24
――寂しかった。
それだけだった。
なぜか、ある日。
大嫌いだった人に、会いに行った。
寂しかったから。
家族だから――そう言い訳して。
でも、そこから世界は、少しずつ歪んでいった。
「このアドレスに行って」
何時しか妻が、そう囁いた。
その一言一句を、今でも覚えている。
その日からだ。
世界が、完全に変わったのは。
妻を見るたび、
ここは牢獄だと確信するようになった。
そして――
いつしか、人が燃える様を見るのが、
ひどく自然なことになった。
明が竜司に飛びかかろうとした、その瞬間だった。
「――λ」
竜司が、ほとんど囁くように唱える。
次の瞬間、
明の足元が、ぼっと赤く灯った。
「……?」
違和感は一拍遅れてやってきた。
熱。
いや、熱だと脳が理解してしまった。
「な……なんだ、これ……」
足。
次に、手。
皮膚の内側から、じわじわと焼かれるような感覚。
炎は派手に燃え上がらない。ただ、確実に――燃えていると“分からせてくる”。
「くそっ……!!」
明は前に出るのをやめ、よろめくように後退する。
「何しやがった、竜司……!!」
だが答えは返らない。
熱を“自覚”した瞬間、
痛みは跳ね上がった。
「ぐ……あああああああ!!」
明は床に転がるように倒れ、フローリングの上を転げ回る。
焦げた匂いはしない。
それでも、確かに――自分が燃えている。
「熱い……熱い……!!」
その様子を、竜司は静かに見下ろしていた。
「いいね」
穏やかな声だった。
「その感情。
死ぬまで、ちゃんと抱いてよ」
竜司はポケットからナイフを取り出し、
躊躇なく明の腹に突き立てる。
「ぐっ……!!」
蹴り。
床を滑るように、明の体が弾かれる。
まだ人の入っていない部屋。
何もないフローリングを、明は痛みと熱にまみれて転がった。
「……佐山君」
竜司の声に、佐山が慌てて駆け寄ってくる。
「は、はいっ!
すいやせん、竜司さん!!」
深く、九十度に頭を下げる。
「ははは。いいよ。
それより、ケース持つの手伝って……」
床でのたうつ明を見た佐山は、一瞬きょとんとし――
次の瞬間、口元を歪めた。
「……へっ」
そのまま、思いきり蹴りを叩き込む。
「このクソが!!」
鈍い音。
「てめぇのせいでよォ!!
竜司さんに余計な手間かけさせてんじゃねぇぞ!!」
もう一発。
蹴りは雑で、感情任せで、
ただ鬱憤をぶつけるだけのものだった。
「分かってんのか!?
分かってねぇだろ!!」
「……佐山」
低く、苛立ちを含んだ声。
それだけで、佐山の動きが止まる。
「あ……」
佐山は我に返ったように姿勢を正し、深く頭を下げる。
「す、すいません!!
つい……!」
「いいよ」
竜司は淡々と続ける。
「でも、それは要らない」
竜司の指先が、ケースを指す。
佐山はごくりと喉を鳴らし、
「……はい」
とだけ答えた。
竜司は興味を失ったように背を向ける。
「ケース、持って」
「は、はいっ!!」
佐山は慌てて札束の入ったアタッシュケースを掴み、
一度だけ明を見下ろした。
**調子に乗るんじゃね**
外へ出る。
バンに積み込まれたケースを眺めながら、竜司は呟く。
「早く楽園に行きたいな。
妻と二人で」
「竜司さん、スゲー……
これ見てくださいよ!」
佐山がはしゃいだ声を上げる。
独特なエンジン音。
近くに置かれていたバイク。
竜司はそれを一目見て、静かに言った。
「……なるほど。
足りない分は、これか」
竜司はバイクに跨る。
「佐山。
バンは、あそこに置いて来て」
佐山は竜司に命令されるのが嬉しいのか
「わ、分かりました!!
竜司さん、その姿……カッコいいっス!!」
竜司は小さく笑う。
「妻とツーリングでも、洒落込むかな」
エンジンが唸り、
金髪の男はバイクと消えていった。
A県・明け方。
東の空が、わずかに白み始めていた。
夜と朝の境目――
街が最も油断する時間帯だ。
寛治は、アリスから送られてきたGPS座標を頼りに、
車を細い住宅街へと滑り込ませた。
「……ここか」
ナビが示す終点。
そこにあったのは、一軒家だった。
外観だけを見れば、
シャッターゲート付きのカーポート。
外壁は淡いグレーの塗り壁に、木目調のアクセント。
夜は足元灯が控えめに灯るデザイナーズ住宅
だが――
寛治は、ブレーキを踏み、
視線を鋭くした。
つい数分前。
この家へ向かう途中、
一本手前の通りで、妙に場違いな白いバンとすれ違っていた。
深夜でも明け方でもない、
この時間帯に走るには、
あまりにも“用事の匂い”が濃い車だった。
車を降り、
寛治は周囲を見渡す。
静まり返った住宅街。
だが――
家の中。
リビングと思しき位置に、
明かりが灯っている。
明け方だというのに。
生活灯にしては、不自然な点灯だった。
(……おかしい)
寛治は、無意識に肩を落とし、
呼吸を整える。
その時だった。
「――待て。袋」
背後から、
短く、切り捨てるような声。
次の瞬間、
何かが空を切って飛んできた。
反射的に、寛治はそれを掴む。
お守りだった。
小ぶりで、
掌に収まるほどの大きさ。
だが、妙に重い。
「……これは?」
寛治が視線を落とす。
お守りの表面には、
赤と墨色の糸で縫い込まれた文様が走っていた。
それは文字ではない。
花でも記号でもない。
注連縄を簡略化したような曲線と、
御幣の裂け目を思わせる直線が重なり合い、
意味を拒む配置で縫い留められている。
要所要所に、
神札に押される朱印の欠片のような形が見える。
だが、どの神名にも一致しない。
――名前を削られた印。
袋の口を縛る黒紐には、
等間隔に刻まれた細かな切れ目。
それは、
古い神道の護符に見られる、
穢れを分散させるための刻みだった。
手に取った瞬間、
寛治は理由もなく確信する。
(……守るための物じゃない)
これは――
身代わりだ。
「……何???」
寛治が低く言うと、金田が答える。
「特務課製の身代わりだ」
淡々とした声。
「正確には、“対象に向けられた初撃を肩代わりする”呪物だな」
寛治の指先に、ぞくりとした感触が走る。
お守りは、触れているだけなのに――
まるで中で何かが、じっと待っているようだった。
「一回きりだ。
発動したら、中身は燃えカスになる」
金田は続ける。
「理屈は聞くな。
効くから持っとけ」
金田が、低い声で言う。
寛治は無言で、そのお守りを握りしめた。
寛治は玄関へ向かい、ドアノブに手をかける。
鍵は――
かかっていなかった。
わずかな力で、すんなりと扉が開く。
その瞬間、
家の中から、ぬるい空気が流れ出してくる。
焦げたような、説明できない匂い。
寛治は一歩、足を踏み入れた。




