09
同日
生活安全課の車が、街を抜けていく。
後部座席の袋寛治は、書類の束を膝に置いたまま無言だった。
窓の外に流れる街並みを見ながら、(くそ……間に合わなければ)と唇を噛む。
助手席から、いつもおどけた前田が珍しく真顔で声をかけた。
「袋君、なんか最近おかしいぞ。
学校関係の資料とか、妙に調べてるし……」
ハンドルを握る新田も、ミラー越しに言う。
「顔色悪いよ、袋さん。寝てないんじゃないの?」
寛治は一瞬だけ微笑み、首を横に振った。
「……大丈夫です。それより竜司を押さえましょう。話はそれからです。」
二人の視線を感じながらも、寛治はシートに背を預け、目を閉じた。
脳裏をよぎるのは、教師・水沼絵里が生徒たちを操り売春を斡旋していた事件。
そしてその背後にいた男――佐伯竜司。
(絵里の弟で、奴が元締め……。
山本若葉、江口良子、鍵沼カナ――三人の少女たち。
その中に妊娠している子がいる。誰なのか……)
思考を断ち切るように、車が停まった。
「着いたぞ。佐伯竜司、202号室だ。」
3人はアパートの階段を駆け上がる。
前田がインターホンを押す――反応なし。
再度押しても、静寂だけが返ってくる。
「留守か?」
新田がドアノブを試すと、カチャリと軽い音がした。
「……鍵、開いてる。」
一瞬、空気が凍った。
前田が顔をしかめる。
「おい、どうする?」
寛治は深く息を吐き、ベルトポーチから小型レコーダーを取り出した。
「録音開始。状況確認します。中の安全確認を優先。」
「……了解。」
ドアを静かに押すと、わずかに軋む音とともに、薄暗い室内が姿を現した。
カーテンは閉ざされ、空気がよどんでいる。
テーブルの上には、開きっぱなしの財布と吸いかけの煙草と、
バッテリーが半分のスマホがむ造作に置かれていた
寛治は慎重に足を踏み入れた。
「佐伯竜司――生活安全課だ。中にいるなら応答しろ!」
反応はない。
代わりに、鼻を刺すような刺激臭がふっと立ちこめた。
焦げたような、何かを焼いたような――嫌な臭い。
前田が眉をひそめた。
「……なんだ、この臭い……?」
前田が周囲を見回しながら答える。
「電気系統か? いや、違う……有機臭だ。」
臭いの元は、奥の浴室だった。
湿気と異臭が混じり、ドアの向こうから微かに“パチッ”という音まで聞こえる。
新田が手袋をはめ、浴室の引き戸に手をかける。
「開けるぞ……」
ゆっくりと戸を引く。
その瞬間、熱気と焦げ臭が一気に溢れ出した。
「うぼっ――おえぇぇっ!」
新田が顔を押さえ、反射的に廊下へ飛び出す。
寛治と前田も思わず一歩退き、鼻と口を覆った。
浴室の中央、黒く焼け焦げた“人の形”があった。
湯舟の縁に崩れるようにもたれかかり、皮膚も衣服も原型を失っている。
焦げたプラスチックと肉の混ざった臭いが、熱気とともに押し寄せた。
前田が震える声で呟く。
「……まさか……竜司、か?」
寛治は無言で立ち尽くし、焦げた壁の一点を見つめていた。
そこには――浴室のタイルに、黒く焼き付いた奇妙な模様が残っていた。
焦げ跡が、偶然とは思えないほど整った円形を描いている。
外周を囲むように、炎の舌が這い、
中心には――双角の記号が黒く焼き付いていた。
「……なんだ、これは……?」
低く漏れた声は、湿った空気に吸い込まれていく。
寛治は慎重に浴室を出て、足元の焦げた破片を避けながら部屋の中央へ戻った。
背後では、前田が慌ててスマホを取り出し、通報を始めていた。
「佐伯竜司の部屋で焼死体を発見、至急応援をお願いします!」
短く報告を終えると、前田は息を荒げながら振り向く。
「寛治君、これ……事故じゃないな。まるで――」
寛治はあらためて部屋を見渡し机に置いてあるスマホは画面はまだ点いたままで、通知が並んでいる。
《NOPUR HEAL》
《若葉:みんな、すぐ集まって。いつものカラオケK-LOOP。今すぐ!》
寛治はそれを見て、静かに息を吐いた。
「……やっぱり、繋がってるな。」
ポケットから手袋を外しながら、前田へ向き直る。
「前田さん、すみません。自分、ちょっと緊急で出ます。」
「はぁ? ちょ、!? 現場は――」
前田の制止を振り切り、寛治は部屋を飛び出した。
焦げた臭いがまだ鼻に残っている。
だがそれよりも、胸の奥を締めつける不安の方が強かった。
階段を駆け下りながら、彼の脳裏に浮かぶのは“若葉”の名。
寛治はカラオケK-LOOPを思い出しながら走り出すたしか中央区の裏通り。
古びたビルの三階にあるはず――そこに、若葉たちがいる。
竜司の部屋に残るBluetoothスピーカーが、微かに音を漏らしていた。
《Diva / Aries》――
曲が終わるその瞬間、いつも“救われる”と思っていた。
燃えるものは汚れではなく「純化」だった。
何も残らないことが、美しさだった。
だから、今日も火を点けた。
それが、自分が生きている唯一の証明だ




