20
寛治が若葉達を警察署に送った頃
病院を出た江口良子は、無意識に腹部へ手を添えながら歩いていた。
白い建物の影を抜け、街灯が点き始める通りへ出る。
人通りはまばらで、空はまだ青みを残しているのに、
どこか夜に押し込められていくような感覚があった。
(……絵里さんも、もういない)
その事実を、頭では理解しているはずなのに、
胸の奥が追いつかない。
「……あれは……」
良子は小さく呟く。
「……私が、貰ってもいいの……?」
答えなど返ってくるはずもない。
ただ、自分の声がやけに乾いて聞こえた。
その時だった。
ふっと、周囲の空気が変わる。
夕方のはずなのに、肌を撫でる風が生ぬるい。
良子は足を止めた。
視線を上げた先に――
見覚えのある男が、立っていた。
夕方にも関わらず、サングラス。
金色の髪をスパイキーに立てた、男。
佐伯竜司。
だが――
良子の知っている竜司とは、どこか違っていた。
いつもなら落ち着きがなく、
粗暴で、声も荒い。
人の話を遮り、笑いながら怒鳴る男。
けれど、目の前の竜司は違う。
肩の力が抜け、
まるで散歩の途中のような、ゆったりとした立ち姿。
サングラスの奥から向けられる視線が、
静かすぎて――逆に怖い。
「良子」
呼ばれただけで、背筋がひやりとした。
「少し、付き合ってくれないか」
声の張りも、抑揚も、
良子の知っている竜司のものではない。
絵里から竜司には近づくなと言われたことを思い出す
(……逃げなきゃ)
本能が、そう告げていた。
良子は一歩、後ずさる。
逃げなければ。
そう思った瞬間――
視界が、ぐらりと反転した。
地面が遠ざかり、
空が傾く。
息を吸ったはずだった。
なのに、胸の奥に空気が届かない。
――吸えていない?
喉の奥が妙に乾き、
肺が空回りするような感覚だけが残る。
周囲の空気はぬるく、重く、
まるで薄い膜を通して呼吸しているみたいだった。
心臓が早鐘を打ち、
視界の縁がじわりと暗む。
「……あ……」
声にならない息が漏れ、
足から力が抜けた。
倒れ込む直前
「なに、すぐ済むさ」
耳元で、竜司の声がした。
「“アレ”の場所を教えてくれるならね」
その言葉を最後に、
良子の意識は、闇に沈んだ。
そして竜司の視線が、一瞬だけ良子の腹部に落ちた。
――……明。
藤井明は、佐伯竜司のグループの中でもひときわガタイが良く、
他グループとの揉め事では、明はいつも一番前にいた。
それが藤井明という男だった。
ある日、アジトで竜司が声を張り上げた。
「お前ら、新しいビジネスだ。
これは儲かるぞ、くっくく」
「なんすか、竜司さん」
誰かが訊ねると、竜司はニヤついたまま続ける。
「いいか。お前らは明日から女の護衛だ。
佐山、お前はココ。
高橋はココだ。
――で、明。お前はココ」
地図を指で叩きながら、竜司は念を押す。
「いいか?
女に手ぇ出すなよw」
嬉しそうにアジト内を歩き回りながら、竜司は笑った。
「金だ、金だ。
これで俺も組の構成員に入れてもらえるぜ」
「おお、竜司さん! かっけぇぇ!」
意味も分からず、佐山がはしゃぐ。
明は鼻で笑った。
「……くだらねぇ」
アジトを出て、一人で煙草に火を点ける。
湿った夜気の中、白い煙がゆっくりと溶けていく。
そこへ高橋が近づいてきた。
「おい明、しけた面してんなw
いいじゃねぇか。
これで家もデカくなるぜ」
高橋は軽い調子で続ける。
「未成年売春だ。
ヤバい山だが、その分実入りはいい。
お前のそのバイクもさ、
もっとマシなのに替えられるぜ」
明は視線をやった。
アジトの脇に停めてあるのは、
年式の古いネイキッドバイク。
色褪せたタンクには無数の小傷。
エンジン周りは油で黒ずみ、
マフラーには転倒した時のへこみが残っている。
セルを回せば一応かかるが、
アイドリングは不安定で、癖も多い。
だが――
明は、このバイクを手放す気はなかった。
「……くだらねぇ」
高橋の誘いを切り捨てるように呟き、
明はヘルメットを掴む。
「高橋さん。
ちょっと、流してきます」
その夜。
明はやる気のないまま持ち場に就いていた。
普段、俺たちが屯していた空き家が
“売春宿”になること自体、気に食わなかった。
――だが。
その時、空き家の中から
甲高い悲鳴が聞こえた。
「キャ――!」
「……チッ」
舌打ち一つ。
明はバイクを降り、扉を蹴り上げる。
「おい、カス。
誰に手ぇ出してんだ?」
中にいたのは、
酒で顔を赤くしたサラリーマン風の男と、
明らかに怯え切った女。
次の瞬間、
明の拳が男の顔面を叩き潰した。
「テメェ、舐めてんのか。おう」
殴る。
殴る。
容赦はない。
胸倉を掴み上げ、低く言い放つ。
「オイ。
財布、置いて消えろ」
その一言で、
男は一気に酔いが覚めたようだった。
青ざめた顔で何度も頷き、
慌てて財布を地面に放り出すと、
転がるように逃げ出していく。
