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08

通信制高校の午後――。

授業が終わり、画面の向こうで生徒たちの顔が一人、また一人と消えていく。

モニターの明かりだけが灯る六畳の部屋で、山本若葉は背もたれにもたれ、スマートフォンを手に取った。


身長は一五五センチ、細身で小動物のようなタヌキ顔。

ぱっちりした目元に憂いを足そうと、チークとシャドウをやや濃いめに入れている。

本人いわく「大人っぽい感じ」を目指しているが、どこか背伸びした可愛げが抜けない。


そんな若葉がスマホのグループチャットを開く。

タイトルは《NOPUR HEAL》。

――“癒せない傷”を意味する、その名前。

誰が付けたのか、もう覚えていない。けれど、今の彼女たちには妙にしっくりきていた。


「今日、絵里ちゃんいなかったね。どうしたんだろう?」

若葉がメッセージを送ると、すぐに返信が跳ね返る。


「さぁ? 最近、NOPUR HEALの“仕事”多かったし、寝てんじゃない?」

軽い調子で答えたのは、鍵沼カナだった。


その瞬間、若葉のスマホが震えた。

別の通知――〈竜司のグループ〉からの新着メッセージ。

胸の奥がざわつく。嫌な予感。


次の瞬間、江口良子が叫ぶようにチャットを打ち込んだ。

「ちょ、竜司のチャットがヤバい! みんな、見て!」


若葉は手を震わせながら、恐る恐るそのグループを開く。

画面には無情なニュースのスクリーンショットが貼られていた。


――《水沼絵里、焼死体で発見》


「え……うそ、でしょ……?」

若葉の指先が滑り、スマホが床に落ちる。

画面の光が、蒼白な彼女の顔を浮かび上がらせた。


脳裏をよぎる――“夜のこと”。

自分たちが“やってること”。

もし、あのことがバレたら……。


「やばい……アレがバレたら、私たち、終わりだ……」


既読がひとつ、ふたつ、三つ……と増えていく。

《NOPUR HEAL》のチャット欄は、焦りと混乱のメッセージで一気に埋め尽くされた。


若葉は鞄を掴み、靴を突っかけるように部屋を飛び出す。

そして、震える手で再びメッセージを打ち込んだ。


《みんな、すぐ集まって。いつものカラオケ。今すぐ!》


チャットは騒然としていた。

誰が何を言っているのかもわからない。

怒り、恐怖、疑念が入り混じる中で、ただひとり――江口良子の返信だけが、異様に静かだった。


『若葉、ごめん。今日は行けない』


良子は画面を見つめながら、小さく息を吐いた。

年齢は十八歳。ショートカットの髪が耳元で揺れ、

薄いグレーのワンピースが体の線を柔らかく隠している。

指先は、無意識に下腹部へと伸びた。


(……生理、来てない)


