「運が良かっただけさ」
誰に向けたとも知れぬ言葉が、格納庫の冷気に溶けて消えた。
だが、その運が導いた場所に、確かに今の自分が立っている。
薄暗い中、艦の振動が再び微かに足裏を叩いた。
その震えは、まだ船が生きている証だった。
タリアンは静かに背を伸ばし、赤い光の中を歩き出した。
彼の足音は、過去と現在の境界をひとつずつ踏みしめるように響いていった。