明は拾い上げた財布を無造作に開き、
中身を確認して鼻を鳴らした。
「……おっ。結構入ってんじゃん」
一万円札を一枚、自分の懐に滑り込ませ、
残りをそのまま女の手に押し付ける。
「大丈夫か?」
女は言葉を返せず、
ただ小さく頷いた。
それを確認すると、
明は気にした様子もなく鼻先を指で掻く。
「藤井明だ」
「……江口、良子……」
か細い声。
明は、ふっと笑った。
「確かに……
こりゃ儲かるなw」
――それが、
藤井明と江口良子の出会いだった。
いつしか藤井明は、
江口良子の“専属の護衛”のような存在になっていた。
現場で顔を合わせることが増え、
言葉数は少ないながらも、
二人は自然と笑い合うようになった。
それは、恋人とも違う、
だが確実に距離が縮まっていく関係。
やがて明は、
良子の部屋に居候しているような状態になっていった。
ある日。
明は床に座り込み、
古びたバイク雑誌を真剣な顔で眺めていた。
良子にはよく分からない世界。
だが、バイクの話題になると、明は別人のように饒舌になる。
「この年式はな、フレームが違うんだよ」
「今のバイクは速ぇけど、魂がねぇ」
時折、冗談めかして笑う。
その横顔を見ているうちに、
良子はますます彼を好きになっていった。
ページの一角。
何度も擦り切れた跡のある一枚があった。
明は、そこを長い時間、
無言で見つめている。
良子はそっと覗き込み、
そこに載っているバイクの価格を見て――息を呑んだ。
(……高い。でも……)
――買えないわけじゃ、ない。
小さく、決意する。
「……?」
明が気づいて言う。
「なに、ニヤニヤしてんだ」
「うんうん、なんでもない」
良子は慌てて首を振った。
「ねぇ藤井君。
誕生日、もうすぐだよね」
「あ? なんだ。
なんかくれるのか?……いらんぞ」
そう言いながら、明は良子を引き寄せ、抱きしめる。
「このままでいい……」
「……藤井君……」
布団に絡まり、そのまま二人は眠りについた。
――翌朝。
明が目を覚ますと、良子が出かける準備をしていた。
「あれ?
シフト、今日は無いだろ」
「ごめんね。
絵里さんの家に、行ってくる」
そう言って、
良子は部屋を出ていった。
良子は以前から、度々、絵里と会っていた。
そして、ある日。
「藤井君……学校、行かない?」
珍しい申し出だった。
「やっぱり……
中卒より、高卒のほうがいいと思う。
絵里さんに、お願いしてみる」
その真剣な眼差しに、
明は断り切れなかった。
こうして明は、
絵里の手配した通信制高校へ通うことになる。
「おい。
勉強なんて、したことねぇぞ」
「私が、教えるよ」
それだけで、
不思議と悪くない気がした。
――そして、誕生日。
明は自分のバイクで、
一人、夜のツーリングを終え、良子のアパートへ戻ってきた。
そこで目にしたのは――
見慣れないもの。
バイクに掛けられた、新品のバイクカバー。
その上に、
マジックペンで書かれた文字。
《誕生日おめでとう 藤井 明》
「……なんつー恥ずかしいことを」
苦笑しながら、明はカバーに手を掛けた。
そして――めくる。
そこにあったのは、
七〇年代後半製の
国産大型スポーツバイク。
空冷四気筒エンジン。
無駄のない直線的なフレーム。
細身のタンク。
現行車にはない、
“鉄の塊”のような存在感。
明が、ずっと憧れていた一台。
「……オイ、良子。
こんなの……どうやって手に入れた」
限定生産。
市場にほとんど出ない代物。カタログ価格は数百万――
だが、金の問題ではない。
オーナーが、
そう簡単に手放すはずがないバイク。
良子は、
驚きで固まる明を見て、満面の笑みを浮かべた。
「買えちゃった」
そして、少し照れながら言う。
「リアシートはね、
私しか乗せちゃダメだから」
「……すげぇ……すげぇ……」
明はただ、何度もそう呟いていた。
――そして、現在。
藤井明は、
良子のアパートで一人、待っていた。
頭から離れないのは、
寛治達に言われた、あの言葉。
「江口良子さんの命に関わることです」
何より――あの時の顔。
あれは、本気で心配している人間の顔だった。
「……くそ」
明はスマホを握りしめる。
「良子……」
何度かけても、返ってくるのは同じアナウンス。
《現在、電波の届かない場所か――》
コール音だけが、虚しく響く。
「……ダメだ」
明は立ち上がり、バイクのキーを掴んだ。
「良子。
見つけてやる。俺は……お前の護衛だ」
深夜。
キーを捻る。
――ガシャン。
セルが回り、
次の瞬間。
ドゥンッ、ドゥンッ、ドゥンッ――!
空冷四気筒の低く重い鼓動が、夜を叩き割る。
金属が唸り、爆音が路地に反響する。
近隣の窓が震え、静まり返った街に、
“走り出す意思”が叩きつけられた。
藤井明は、
ヘルメットを被り、アクセルを捻る。
闇を切り裂くように、バイクは走り出した。




