02
1年前
袋正義は、市内の家の近くの中高一貫校に通っていた。
進学校として知られ、
成績上位の生徒は国立大学進学が当たり前のように口にする。
正義もその上位クラスに名を連ねていた。
だが彼の心を占めていたのは勉強ばかりではない。
小柄で運動神経は人並み以下、それでも正義はサッカーが好きだった。
中高を通してサッカー部に籍を置き、真剣にボールを追い続けている。
進学校ゆえ、部の雰囲気は“趣味”の延長。強豪校のような熱気はなく、
正義は万年補欠に甘んじていた。
それでも、女顔で声も高く可愛らしい彼は、
チームの“マスコット”として先輩後輩から親しまれていた。
その日も放課後の練習を終え、グラウンドに別れを告げる。
「また明日」
友人に軽く手を振りながら、正義は部室で着替えを済ませた。
「マッキー、明日カラオケ行かね?」
そう声をかけてきたのは、中村伸晃。
背も体格も大きく、弱小サッカー部で背番号10を背負う男だ。
正義とは中学からの付き合いで、気の置ける親友だった。
「いいね~」
正義も気楽に返す。放課後にカラオケという響きが、どこか楽しげだった。
部活が終わり校門前で
「おーい、気を付けて帰れよマッキー。可愛いから攫われちゃうぞ」
伸晃が冗談めかして正義の肩に手を置きガッチリ捕まえると、
正義は眉をひそめる。
「のぶ、誰が可愛いだ、馬鹿」
伸晃の手を、払いのける。
二人は笑い合い、校門を出る。帰る方向が違うため、そこで別れた。
夕闇が迫る逢魔が刻。
制服のグレーのブレザーは夜道に溶け込み、視認しづらい。
高校生ともなれば反射材など付けたがらず、正義もその一人だった。
家までは徒歩十分。正義は近道の細い路地を小走りに進んでいく。
その時――。
視界の端を、不意に黒い影がよぎった。
ライトも点けずに走り抜けてくる、セダン型の車。
「――え」
次の瞬間、衝撃と共に正義の体は宙を舞い、闇に飲まれた。
視界はぐるりと反転する。
その刹那、近くに停まっていたセダン型の車から、
現実離れした高音の歌声がかすかに響いた。
不思議と、その旋律だけが正義の耳に入り込んでくる。
自分の体が地面に叩きつけられる鈍い音が響き――
意識が、暗転する。
目を覚ますと、正義は白い天井を見つめていた。体中が痛い。
「痛い……」
自分の声に、母の声が震えて返ってくる。
「正義、目が覚めたのね」
母・由紀子の声は嗚咽混じりで、涙が堪えられないようだった。
体を動かそうとするたびに鋭い痛みが走り、正義はぎゅっと目をつぶる。
無理に動けば、きっと声を上げてしまうだろう。
ベッドの自分を見下ろすと、左腕には点滴の管が通され、
右手と右足は分厚いギプスに包まれていた。
右半身の痛みが突出していて、そこにばかり意識がいく。
サッカー
――ボールを蹴る自分の姿がふと頭をよぎり、途端に胸が締めつけられた。
これでは走れない、練習にも試合にも出られない。
勉強もみんなに追いつけないかもしれない。
「ほんとによかった、すぐパパに知らせるわ」
母は明るくなろうとする声で受付の看護師に伝え、誰かを呼びに出て行った。
由紀子は今年で五十八。正義は遅い子どもとして大事に育てられ、
兄たちとは違って少し過保護なところがあった。
病室には消毒液の匂いと、どこか落ち着かない空気が混ざっている。
正義は唇を噛みしめ、ぼんやりと天井を見たまま呟く。
「そんなことより、体が痛い……」
痛みが現実を押し戻す。恐怖も不安も、
まずはこの鋭い痛みを越えることから始まるのだと、正義は思った。
二週間が経ち、正義の体の痛みはだいぶ和らいできた。
毎日、母親が付き添い、仕事で忙しい父親も休日には必ず見舞いに来る。
そして時折、親友の伸晃も様子を見にやってくる。
しかし、かつてあれだけ表情豊かだった正義の顔は、今や暗く沈んでいた。
医師からは右手はリハビリで回復すると告げられたが、
右足は重度脛腓骨骨折による慢性跛行と下肢神経障害が残り、
一生にわたり障害が残ると宣告された。
これではもう、サッカーはできない。
正義の心は絶望で満たされた。
そんな正義にさらなる恐怖が訪れる。
松葉杖を使い、初めて院内を歩き始めた時のことだ。
正義は一人部屋を使っており、他の患者と交流はなく、
下を向いて暗い顔で廊下を、歩いていた。
病院はA市最大の総合病院で、人の往来は多い。
そのとき、白髪の老人が声をかけた。
