第一次ソロモン海海戦(サボ島沖海戦)
八月八日、日没。
ソロモン諸島の海は、昼の名残をわずかに引きずりながら、ゆっくりと夜へ沈み込んでいった。ガダルカナル島北方、サボ島の影が黒々と海面に伸びる。
第四戦隊は、その闇の縁にいた。
先頭を行く軽巡の艦橋では、司令が地図盤に目を落としている。針路、速力、索敵線。どれもすでに何度も確認された項目だが、今夜は違った意味を持っていた。
「上陸は完了したな」
「はい。飛行場地区は確保、敵航空の反応も限定的とのことです」
副官の報告に、司令はうなずくだけで応じた。
第四戦隊の主力――筑波型高速戦艦二隻は、後方に控えている。月明かりを避けるように、距離を保ち、速力は抑えられていた。全力で走る必要はない。今夜の任務は、敵を追うことではなく、夜を抑えることだった。
「夜間警戒、第三段階を維持」
命令は短く、淡々としていた。
そのさらに後方、闇に紛れる位置に瑞雲型軽空母がいた。飛行甲板では、すでに夜間偵察機が待機している。灯火は最小限、甲板要員の動きも無言に近い。
夜を使う準備は、すでに終わっていた。
午後二十一時、最初の索敵機が発艦する。
低く、静かな唸りとともに、機影は闇へ溶けていった。敵を探すためではない。敵が動いた瞬間を、逃さないための目だ。
「第一索敵線、展開完了」
報告は、まるで定時連絡のように届く。
軽巡以下の水雷戦隊は、外周を固める位置についた。駆逐艦は雷装を整えながらも、雷撃態勢には入らない。今はまだ、撃つ時ではない。
艦橋の空気は張り詰めていたが、焦燥はなかった。
夜戦を前にした緊張――それはこれまでの日本海軍にとって、誇りと同時に賭けでもあった。だが第四戦隊では、それが違っていた。
夜は恐れるものではない。
管理するものだ。
電探室から、短い報告が上がる。
「方位二二〇、距離二〇キロ。微弱反応。断続的」
司令はすぐに反応しなかった。
「航空索敵との照合は?」
「照合中です」
数分後、瑞雲型から信号が入る。
「該当方位、敵影なし。波浪反射の可能性高し」
「了解。記録のみ」
即座に判断が下される。
誰も騒がない。誰も慌てない。
これが第四戦隊の夜だった。
午後二十三時を回る頃、敵艦隊はまだ姿を見せない。だが、それは安心材料ではなかった。サボ島沖は、狭く、入り組み、夜戦に向いた海域だ。敵が来るなら、必ずこの闇を使う。
「敵が来るとすれば――」
副官の言葉を、司令が引き取る。
「こちらが『見ていない』と思う時だ」
第四戦隊は、すでに見ている。
だが、それを悟らせないようにしている。
筑波型の艦橋では、主砲塔の動きが止まったままだ。砲口は闇を向いているが、照準は固定されていない。敵を見つけてから回すのではない。現れそうな場所に、あらかじめ置いてある。
時刻は、八月九日零時過ぎ。
索敵線の一角から、報告が入る。
「複数艦影、北西より進入中。速力中」
今度は、航空索敵と一致していた。
司令は、初めて口元を引き締めた。
「……来たな」
それでも、命令はすぐには出ない。
敵はまだ、第四戦隊の存在を知らない。
この夜の主導権は、まだこちらにある。
サボ島沖の闇は、静まり返っていた。
だがその静けさは、嵐の前兆ではない。
選ばれた戦いの、始まりだった。
北西から接近する敵艦隊は、なおも第四戦隊の存在に気づいていなかった。
彼ら――連合軍巡洋艦隊は、サボ島を左に見ながら、ゆっくりと隊形を整えていた。夜間行動に慣れていないわけではない。だが、警戒はどこか形式的だった。
「日本艦隊は、今夜は動けない」
敵艦橋で交わされた言葉が、闇の中に消える。
