06
(やめろよ……冗談だって言ってくれ……)
正義の枕元には、また“赤い女”の足が現れていた。
燃え上がるような深紅。
畳の上を、熱だけがじわじわと焦がしていくようだった。
喉がひゅっと鳴り、息が詰まる。
正義は、体の奥からこみ上げてくるものをどうにも抑えられなかった。
食事も取っていないはずなのに、胃の中が逆流するような感覚に襲われる。
「う……ヴォ……」
声にならない声が漏れる。
次の瞬間、
「うわああああああっ!」
正義は悲鳴を上げ、ベッドから転げ落ちた。
「正義、どうした!?」
扉が勢いよく開き、寛治が駆け込んできた。
その直後、階下からも慌ただしい足音が聞こえてくる。
正義は床に座り込んだまま、荒く呼吸を繰り返していた。
背中が小刻みに震えている。
寛治は肩に手を置き、静かに声をかけた。
「……大丈夫だ。深呼吸しよう、正義。ゆっくり吸って、吐いて……」
正義は震える手で自分の胸を押さえながら、兄の声に合わせて呼吸を整えた。
次第に肩の震えが小さくなり、うつむいたまま絞り出すように言葉を発した。
「兄さん……僕は……見たんだ。人が――殺されるところを」
その瞬間、また吐き気が込み上げ、口元を押さえる。
寛治は一瞬戸惑ったが、正義の肩を支えながら静かに問いかけた。
「正義、落ち着こう。ゆっくりでいい……話せるか?
嫌なら無理に言わなくてもいい」
「嫌じゃない……兄さんに聞いてほしいんだ」
正義は涙に濡れた目で寛治を見上げ、掴みかかるようにして訴えた。
「僕が見たんだ……殺される人を……!」
その叫びの直後、廊下から母の声が響いた。
「正義、どうしたの!? 大丈夫なの!?」
母が息を切らせて部屋に飛び込んでくる。
最近、彼女の顔には疲れの色が濃く浮かんでいた。
それでも、息子の顔を見て心配そうに駆け寄る。
正義は震える声で、しかしどこか決意を帯びた口調で言った。
「母さん……兄さんに、大事な話があるんだ。二人っきりにさせてください。僕はもう、落ち着いたから」
弱々しくも真剣な表情。
その目を見て、母はしばし迷ったが、静かにうなずいた。
「……わかったわ。寛治、あとはお願いね」
そう言って、母は正義の頭をやさしく撫で、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が響く。
部屋には、兄と弟の二人だけ。
正義は深く息を吐き、震える声で語り始めた。
「兄さん……僕は、なぜか“1週間後に死ぬ人間”がわかるんだ。
自分でも、何を言ってるのか信じられない。でも――たぶん、僕と関わった人だけ。僕に話しかけたり、気にかけたりした人に……起きるんだ」
そう言うと、正義は両手で頭を抱え、顔を伏せた。
呼吸が荒く、額から冷や汗が流れ落ちる。
寛治は黙って見つめた。
頭の中では、“これは精神的な幻覚かもしれない”という考えが浮かぶ。
心的ストレスによる幻視、もしくはトラウマ反応――
そうした診断を受ける人間を、彼は仕事柄、何度も見てきた。
(まるで精神科のカウンセリングみたいだ……)
寛治は、できるだけ柔らかい声で言った。
「正義……それは、夢の中の話か? それとも現実で見えるのか?」
すると正義は、はっと顔を上げ、力強く首を振った。
「違うんだ、兄さん!」
その目は恐怖に震えながらも、確かな確信を宿していた。
「兄さん、水沼絵里って知ってるよね?」
その名を聞いた瞬間、寛治の表情が強張る。
なぜ、正義がその名前を知っている――?
「……なぜそれを?」
「水沼絵里は、僕の通信制の担任だよ」
「なるほど……」寛治は短く唸る。
だが、次に続いた正義の言葉に、全身が凍りついた。
「絵里先生は……体が焼かれて、でも頭だけは燃えてなかった。
髪は剃られて、額には“λ”って刻印があった。そうでしょ?」
――そんな情報、一般には出ていない。
寛治の背筋に冷たいものが走った。
絵里の遺体の状況は、捜査関係者のごく一部しか知らないはずだ。
「……正義、お前……どうしてそれを……」
「わからない。でも、見たんだ。夢の中じゃない。はっきり、僕の目の前に……」
正義の声はかすれ、言葉の端々に恐怖が滲む。
「それで……次に殺される人間も、わかるのか?」
寛治は前のめりになり、息を詰めて尋ねた。
正義は少しの沈黙の後、枕元に現れた“赤い人間”の姿を思い出し、
込み上げる吐き気を必死に抑えながら言った。
「……正確には、誰なのかまではわからないんだ。
でも、その人は女性だと思う。
今度は、顔が焼かれてて……誰だか、見分けがつかなかった。
それに……」
寛治は黙り込み、深く息を吸った。
正義の言葉が幻なのか、それとも何か別の“兆し”なのか――判断がつかない。
その夜、寛治は眠れなかった。
生活安全課のデスクで、正義の言葉を思い返していた。
モニターには水沼絵里の事件記録。
燃焼痕の異常、頭部だけ無傷の状態、そして刻まれた“λ”の刻印。
(まさか……本当に、あいつが“見た”のか?)
机の上のコーヒーが冷めていく。
静けさの中で、寛治の心は重く沈んでいった。
検死室。
白い蛍光灯の下、冷気の漂う空間にステンレスの台が並んでいた。
その上には、白布で覆われた女性の遺体――水沼絵里。
検死官がフェイスシールド越しに記録を読み上げる。
「全身の約七割に焼損。ですが、奇妙な点があります。
衣類の繊維、皮下組織、骨の炭化状態――いずれからも燃焼促進物質が検出されません。
つまり、可燃剤を使用せずに燃えたことになります」
捜査一課の南雲警部補が眉をひそめた。
「可燃剤なしで、人がここまで焼けるわけがないだろう。自然発火か?」
「あり得ません。温度的に、人間の脂肪が引火してもここまでは燃えません。
それに――顔だけ、ほぼ無傷なんです」
検死官は、遺体の布を少しめくる。
そこには、焦げ一つない顔。だが、頭髪は剃り上げられ、
額にはくっきりと**“λ(ラムダ)”**の刻印が刻まれていた。
「……この文字、何かの儀式か?」南雲が呟く。
隣でメモを取っていた早乙女刑事が首をかしげた。
「宗教的なシンボルにも見えますが……ただ、焼け残った理由の方が厄介ですね。
発火源も燃焼経路も、物理的な説明がつかない」
検死官は深くため息をついた。
「正直に言えば――“原因不明”です。
まるで、人体そのものが内側から発火したような……そんな印象を受けます」
一瞬、室内に重い沈黙が落ちる。
冷蔵庫のコンプレッサー音だけが、規則正しく鳴っていた。
そこへ、場違いなほど軽い声が響いた。
「いやぁ〜聞いたよ。面白い死体が上がったんだって?」
振り向くと、白衣をひらめかせながら入ってきた男がいた。
南雲が顔をしかめる。
「……お前か。特殊課の変人が来るとは思ってたよ」
その男――**刑事・御堂**がニヤリと笑った。
「変人じゃない、“専門家”だ。これは普通の事件じゃないだろ?
見せてもらってもいいかな」
検死室の空気が、さらに冷たく引き締まっていく。




