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東区――

昼間は人で溢れる繁華街も、

深夜を過ぎれば別の顔を見せる。


居酒屋は看板を落とし、

古びた精肉店のショーケースは暗闇に沈む。


通りには人影一つなく、

シャッターの並ぶ音のない街が、

息を殺したように横たわっていた。


その一角。

居酒屋と精肉店に挟まれるようにして、

小さな看板が一つ、薄く読めない文字が目立つが。


「Karaoke Bar lamb」


防音設備の整った店内は、

外界から切り離されたように静かだった。


照明は薄暗く

カウンターには誰かがキープしたままの酒瓶が並ぶ。

椅子やテーブルはすべて壁際に寄せられ、

中央だけが不自然に空いている。


その中央。


固定式の椅子に、

良子が縛り付けられていた。


脚ごと床にネジ止めされた椅子は、

女性の力ではびくともしない。


それでも良子は、

ガタガタと体を揺らし、

必死に縄を引きちぎろうともがいている。


荒い息。

喉から漏れる、かすれた声。


「……やだ……誰か……」


ホールの奥――

扉が、きしりと音を立てた。


次の瞬間、

大きなキャスター音が、

静まり返った店内に響く。


ゴロゴロ、ゴロゴロと。


現れたのは伊奈だった。


大きなカートを押しながら、

子供のように目を輝かせている。


興奮しているのか、

肩が上下し、呼吸がやけに荒い。


「ねえ、良子ちゃん」


甘ったるい声。

だが、その目は笑っていない。


「……ちゃん……見せてよ」


一瞬、

良子は言葉の意味が理解できなかった。


震える視線で、

恐る恐るカートの中を覗く。


――そこにあったのは、


ナイフ。

鉈。

手術用のメス。

出刃包丁。

用途の違う刃物が、無造作に並べられていた。


理解した瞬間、

頭が真っ白になる。


「……っ」


声にならない悲鳴。


良子は反射的に暴れ、

椅子ごと体を揺さぶる。


「あ……あが……あがあああ……!」


床に擦れる音。

縄が食い込み、皮膚が赤くなる。


伊奈はそれを見て、

うっとりとしたように息を吐いた。


「大丈夫、大丈夫」


まるで、

本当に安心させるような口調で。


「ちゃんと、

 取り上げてあげるから」


伊奈は、カートに整然と並べられた刃物を一本ずつ指で弾きながら、

楽しげに良子の前へ差し出していった。


「これかしら?」


一瞬、手に取る。

刃が光る。


「……いいえしっくりこないわね」


あっさりと戻し、次へ。


カチャ、カチャ、と乾いた金属音が店内に響く。

その音一つ一つが、良子の神経を削っていく。


伊奈は、怯え切った良子の表情を横目で盗み見ながら、

まるで買い物でもしているかのように刃物を選び続けた。


「うーん……」


間延びした声。


「……これね。決めた」


伊奈が取り出したのは、

刃渡り十六センチほどの出刃包丁だった。


ずしりと重みのある刃。

魚の骨を断ち切るための、厚み。


伊奈はそれを愛おしそうに撫で、にっこりと笑う。


「ふふふ。私ね、魚を捌くの、上手なのよ」


そう言いながら、

包丁の穂先を、良子の腹部へ――


ゆっくりと、なぞらせる。


刃は皮膚を切らない。

だが、冷たさと重みだけが確実に伝わる。


「……っ!!」


良子は息を詰まらせ、首を振る。


「や、やめて……ごめんなさい……!」


震える声。

必死の懇願。


目をぎゅっと閉じると、

涙が堰を切ったように溢れ落ちた。


(いや……死にたくない……)


腹の奥で、小さな命が動いた気がした。


そのとき――


ブロロロロロ――。


店の外から、

聞き慣れたバイクの排気音が響いた。


それは、店の前で止まる。


良子の目が、見開かれる。


「……明!!」


叫び声に、かすかな希望が混じる。


伊奈の手が、ぴたりと止まった。

刃先が宙で静止する。


一瞬、警戒するように入口へ視線を向ける。


カラン――。


店の扉が開いた。


「……明!!」


良子は、もう一度叫ぶ。


だが――


「ただいま、ママ」


その声を聞いた瞬間、

良子の顔から、血の気が引いた。


希望は、音を立てて粉々に砕け散る。


伊奈は振り返り、満面の笑みを浮かべる。


「あら、お帰り竜ちゃん」


そして、何事もないように言った。


「寂しかったからねぇ。

 今、ちょっとお腹のことで手伝ってるの」


竜司は店内を一瞥し、

縛られた良子と、刃物のカートを見て、楽しそうに目を細める。


「へぇ」


スマホを取り出しながら、軽い調子で言った。


「ちょっと待ってね。動画、撮るから」


カメラを構え、良子に近づく。


「男の子かな? 女の子かな?

 僕、弟が欲しいな」


そう言って、

竜司は良子の腹に、ためらいなく手を置いた。


良子の喉から、か細い声が漏れる。


「……あ……明は……?」


竜司は、その声を聞いて、

くすっと笑った。


「明?」


まるで思い出したかのように、首を傾げる。


「……明ならさ」


笑顔のまま、あっさりと告げる。


「今頃、死んでるカナ」

軽い口調。

天気の話でもするような声音。


その言葉が落ちた瞬間――

良子の顔が、凍りついた。


良子の視界が、急に遠のいた。

色が褪せ、輪郭が滲む。


――キィン、と。

頭の奥で、金属を擦るような音が鳴り続ける。


(……なにを……言ってるの……?)


理解しようとした瞬間、

頭の中で、何かがぷつりと切れた。


考えることを、身体が拒んだ。



「……うそ……」


掠れた声が、床に落ちる。


「うそ……でしょ……」


良子は、息を吸うことを忘れていた。


肺が、動かない。

声も、出ない。


そのとき――


下半身から、

温かい液体が、椅子の脚を伝って床に落ちた。


伊奈はその様子を見て、満足そうに微笑んだ。

「だめねぇ、すぐ汚すんだから」


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