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その少し前――
港区へ向かう車内。
「おめでとう。良子ちゃんは保護されたみたいね」
スピーカー越しのアリスの声に、寛治は思わず息を呑んだ。
「……本当ですか」
胸の奥に重くのしかかっていたものが、ふっと抜ける。
ハンドルを握る指からも、自然と力が抜けた。
「よかった……本当によかった……」
「袋、まだ終わってねぇ」
金田が腕を組み、不敵に笑う。
「これからが本番だ。相手は能力者だぞ」
良子の生還で、車内の空気は一瞬だけ明るくなった。
だが同時に、張り詰めた緊張も増していた。
「竜司の能力――対象を燃やす力ね」
アリスが続ける。
「それが“物”に対してなのか、“生き物”に対してなのかが問題よ」
「物なら、燃えても消せる」
金田が低く答える。
「だが人間は消えねぇ。
意識がある限り、燃え続ける……」
「なるほど。過去にも似た能力はあったわね」
アリスは特務事件の記録を参照しながら言う。
「大抵、相手が視界に入った瞬間に発動している。
それと――竜司の異常な点は」
一拍、間が空く。
「死体には、必ず“λ”の文字が刻まれていること」
「正体は分からん」
金田は短く言い切った。
「だが、正面からやり合うな。
それだけは確かだ」
「竜司の予想経路、分かるか?」
「ええ。いくつか送るわ。
あとは……お爺ちゃんの勘で決めて」
送信音。
金田のスマホに、複数のルートが表示された。
金田は、その中の一つを選び、寛治に見せる。
「ここでいいでしょうか?」
「……ああ。ここが匂う」
金田の声に、鋭さが宿る。
「長年の刑事の勘だ。
いや――俺の“能力”だ。信じろ」
自慢げに鼻を指さす。
港区――そこは、かつて倉庫だった建物へ続く、細い道路だった。
「ここで待ち伏せるぞ」
空はまだ暗く、港には強い風が吹きつけていた。
潮の匂いが、湿った空気とともに鼻を刺す。
細道の向こうには海が見え、
いくつかの漁船が静かに係留されているのが分かる。
細道の向こうを、バイクの爆音とライトが切り裂くように近づいてくる。
待ち伏せしていた金田の後ろの寛治が、
バイクがホントに”来たこと”に驚た表情浮かべる
――速ぇな。
倉庫の影に身を伏せ、金田は呼吸を殺す。
視界の中央に、二人乗りのバイク。
狙うのは車体。
人間じゃない。
ゴムを引き絞る指に、じわりと力がこもる。
風向き、距離、速度。
頭の中で線を引く。
(今だ)
ピィィン――!
乾いた音が夜を裂いた。
弾は、闇を切って飛ぶ。
次の瞬間――
甲高い破裂音。
バイクの挙動が、わずかに狂った。
「……当たった」
寛治は思はず声を上げる
前輪が跳ね、
ハンドルが大きく振れる。
制御を失った車体が横滑りし、
二人の身体が宙へ放り出される。
アスファルトに叩きつけられる音。
金属が削れる耳障りな摩擦音。
火花が、闇の中で一瞬だけ咲いた。
バイクは路肩へ転がり、
ヘッドライトだけが海の方角を照らし続ける。
風の音が戻ってくる。
金田は、スリングショットを下ろし、
暗がりから様子をうかがう。
二人とも、動いている。
そして――
竜司は、体を確かめるようにゆっくりと起き上がった。
どうやら奇跡的に怪我はないらしい。
そっと伊奈を抱き起こそうとする。
「……竜ちゃん、右腕が痛いわ」
転倒した拍子に折れたのだろう。
伊奈の右腕は不自然な角度に曲がり、全身には擦り傷が走っていた。
その瞬間――
深夜の肌寒い空気が、急に熱を帯びる。
「大丈夫かい、伊奈」
竜司が手を伸ばした、そのときだった。
「……お前が、水沼竜司か」
「――動くな」
倉庫の角にあった人影が、わずかに揺れる。
少年特有の高い声だった。
竜司は無視して伊奈を気遣う。
ピィィン――!
乾いた音とともに、何かが二人の間に転がり込んだ。
小さな金属球のような物体が地面を跳ね、
火花を散らしながら壁に当たり、闇に転がった。
「次は当てるぞ」
金田は角に身を隠したまま言う。
「動くな」
竜司と伊奈の動きが止まる。
竜司は苛立ったように倉庫の角を睨んだ。
「その声……あの時、電話してきたガキね。
あんた、何者?」
伊奈は痛む右腕を押さえながら、ふらつきつつ自分で立ち上がる。
金田は竜司の視界に入らないよう、倉庫の角に身を潜めたまま言った。
「てめぇが水沼伊奈か。
いいか、竜司お前はこっちを見るな。壁に向かって立て」
角から、腕だけが覗く。
スリングショットのような武器を構えているのが見えた。
「警察だ。
お前たちを、殺人容疑で逮捕する」
「へえ……警察、ね」
竜司は金田の命令を無視し、ゆっくりと歩き出した。
一歩、踏み出すたびに、周囲の空気が揺らぐ。
熱気のような陽炎が、足元から立ちのぼる。
自信――
いや、全能感に満ちた笑み。
その瞬間。
ピィィン――!
乾いた音が夜気を裂いた。
「ぎゃああああっ!!」
伊奈の悲鳴が上がる。
球は、伊奈の左ふくらはぎに命中していた。
肉に食い込み、深く突き刺さる。
「……っ、あ……!」
血が、どくりと溢れ出す。
脚に力が入らず、伊奈の体がぐらりと傾いた。
筋肉が痙攣するように震え、
膝が笑う。
地面を踏みしめようとしても、感覚が鈍く、言うことをきかない。
「クソ……野郎……殺してやる……」
歯を食いしばりながら吐き捨てる。
ふくらはぎから伝わる、焼けつくような痛み。
脈打つたびに、心臓の鼓動が傷口に響く。
立っているだけで、意識が遠のきそうだった。
「伊奈!」
竜司が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「……っ、平気よ……でも……脚が……」
力が入らず、伊奈は竜司の肩にもたれかかる。
「次は殺す」
金田の声が響いた。
「これでも、人は殺せる。
舐めるなよ」
そして、声を張り上げる。
「これは特殊事件だ!」
港に、鋭い声が響く。
「お前たちの都合も、事情も関係ない。
生きるか死ぬかは、お前たち次第だ」
一拍置き、続ける。
「いいか、もう一度言う。
壁に向け」
竜司の名を、はっきり呼ぶ。
「水沼竜司。
次に狙うのは――母親の命だ」
空気が凍る。
「もう逃げ場はない。
大人しく、逮捕されろ」
竜司の肩が、わずかに震えた。
ゆっくりと、壁の方へ向き直る。
それを確認し、金田は小声で言った。
「……袋。気をつけろよ」
背後で状況を見ていた寛治が、静かに動き出す。
竜司は壁を向いたまま、舌打ちした。
「チッ……」
「いいか、変な真似はするな」
金田が警告する。
港の薄明かりの中、細い道路――
壁に向いた竜司の視界をなぞるように、
ひとつの大きな影が伸びていた。
だが、その影だけが、じわじわと焦げていく。
λの形に歪みながら。