ガダルカナル上陸直後。制空権は不安定で、日本側航空兵力は昼間の反撃に追われている――そうした情報が、彼らの判断を縛っていた。
ましてや、日本海軍が夜間に航空機を用いて索敵を行っているとは、想像の外だった。
第四戦隊は、敵の進路を変えない。
軽巡・駆逐艦は外周で静かに位置を修正し、あたかも偶然その海域にいるかのように振る舞う。無線は沈黙を守り、発光信号も一切使わない。
瑞雲型軽空母からは、第二波の索敵機が発進していた。
高度は低く、速度も抑えられている。搭乗員は、星と島影を頼りに飛ぶ。敵艦隊の上空を横切りながらも、機影は夜に溶け、エンジン音は波音に紛れた。
「敵艦、重巡四、軽巡二、駆逐艦数隻。針路南東」
暗号化された短い報告が、第四戦隊旗艦に届く。
司令は、地図盤の上で赤鉛筆を動かした。
「敵は、こちらを探していない」
その言葉に、周囲の参謀たちはうなずいた。
夜戦慣れした日本海軍の従来の戦い方なら、すでに突撃命令が出ていたかもしれない。だが第四戦隊は、違った。
まだだ。
筑波型高速戦艦は、敵の進路に対して横合いの位置を保ち続ける。主砲は沈黙したまま、測距は電探と光学の両方で続けられていた。
「距離、一五キロ」
「敵、隊形崩れ始めています」
敵艦隊は、サボ島沖の暗礁と島影を警戒し、速力を落としていた。それが、彼らにとって致命的な選択だった。
第四戦隊は、敵より速い。
だが、その速さを見せない。
あくまで、影のように追随する。
敵艦橋では、異変を感じ取る者もいた。
「……妙だな。妙に静かすぎる」
だが、電探は何も映さない。夜空には敵機影もない。砲声も、雷撃もない。
不安は、確証を持てないまま押し殺される。
その瞬間、瑞雲型から最後の報告が届いた。
「敵主力、サボ島南東へ進入。間もなく、袋状海域に入る」
司令は、ゆっくりと顔を上げた。
「――よし」
初めて、明確な意思が艦内を貫く。
「各艦、第一戦闘配置。だが、発砲は命令あるまで厳禁」
伝令が走る。
静寂の中で、艦内の歯車が一斉に噛み合っていく。
これは、奇襲ではない。
罠でもない。
管理された夜の中で、敵に選択肢を失わせる戦いだった。
敵艦隊は、まだ何も気づいていない。
だがその時、彼らはすでに――
第四戦隊の描いた円の中に、深く踏み込んでいた。
最初に夜を破ったのは、砲声ではなかった。
「敵先頭艦、針路変針。こちらを避けようとしています」
電探室の報告は、低く抑えられていたが、艦橋の空気を一変させた。
敵艦隊の中に、ようやく「何かがおかしい」と気づいた者がいたのだ。
だが、遅い。
「敵、探照灯点灯!」
白い光が、唐突に夜を切り裂いた。サボ島沖の暗闇に、不自然な線が走る。
その瞬間を、第四戦隊は待っていた。
「――照準確認」
筑波型高速戦艦の主砲測距は、すでに終わっている。光学と電探、そして航空索敵の情報が、完全に一致していた。
探照灯に照らされた敵艦は、自ら位置を晒している。
「第一目標、敵重巡。距離一二キロ」
司令は、短く命じた。
「撃て」
九門の三〇・五センチ砲が、同時に火を噴く。
夜空が、白く反転した。
衝撃波が艦体を揺らし、直後に低く重い音が腹に響く。筑波型の砲撃は、金剛型より軽い。しかし、それは夜戦で扱うには最適な重さだった。
初弾は、敵重巡の艦首付近に命中する。
火焔が上がり、探照灯が消える。
続く第二斉射は、さらに正確だった。敵艦の上部構造を薙ぎ払い、通信と指揮を一瞬で奪う。
「命中確認。敵先頭艦、速度低下」
その時点で、敵艦隊は混乱に陥った。
「日本戦艦だ!」
「いや、砲口径が小さい、巡洋艦か?」
「数が合わない!」
判断が割れる。
彼らは、日本海軍がこの距離、この時間、この精度で砲撃できるとは思っていなかった。
