25
その瞬間――
家の中から、ぬるい空気が流れ出してきた。
生活の匂い。
そして、それとは明らかに異なる――
焦げたような、説明のつかない匂い。
寛治は一歩、足を踏み入れる。
その背後で、金田が動いた。
インバネスコートの内側。
吊るされていた折り畳み式のスリングショットを引き抜くと、
カチャ、カチャと乾いた音を立て、一瞬で組み上げる。
手に取ったのは、特殊な術印が刻まれたセラミック球。
それを指先で転がしながら、寛治の半歩後ろにつく。
玄関を抜け、リビングへ。
壁には、黒く焼け焦げた痕。
床には飛び散った血。
そして――
ずるずると引きずられたような、血の筋。
それは脱衣室へと続いていた。
「……袋。慎重に行け」
金田の声は、低く、硬い。
だが寛治は止まらない。
血の跡を追い、脱衣室へ踏み込む。
「……っ」
そこにいた。
床に倒れ込むように、藤井明が横たわっている。
足元から腰にかけて――
異様なほど均整の取れた炎が、静かに燃えていた。
浴室の扉は開いたまま。
シャワーが出しっぱなしになり、水が明の体を打ち続けている。
だが――
炎は、消えない。
水を弾くでもなく、弱まることもなく、
ただそこに在り続けている。
「藤井さん!!」
寛治が駆け寄ろうとした瞬間――
「馬鹿野郎!! 待て、袋!!」
金田が腕を掴み、強引に止める。
「触るな。……おかしい」
金田は炎を睨みつける。
「水で消えてない。
普通の燃え方じゃない」
慎重に距離を詰め、金田が問いかける。
「おい。何をされた」
明は荒い息の合間に、吐き捨てるように言う。
「……うるせぇ……
竜司だ……あのクソが、何か言いやがった瞬間……燃え出した……」
歯を食いしばる。
「消えねぇ……水かけても……消えねぇんだよ……クソ……」
脱衣室の床に落ちたタオルに、炎が移る。
じわじわと、部屋全体が火に侵され始めていた。
金田の視線が、炎と明を往復する。
「……過去の案件に似てるな」
金田が思考する。
視線は、炎に意識を奪われながらも、
必死に耐えている明へ。
寛治が即座にスマホを取り出す。
「消防呼びます」
金田は、シャワーを掴み、
燃え始めたタオルに水を叩きつける。
じゅっ、という音とともに、
炎はあっさりと消えた。
それを一瞥し、金田は口の端を吊り上げる。
「……なるほどな、袋」
振り返り、寛治を見る。
「炎に触れずに――
こいつ、失神させられるか?」
寛治は一瞬だけ、明を見る。
苦痛と怒りで歪んだ顔。
それでも、まだ生きようとしている。
「……やってみます」
「ぐ、ふざけ……るな……」
明が呻いた、その次の瞬間だった。
寛治は一歩で間合いに入り、
襟元を掴む。
ためらいはない。
踏み込み、体を捻り、一気に背後へ回る。
腕が首に絡み、脚が明の体を挟み込む。
逆十字絞。
「――ッ!!」
空気が、断たれる。
明は暴れる。腕を掴み、床を蹴り、
必死に抵抗する。
だが――
寛治の体は、揺れない。
力ではない。
重心と角度。
血流を断つ位置を、寸分違わず捉えている。
数秒。
明の動きが、明確に鈍る。
さらに数秒――
指先から、力が抜けていった。
「……ッ……」
力が抜け、
体が完全に寛治に預けられた。
落ちた。
明を床に寝かせる。
金田がシャワーを向け、
燃えていた箇所に水をかける。
すると――
さっきまで消えなかった炎が、
嘘のように萎み、
すうっと消えていった。
「やっぱりな」
金田が確信を込めて言う。
「精神干渉型・現象誘発系能力、意識がある限り常時発動だ」
寛治は炎が完全に消えたのを確認すると、
すぐに明の体を支え、逆十字絞を解いた。
そして――
両手で首元を軽く押さえ、ゆっくりと血流を戻す。
焦らない。
急がせない。
指先で脈を確認しながら、
呼吸のリズムを整える。
「……戻れ」
低く、静かな声。
数秒後――
「……ぐっ」
明の喉が鳴り、浅い呼吸が戻ってくる。
意識が、浮上してきた。
寛治は小さく息を吐いた。
「……よし」
「お前……やるな」
背後で、金田が素直に言う。
明は苦しそうに体を起こそうとし、
「……竜司だ……
あいつ……どこかに行きやがった……」
歯を食いしばる。
「俺の……バイクも……盗みやがって……
くそ……良子……良子……」
今にも立ち上がろうとする明を、
寛治が押さえる。
「やめなさい」
声は強いが、乱れていない。
「足は酷い火傷だ。
それに――」
視線が、腹部のナイフに落ちる。
「まだ刃が入ってる。
動けば死ぬ」
応急処置を続けながら、
寛治ははっきり言った。
「そういうことだ」
金田がスマホを取り出す。
「竜司は、俺たちが必ず捕まえる」
通話が繋がる。
「あっ、お爺ちゃん。
お爺ちゃんが仕掛けたGPS、動いてるよ」
「ああ……そうだろ」
金田は淡々と答える。
あの夜、藤井の家から帰る途中。
金田は、藤井のバイクにGPSを仕込んでいた。
「そいつに竜司が乗ってる。場所、割れたか?」
「もちろん。地図送る。
東区の繁華街――
昔、伊奈がやってた飲み屋の店」
金田の目が、鋭く細まる。
遠くで鳴っていたサイレンが、急速に大きくなる。
ほどなくして、家の前で音が止まった。
玄関が開き、
オレンジ色の制服を着た救急隊員たちが、手早く機材を抱えて入ってくる。
「いいか、花子」
金田は続ける。
「現地の警官に伝えろ。封鎖しろ、近づくな」
一拍。
「精神干渉型・現象誘発系。
対象を“燃やす”能力者だ」
一瞬の沈黙。
「……お爺ちゃんたちで、大丈夫?特務課いま私達だけだよ」
「やるしかないだろ」
通話を切り、
金田は寛治を見る。
「行くぞ、袋」
寛治は拳を握る。
後手に回っている。
それが、はっきり分かる。
「……くそ……」
担架に運ばれながら、明が泣きながら叫ぶ。
「頼む……警察の人……
良子を……助けてくれ……!!」
悔しさと恐怖で、声が震えていた。
寛治は一度、立ち止まる。
明の目を、真正面から見る。
「必ず助ける」
自分に叩きつける約束。
「――必ずだ」
二度、約束した。
それは警官としてではない。
弟と明、男としての誓いだった。
「水沼竜司」
短く、強く。
寛治は踵を返し、金田と共に車へ乗り込む。
エンジンが唸る。
法定速度など、もう関係ない。
東区へ――竜司のいる場所へ。




