27
伊奈は、その様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「だめねぇ……すぐ汚すんだから」
床に広がる液体に目を落とし、
まるで母親が子供を躾けるような口調だった。
そのとき――
プルルルル……プルルルル……
店の隅に置かれた、古びた電話が鳴り出した。
深夜に鳴る電話音
静まり返った店内に、やけに大きく響く。
伊奈と竜司の動きが、同時に止まる。
刃物を構えたまま、
二人の視線がゆっくりと電話へ向いた。
鳴りやまない。
プルルルル……プルルルル……
伊奈は舌打ちし、
出刃包丁を握ったまま受話器を取る。
「……はい」
次の瞬間、
耳元に届いたのは――
子供の声だった。
「もしもし。水沼さんですか?」
少年特有の、高い声。
伊奈は眉をひそめ、
無言で受話器を戻そうとする。
だが、その直前。
「おい」
声が変わった。
一段、低く。
冷たく。
探るような声音。
「……そこに、良子いるんだろ」
伊奈の指が、止まる。
包丁を握る手が、わずかに震えた。
「……何の話?」
少年の声は、淡々と続く。
「お前、あいつに会ったな天覆 禍音」
伊奈の背筋を、冷たいものが走る。
「……あんた、何者?」
一拍。
「――今から行く」少年は、そう答えると電話を一方的に切る
その直後、受話器の向こうから――
微かに、サイレンの音が残響のように響いていた。
――少し前。
パトカーのサイレンを鳴らしながら、
寛治の運転する車は夜の市街地を切り裂くように疾走していた。
「おいおい……」
助手席で金田が、ドアグリップを掴みながら顔をしかめる。
「すいません……もう、時間が……」
ハンドルを握る寛治の声は硬い。
視線が一瞬、ダッシュボードの時計へ落ちる。
日付は、すでに次の日を指していた。
それが意味することを、
誰も口にしなかった。
「……チッ」
金田が舌打ちする。
「仕方ねぇ。賭けだが――あれをやるか」
そう言って、寛治を横目で見た。
「袋。お前の携帯、花子に繋げろ」
「えっ……分かりました」
寛治は慌ててスマホを取り出し、アリスへ発信する。
数コールの後、スピーカー越しに声が響いた。
『なに、寛治くん?』
「いえ……金田さんが、用があるみたいで……」
「おう、花子」
『お爺ちゃん! 花子じゃなくてアリスよ!』
苛立った声が車内に響く。
「まあいい。伊奈のバーの電話番号、教えろ」
『……え? xxxx-xxxxよ。
ちょっと、何する気?』
金田は答えず、自分のスマホを取り出す。
画面を操作し、番号を打ち込む。
「……まだ通じるか」
コール音。
「……あー、あー」
金田はわざとらしく喉を鳴らし、声色を変えた。
「もしもし。水沼さんですか?」
その瞬間、車内が静まり返る。
スピーカー越しのアリスも、
寛治も、息を潜めた。
金田は一方的に話し続ける。
「……あいつに会ったな」
その名を、はっきりと告げた。
「天覆 禍音」
金田の口元が、歪む。
それは笑みとも、嫌悪ともつかない表情だった。
「……ちょっと、禍音って……まさか……」
アリスの声が、裏返る。
『――今から行く』
金田はそれだけ言い、通話を切った。
沈黙。
エンジン音とサイレンだけが響く。
「……ちったぁ、時間稼ぎにはなるだろ」
金田は前を向いたまま言う。
「先に現地に着いた連中には伝えろ。
サイレン鳴らして威嚇しろってな」
そう言って、寛治の肩を軽く叩く。
「頼んだぞ、袋」
「……はい」
運転しながら、寛治が問いかける。
「……天覆禍音って、誰なんですか?」
金田は答えない。
代わりに、アリスの声がスピーカーから響いた。
『エレウシスの密議事件の主犯格……
でも、あいつはもう捕まってるはずだよ』
『A県女子刑務所。
最高度危険人物指定で、地下特別棟に幽閉されてる』
一瞬、言葉を探すような間。
「さぁな」
金田の低い声が、車内に伝わる。
「だがよ……」
金田が、低く笑う。
視線は前方の闇を射抜いたまま。
「怪物だぜ。あれは」
再び沈黙。
その名前を口にしただけで、
空気が重くなった気がした。
受話器から、通話終了音が虚しく漏れた。
伊奈は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
出刃包丁を握った手も、宙で止まったまま。
店内には、
良子の荒い呼吸と、
古い蛍光灯の微かな唸りだけが残る。
「……どうしたの? ママ」
竜司が心配そうに近づき、
背後からそっと伊奈を抱き留める。
伊奈は、低く息を吐いた。
「……ふうん」
ゆっくりと包丁をカートの上に置く。
カチャリ、と乾いた音。
「……どうする? 続き」
竜司が、縛られた良子へ視線を向ける。
伊奈は、一瞬だけ考えるように目を伏せ、
やがて、くすりと笑った。
「やめましょ。今日は」
その言葉に、良子の肩がびくりと跳ねる。
遠くで、
パトカーのサイレンが微かに響いた。
伊奈が呟く。
「あの子分に、
あそこへ行くよう指示してたわよね」
「……ああ、あそこ? もちろん」
竜司は伊奈の頬に軽く口づけし、
その背を撫でる。
「仕方ないなぁ。
せっかく楽しくなってきたのに」
ポケットからキーを取り出す。
「面白いのは、これからよ」
伊奈は良子を見下ろしながら言った。
「楽園で、二人で幸せになるの」
そして、どこか残念そうに微笑む。
「……見たかったけど。
まあいいわ。もう会うこともないもの」
「燃やしとく?」
「いいの、竜ちゃん。
それより急ぎましょ。警察が来る」
二人は、良子を残したまま店を出た。
扉が閉まると、
防音された店内は、完全な無音に包まれる。
――数秒後。
店の前に停められていたバイクのエンジンが唸りを上げた。
ブロロロロロ――。
伊奈が後部座席に跨り、
竜司がハンドルを握る。
伊奈が、ぽつりと呟いた。
「……禍音」
「え? なんだい、ママ」
答えはない。
夜の道路へ、バイクが飛び出していく。
テールランプの赤い光が、
闇の中へ細く引き延ばされていった。