数日前に使った妊娠検査薬。

そこに浮かんだ“陽性”の線が、今も頭から離れない。


『今日、病院行く。何したらいいか分かんない。あとで話すね』


若葉からの返信は、すぐに返ってきた。

怒気を含んだ速さで、まるで叩きつけるように。


『は? 何言ってんの? あれバレたら、私たち終わるんだよ! ……もういい、あとで連絡する』


既読がつく。

しかし、もう何も返す気にはなれなかった。


確かに――“アレ”がバレたら終わりかもしれない。

だが今の良子にとって、それ以上に重大なのは別のことだった。


胸の奥で、静かに芽生え始めた“命”。

その現実が、彼女の心を深く沈ませていた。


A市・中央区。

裏路地を抜けた先にある古びた雑居ビル。

その三階――薄汚れた階段を上がると、ネオンの消えかけた看板が迎える。

「カラオケ K-LOOP」。

昼間から薄暗く、煙草とアルコールとスピーカーの焦げ臭さが混ざったこの場所は、

NOPUR HEALの“たまり場”であり、連絡を取り合う待合室でもあった。


カウンターでは、店員・高橋がレジを打ちながらスマホを気にしている。

若葉は乱れた息を整えつつ、カウンターに身を乗り出した。


「ねぇ、高橋。竜司いる? 携帯に連絡しても出ないの」

声が震えていた。


高橋は落ち着かない様子で煙草を灰皿に押しつける。

「ダメだ。朝から何回も連絡してるけど、既読もつかねぇ。

 もしかしたら……サツ(警察)にパクられたかもな」


その言葉に、若葉の顔が強張る。

竜司はこの界隈では顔が利く。

裏のパーティーや撮影の“段取り”を仕切り、

ケツ持ち――つまり、バックの連中との橋渡しをする存在だった。

その彼が捕まるとなれば、彼女たちの“裏の稼ぎ”も、一瞬で崩れる。


「……みんな来てる?」

若葉の声は焦りを隠せない。


「カナしかまだ来てねぇよ」


そう聞くやいなや、若葉は踵を返し、小走りで廊下を進む。

蛍光灯が点滅し、壁紙の剥がれた廊下には、古い音漏れが響いていた。

重低音のリズム、カラオケ機の古い残響、

そして誰かの笑い声。


「……ここか」


若葉は、いつもの部屋のドアノブを回した。


――ギィ。


扉の向こうは、薄い紫の照明が揺れる世界だった。

狭い個室に置かれた革張りのソファはところどころ破れ、

テーブルの上にはストローの刺さったコンビニドリンク、リップ、ライター。

どれも少女たちの“ここでの時間”を物語っている。


鏡の前では、鍵沼カナが熱心に化粧をしていた。

蛍光ピンクのポーチを開き、チップを指に取りながら、

緑色に染めた髪が肩にかかる。

耳には銀のピアスが幾つも並び、首筋には淡く伸びた刺青。

細い腕が、不自然なほど白い。


ドアの開く音に気づいたカナが振り向く。

「やっほー、私いっちばん! いらっしゃい、若葉~」

いつも通りの能天気な笑顔。

リモコンを手に取り、何事もなかったように番号を打ち込み始めた。


「ねぇ、若葉。あれ歌ってよ。あれ、私超好きなんだよね~」


その軽さに、若葉の中の糸が切れた。

「……馬鹿じゃないの、あんた」


怒鳴り声と同時に、リモコンを奪い取り、強く“中止”を押す。

画面に「STOP」の文字が浮かび、音が途切れる。


「いい? 他のみんなが来るまで、大人しくしてなさい」


カナは不満げに眉をひそめ、

舌打ち混じりに「なにそれ、つまんないんだけど、若葉」と吐き捨てた。


冷たい紫の照明が二人の顔を照らす。

カラオケルームの空気は、次第に重く、息苦しいほど静かになっていった。


A市産婦人科


白い光がやけに眩しかった。

モニターの中、小さな黒い影がぼんやりと映っている。

良子は息を呑み、指先でスカートの裾をぎゅっと握った。


「……妊娠してるね」

医師の低い声が、診察室の空気をわずかに震わせる。

超音波のジェルの冷たさが、ようやく皮膚の奥に染みてきた。


良子は無言でうなずく。

心臓がどくどくと速く脈を打ち、機械の電子音と混ざり合う。


医師はカルテに何かを書き込みながら言った。

「君はまだ十八歳だね。……保護者の方と相談して、今後のことを決めた方がいい」


「……親とは、もう……」

良子の声は喉の奥で潰れた。


医師は少しだけ目を細めた。

「そうか。じゃあ、信頼できる大人か、支援センターの人でもいい。」


その優しい口調の奥に、静かな現実があった。

良子は視線を落とし、握った手のひらの中で爪が食い込む。


(やっぱり……そうなんだ)


頭の中に浮かぶのは、恋人の藤井の顔。

コンビニ前、バイクにまたがって笑っていた、あの表情。


(きっと――客なんかじゃない。この子は、藤井の子どもだ)


良子は客相手でも“本番”をしていた。

けれど、根拠もなく、ただ直感でそう信じ込んでいた。

そう思わなければ、立っていられなかった。


診察室を出ると、夕暮れの外気が冷たく感じた。

街のざわめきが遠くに聞こえる。

良子はスマホを取り出し、指を震わせながらメッセージを打つ。


『ねえ、藤井。ちょっと話したいことあるんだ。』


送信。

青いチェックがつく。既読にならない。


良子はゆっくりと歩きながら思った。

(もう、学校も……NOPUR HEALもやめよう)


その瞬間、スマホが震えた。

胸の鼓動が止まりそうになる。

良子は立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り向いた。


――誰もいないはずの診療所の駐車場。

薄暗いガラス越しに、何かの影が動いた気がした。



あれから二時間が経過していた。

相変わらずカラオケ屋にいるのは、若葉とカナの二人だけだ。


「ちょっと……どうなってんのよ」

若葉は焦れたようにスマホを操作していた。

通知音がいくつも鳴っては消え、画面には「既読なし」の文字が並ぶ。


その隣で、カナはお気楽そうに鏡を覗き込んでいた。

化粧が仕上がり、ご機嫌な表情を浮かべている。

細い頬に光沢のあるリップを塗り、カメラアプリを起動。

そして、NOPUR HEALのサイトに自撮りをアップした。


――投稿完了。

数分も経たないうちに、売春の誘いメッセージが流れ始める。

「会える?」「今日空いてる?」

無数のメッセージが、冷たい光の中で蠢いていた。


「ねえ、良子、なんで来ないの?」

カナはリモコンをいじりながら、のんきに訊ねる。


若葉は舌打ちして、鋭く言い放つ。

「良子は今日、病院。……ここには来ない。」


その声には、苛立ちと、わずかな焦りが混じっていた。

三人――若葉、良子、カナは、昔からの仲だった。

NOPUR HEALの中でも、他とは違う“繋がり”があった。

だからこそ、若葉には信じられなかった。

あの良子が、自分の号令を無視するなんて。


「はぁ……なんか空気悪いし」

カナが鼻で笑い、再びスマホをいじり始める。

その瞬間――。


カウンターの方で、ざわめきが走った。

「おい! サツだ、サツが来たぞ!」

店員の高橋が青ざめた顔で叫ぶ。

店内が一瞬で凍りついた。


「はぁ!? なんで今――」若葉が立ち上がる。


次の瞬間、ドアがノックもなく開いた。

「生活安全課のふくろ寛治です。

 山本若葉さん、鍵沼カナさん……少し話を聞かせてほしい。」


扉の向こうに立っていたのは、

大柄で、どこか仏のような顔をした男だった。


カラオケ部屋に甘い香水の匂いが、警察手帳の革の匂いにかき消されていった。

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