23
深夜――
明はバイクを全力で走らせながら、“あの場所”へ向かっていた。
数日前、良子が不意に見せてきた戸建ての借家。
――ねえ、ここね。
――保育園も小学校も近くて、治安もいいの。
――いつか住むために、先に契約したのよ。
そう言って、良子は照れたように笑っていた。
シャッターゲート付きのカーポート。
外壁は淡いグレーの塗り壁に、木目調のアクセント。
直線的で無駄のないフォルム、夜は足元灯が控えめに灯る――
いかにも今時の、デザイナーズ住宅だった。
――ここなら、あなたのバイクも安心でしょ。
――二人で住むには……ちょっと広いかしらね。
どうやら新築のまま売れ残り、やがて賃貸に回された物件らしかった。
“不思議と空いていた”ことを、良子は幸運だと笑っていた。
その家が、今――
近づくにつれ、明は眉をひそめる。
家には、灯りがついている。
閉まっているはずのシャッターゲートは開き、
中には見覚えのない白いバンが一台、無遠慮に停められていた。
(……誰か、いる?)
嫌な予感が背中を這い上がる。
明はバイクを家の死角に停め、エンジンをかけたまま降りた。
足音を殺し、慎重に敷地へと近づく。
静まり返った住宅街。
風に揺れる植栽の葉擦れだけが、やけに大きく聞こえる。
玄関先――
そこに、人影があった。
扉の前で、落ち着きなく周囲を見回しながら立っている男。
佐山健一。
竜司のチームに、初期からいる幹部の一人。
身長はせいぜい155センチほど、痩せこけた体。
金髪に染めた髪は、明らかに竜司への安っぽい憧れの真似。
昔から竜司の腰巾着。
頭は悪く、考えることを放棄し、
竜司の命令しか聞かない男。
(……なんで、佐山がいやがる)
その瞬間、明の中で何かが切れた。
怒りが、血流と一緒に一気に噴き上がる。
「――おいいいい!!」
静寂を破る怒声。
「佐山ァ!!
なんで……なんでお前がここにいんだ!!」
明は一気に距離を詰め、
佐山の胸倉を掴み上げた。
明に胸倉を掴み上げられた佐山は、一瞬きょとんとした顔をした。
状況を理解するまで、ほんの数秒。
やがて口元が歪み、いやらしい笑みが浮かぶ。
「へっへ……藤井かよ。
なんだ? お前も分け前欲しくなったのか?」
軽薄な声。
まるで自分が優位にいるとでも言うように。
「すげぇぞ――よし……」
そこまで言わせなかった。
明は掴んだままの佐山を、力任せに引き寄せ――
その顔面を、玄関のドアノブに叩きつけた。
ゴンッ。
鈍い音が夜気に響く。
「ぎゃああああ!!」
佐山は悲鳴を上げ、床に転がってのたうち回る。
鼻を押さえ、呻き声を上げながら、意味のない罵声を吐き続ける。
明は一瞥すらくれなかった。
そのまま玄関を押し開け、家の中へ踏み込む。
背後から、佐山の甲高い声が追いかけてくる。
「て、てめぇ……!
俺に手ぇ出すとか、竜司さんが黙ってねぇぞ!!
くそ……痛ぇ……痛いっての……!」
佐山は床に座り込み、痛みに耐えるのが精一杯の様子だった。
(……いるのか、竜司)
明の胸の奥が、嫌な形でざわつく。
佐伯竜司――
明にとって、その名前は単なる敵でも、仲間でもない。
三年前。
明は体格も良く、喧嘩慣れしていた。
曲がったことが我慢ならない性格が災いし、
気がつけば毎日のように殴り合いに明け暮れていた。
いつしか――
自分は強い。
――負ける気が、しなくなっていた。
そんな慢心を抱くようになっていた頃。
あるチームと敵対し、
明は一人で多勢に囲まれた。
健闘した、とは言えない。
圧倒的だった。
殴られ、蹴られ、視界が赤く滲む。
(……ここで、死ぬのか)
そう思った瞬間――
不意に、暴力が止んだ。
代わりに聞こえてきたのは、荒々しい怒号。
「きゃしゃ、見つけたぞ!!
加藤の野郎ども、囲め!!」
「佐伯、なめんなよ」
明がぼんやりと目を開けると、
そこには見知らぬ連中が立っていた。
勝ち誇ったように吠える声。
逃げ惑う敵。
あっという間に形勢は逆転していた。
「いいか、この辺で今度面見たら、
もっと酷い目に遭わすからな!」
逃げ出す加藤たち。
その中で、ひときわ軽い調子で声をかけてきた男がいた。
金髪。
ひょろりとした体つき。
「おめー、根性あんな。どうだ?
喧嘩したきゃ、家に来いよ」
にやりと笑いながら、名乗る。
「俺は佐伯竜司。
おめーは?」
明は、なぜか反射的に答えていた。
「……藤井明だ」
隣にいた高橋が、驚いたように呟く。
「お前が……あの藤井か……」
それが始まりだった。
――そして今。
現実に引き戻され、明は廊下を進む。
暖色の照明がついた部屋へ。
扉の向こうから、かすかに紙の擦れる音が聞こえた。
中に入る。
そこには――
床に置かれたアタッシュケース。
蓋は開き、札束がぎっしりと詰め込まれている。
その前に、背を向けてしゃがみ込み、
無心で札を数えている男。
「……竜司」
明が名を呼ぶと、
その背中が、ほんのわずかに揺れた。
なぜだろう。
ただそれだけなのに。
明の背筋を、
正体の知れない恐怖が、ゆっくりと這い上がっていった。
そして――
竜司が、ゆっくりとこちらを向いた。
動きは緩慢だった。
まるで時間そのものを引き延ばすかのように。
金髪の隙間から覗く瞳は、妙に澄んでいる。
感情の熱が、どこにも見当たらない。
「なぁ、明」
低い声。
やけに落ち着き払っていた。
竜司はアタッシュケースの中の札束を一つ取り上げ、
指先で軽く揃えながら言う。
「二千万ほど、足りないんだ」
ぱらり、と札を落とす。
「知らない?」
明は一歩、前に出る。
拳が、無意識に握り締められる。
竜司はそれに気づいた様子もなく、
どこか困ったように首を傾げた。
「これはさ……良子ちゃん、いけないよね」
その口調は、諭すようで――
しかし次の言葉は、冷え切っていた。
「お仕置き、だ」
その瞬間。
明の中で、何かがはっきりと“違う”と告げた。
――違う。
これは、俺の知ってる佐伯竜司じゃない。
仲間を庇い、
笑って殴り合い、
場の空気を荒っぽくまとめていた、あの男じゃない。
目の前の竜司は、
まるで別の“何か”が皮を被っているようだった。
次の瞬間。
「……てめぇ」
明の声は、低く、荒れていた。
「良子を――どこにやった」
一歩、また一歩。
距離を詰める。
「答えろよ、竜司」
竜司は、ようやく完全にこちらを向いた。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
だがそれは、仲間に向けるものではない。
所有物を見下ろす、
あるいは――
“裁く側”の笑みだった。
「そんな怖い顔すんなよ、明」
竜司は肩をすくめる。
「ちゃんと生きてる。今のところはね」
――ブチッ。
明の中で、何かが切れた。
「ふざけんなァッ!!」
明は叫び、
床を蹴り、
竜司へと飛びかかる。
「良子に指一本でも触れてたら――
てめぇ、俺が殺す!!」