さらに混乱を深めたのは、上空だった。
「航空機音、低空!」
闇の中から、微かなエンジン音が忍び寄る。瑞雲型から発進していた夜間攻撃機が、敵艦隊の外縁をなぞるように飛んでいた。
爆撃はしない。
照明弾も落とさない。
ただ、存在するだけでよかった。
敵は空を見上げ、砲を空に向け、注意を分散させる。
その隙を、水雷戦隊が突いた。
「雷撃、始め!」
駆逐艦から放たれた魚雷が、黒い海面を走る。
敵は回避運動を取ろうとするが、隊形はすでに崩れていた。避けたつもりで、別の雷跡に突っ込む。
爆発。
水柱と火焔が、闇を赤く染める。
筑波型は、なおも冷静だった。
次の斉射は、撃沈を狙わない。動けなくするための砲撃だ。舵機、機関部、砲塔基部――夜戦用に研究された照準が、次々と敵艦の急所を穿つ。
「敵後続艦、反転!」
逃げようとする艦も出始める。
だが、第四戦隊は追わない。
「深追いするな。夜は、もうこちらのものだ」
司令の声は、静かだった。
敵艦隊は、完全に判断力を失っていた。
彼らは理解できなかったのだ。
――なぜ、日本艦隊が“見えている”のか。
――なぜ、日本艦が“慌てていない”のか。
夜は、もはや味方ではなかった。
夜は、第四戦隊の武器になっていた。
戦闘が終わったとき、サボ島沖の海は再び静けさを取り戻していた。
燃える艦影が、ところどころに漂っている。炎は低く、長く尾を引き、やがて闇に溶けていった。砲声も、爆音も、すでにない。
第四戦隊は、なおも戦闘配置を解かない。
「敵、生存艦艇、北西へ離脱中」
索敵機からの最終報告が届く。
司令は、地図盤から目を離さずに答えた。
「追撃は行わない。哨戒線を維持し、夜明けまで警戒」
誰も異を唱えなかった。
この戦いは、撃沈数を競うためのものではない。
夜の主導権を奪うこと――それが目的だった。
瑞雲型軽空母の飛行甲板では、夜間偵察機が次々と帰投していた。灯火は最小限、着艦は静かに、正確に行われる。搭乗員たちは、互いに言葉を交わさない。
彼らは、勝利の実感を噛み締めるよりも先に、次の夜を考えていた。
筑波型高速戦艦では、主砲が再び沈黙している。砲身はまだ熱を帯びているが、整備員たちは淡々と点検を進めていた。
「弾着、想定通りでした」
「敵の反撃は、ほぼ無力でした」
報告は、どれも事実を述べるだけだ。
司令は、短く言った。
「想定通りなら、それでいい」
夜戦とは、本来そういうものだと、第四戦隊は知っていた。
偶然や勇気に頼る戦いではない。
準備と管理の積み重ねが、結果を決める。
夜明け前、薄く霧が立ち始める。
サボ島の影が、灰色に浮かび上がった。
敵艦隊は、もう戻ってこない。
少なくとも、今夜は。
第三戦隊から、短い電文が届く。
「夜間直掩、効果確認。上陸部隊、異常なし」
それを読んだ司令は、ようやく地図盤から顔を上げた。
「……これでいい」
この夜、第四戦隊は敵艦隊を壊滅させたわけではない。
だが、敵は理解した。
夜は安全ではない。
日本艦隊は、夜を“見ている”。
それだけで、十分だった。
やがて、この戦いは報告書となり、記録となり、分析されるだろう。
だが、そこに書かれるのは、砲口径でも、撃沈数でもない。
――なぜ、日本艦隊は夜戦で迷わなかったのか。
――なぜ、航空機が夜に飛んでいたのか。
――なぜ、追撃しなかったのか。
答えは、ひとつしかない。
日本海軍は、この戦争を別のやり方で戦い始めていた。
第四戦隊は、夜明けとともに静かに針路を変える。
その背後に残されたのは、沈黙した海と、
そして――
夜が味方でなくなったことを悟った敵の記憶だけだった。




