05
袋正義にとって、この半年はあまりにも長く、苦しいものだった。
学校には行けなくなり、ほとんどの時間を部屋に引きこもって過ごした。
枕元には、夜な夜な現れる“誰か”の影――その存在に怯える日々が続いたのだ。
しかし半年が過ぎ、ある日を境に、枕元に立つ人間はぱたりと消えた。
悪夢から解放された正義の心は、少しずつ安定を取り戻していく。
朝は親と一緒に食卓につき、時には笑顔さえ見せるようになった。
「……正義、最近元気そうだね」
母・由紀子の声は、驚きと嬉しさが入り混じっていた。
「人の顔を見なければ、大丈夫だよ。母さん」
正義はそう答えた。まだ外には出られないが、
少なくとも部屋から一歩踏み出すことはできるようになったのだ。
進学校の高校はすでに退学していた。
けれど正義は前を向き、両親と相談して、
顔を出さずに通える通信制のネット高校への入学を決めた。
両親は心から安堵した。
「このままじゃ本当に正義が壊れてしまうと思ってたわ……」
由紀子は涙ぐみながらも、その決意を喜んだ。父も力強くうなずいた。
正義もまた、自分の中に小さな希望を見いだしていた。
「……僕、がんばってみるよ」
こうして正義は完全ネット上の高校生活を始めた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
兄・寛治が久しぶりに実家へ帰ってくると聞いた、
その1週間前から――
正義は再び部屋に閉じこもり、由紀子が作る料理にも手をつけなくなった。
「どうしちゃったの、正義……」
由紀子は悲痛な顔で、日に何度もドアを叩いた。
だが、中から返事はなかった。
それもそのはずだった。
正義の枕元には、もう“黄色”や“青色”の人影は立たない。
代わりにそこにいたのは――彼が初めて見る“赤い女”。
正義は、その顔に見覚えがあった。
通信制ネット高校の担任、水沼絵里。
初めて画面越しに挨拶を交わしたときの、柔らかな笑顔――
だが、枕元に立つその姿は、あの時の彼女とはまるで違っていた。
赤い光に包まれ、燃え上がるような輪郭。
髪のない頭皮には、じわじわと浮かび上がる奇怪な刻印――λ。
「……なんだ、これ」
正義は息を呑んだ。
これまでの“影”たちは、ただ立ち尽くすだけで危害を加えることはなかった。
恐怖はあっても、いつしか慣れすらあった。
だが、この赤い女だけは違う。
その姿は、正義の胸に生々しい死の予感を刻みつけた。
「また……始まったのか……?」
正義は布団を握りしめ、声を震わせる。
――その夜から、彼の悪夢は再び動き出す。
正義の枕元には、もう“黄色”や“青色”の人影は立たない。
代わりにそこにいたのは――彼が初めて見る“赤い女”。
悪夢にうなされ続けた正義は、ネット高校の授業にも顔を出さなくなっていた。
一週間後。
そんな時、階下から声がした。
「――正義!」
兄、寛治の声だ。そいえば兄が今日帰って来るんだった……
彼は昔から正義の憧れだった。明るくて、友達も多く、
人を自然と安心させる空気を持っていた。
(兄さんにだけは……知られたくない。
でも……話したい。全部、聞いてもらいたい……)
階段を上る足音が響く。やがて、部屋の前でノックが鳴った。
「正義、起きてるか?」
コン、コン……と規則正しい音。
正義は布団に潜り込み、喉の奥が熱くなる。心臓は暴れるように脈打っている。
答えなきゃ。いや、答えちゃいけない。
兄に話したら――僕はただの“おかしな奴”だと思われる。
ノックがしばらく続き、やがて止まった。
「……母さん、明日でもいいか」
兄の低い声が、ドアの向こうで呟かれる。
(ああああ、僕はどうしたら――!)
涙が出そうになる。
正義は枕に顔を押し付け、心の中で何度も繰り返した。
言いたい。言わなきゃ。けれど、言えない。
赤い人を見た、と。赤い人は今日で一週間後だきっと死ぬんだ、と。
正義の胸の中には深い空洞が広がっていった。
兄に手を伸ばせなかった後悔が、その空洞をさらに大きくしていく。
もう何日も授業に入れず、ネットに触れることすら億劫だった。
だがその朝、覚悟を決めるようにしてニュースサイトを開いた。
――翌朝画面に飛び込んできた見出しに、正義の息が止まる。
『今日未明、A市の廃家で焼失死体を発見。
遺体は激しく損傷しており、警察は殺人事件と断定――』
正義の手が震える。視線は文字に釘付けになった。
燃え上がる女の姿。枕元に立った、あの赤い影。
脳裏に焼きついた像と、記事の言葉が重なっていく。
(……水沼、絵里先生……?)
心臓が冷たい手で握られたように縮む。
正義は確信してしまった。
あの“赤い女”は幻ではなく、現実に死を告げる影だったのだ。
記事を閉じると、視界が揺れた。
先生のあの柔らかな声――
「よろしくお願いしますね」という最初の挨拶が、耳の奥に蘇る。
あれが消えてしまったのか。焼かれて。無惨に。
正義は唇を噛み、目を覆った。
――その夜。
深夜、袋家の玄関は静まり返っていた。
引き戸が、きぃ……と音を立ててわずかに開く。
家族を起こさぬよう、袋寛治は息を殺して足を踏み入れた。
親には「遅くなる」と伝えていたため、鍵はかかっていない。
初日の勤務を終え、クタクタの体を引きずるように帰宅する。
両親に「おかえり」と声をかけられる余裕もなく、そっと二階へ上がる。
正義の部屋の前で一瞬立ち止まったが――
ドアの隙間からは光も、物音も洩れてこない。
「……寝てるか」
そう呟いて、自室へと入った。
畳に体を投げ出すと、意識はすぐに遠のいた。
だが、丁度丑三つ時。
「――っ‼︎」
甲高い悲鳴が、静まり返った家を突き破った。
寛治の目は反射的に開く。
汗ばんだ額を拭い、耳を澄ます。
悲鳴は……隣の部屋から。正義の部屋からだ。
「正義……?」
寝ぼけた声で呼びかけながら、寛治はドアへと手を伸ばす。
(やめろよ……冗談だって言ってくれ……)
正義の枕元には、また“赤い女”の足が現れていた。
燃え盛るような赤。
じりじりと畳を焦がすような熱気が、静かな部屋に立ち込めていた。