「そんな下ばかり向いて歩くんじゃない。姿勢を正して前を向きなさい。」
老人の顔は死人のように白かったが、その目には活気が宿っていた。
正義は思わず声を上げそうになるのを抑えた。
老人は自分を「勝」と名乗り、誇らしげに語った。
「わしは全身癌で余命三か月と言われていたが、もう二年も生きておる。
お前さんも、そんな暗い顔していないで前向きになれば、
きっと良いことがあるはずだ」
正義は小さく「はぁ……」と曖昧に返事をし、話を聞き流す。
何度も勝の自慢話や生い立ちを聞き流しながら、正義は下を向き、
「すみません、お爺さん、僕検診があるので」と話を切り、自分の部屋へ戻った。
ベッドに倒れ込み、正義は心の中で愚痴った。
「知らないよ、そんなこと……」
丑三つ時、正義は目を覚ました。
ふと違和感を覚え、頭を上げると、枕元に黄色い足元が見えた。
正義は思わず息をのむ。
「え……」
見てはいけない者を見た感覚に、全身が硬直する。
しかし目を閉じても、部屋の映像が薄っすらと浮かんでくる。
そこには、朝見かけたあの老人、勝が立っていた。
勝は全身黄色に染まり、表情はまだ死を望んでいない顔をしている。
じっと正義を覗き込むその目。
「うぁああああ……!」
正義は跳ね起きる。次の瞬間、勝の姿は消えた。
目を見開いたまま、昨日の出来事を思い返す。
正義は一人、暗い天井を見上げ、呟いた。
「……夢だよな……」
そこから、正義の恐怖が始まった。
あの夜を境に、正義の枕元には病院内の入院患者たちが現れるようになった。
老人も老婆も、全員が黄色い色に染まった人物で、ちょうど丑三つ時に現れる。
最近になって、なぜ彼らがやってくるのか、正義は少しずつ理解し始めていた。
枕元に現れた人物の声を聞くと、ほぼ一週間以内にその人は亡くなる――。
勝も、あの朝からちょうど一週間後に死んだらしい。
正義は毎日、医師や母親にしきりに尋ねた。
「いつ退院できますか?」
医師は淡々と答える。
「あと一週間は様子見です」
それを聞いた正義の心はさらに沈み、重くなる。
そして今日も、丑三つ時。正義の心は張り詰めた恐怖でいっぱいだった。
いつものように、黄色い人物たちが次々と枕元に立ち、
正義を覗き込み、やがて消えていく。
だが、今夜は違った。
いつもの黄色ではなく、全身青色の人物が立っていた。
若い男性で、正義と同じくらい暗い表情をしている。
そしてその顔は、苦悶そのもので正義をじっと見つめる。
「な、何……初めて見る……」
正義の体から脂汗が流れ、パジャマがぐっしょりと濡れた。
その人物――青色の男性――は、正義が退院する前に病院の屋上から飛び降り、
自ら命を絶ったのだった。
正義はその光景を、ただ茫然と受け止めるしかなかった。
正義の表情は、日に日に暗くなっていった。
痛ましいその姿に、
かつて毎日のように見舞いに来ていた親友・伸晃も、
いつしか足を運ばなくなった。
そして迎えた退院の日。
少しだけ表情が明るくなった正義は、
やっと病院の外に出られる安堵をかみしめる。
だが、正義は人目を避けるように、母の車に身を潜めた。
体はまだ不自由で、右足は松葉杖に頼るしかない。
心の奥底には、不安と恐怖が渦巻き、安堵の笑顔はぎこちなく、
やっとこの地獄から抜け出せるのだと。
その日以来、正義は人目を避け、自分の部屋に引きこもってしまった。
母親はそんな息子を見かね、精神科医に相談し、正義を連れて行こうと試みる。
母親に無理やり連れられ、正義は精神科を訪れた。
待合室には様々な患者がいて、正義の視線は自然と彼らに向かい、
その苦悶の表情を見つめてしまう。
ある患者の腕には切り傷の跡があり、目には深い絶望が宿っていた。
正義は息を呑む。
――あの青色の人物の姿と、まるで重なるかのようだった。
やがて呼ばれ、正義は母に促されて診察室に入る。
部屋には落ち着いた雰囲気の精神科医・村上が座っていた。
「正義君、今日はどうしてここに来たか、教えてくれるかい?」
正義は肩をすくめ、視線を落とす。
「……病院で、いろんな人を見てしまったんです。
死にそうな人、苦しんでいる人……」
村上は静かに頷く。
「そうか。君が見たのは、現実の死者ではなく、
君の脳が作り出したイメージかもしれない。
事故や入院で受けた強い恐怖や不安が、形となって現れているんだ」
母・由紀子が心配そうに口を挟む。
「でも、正義には黄色や青の人が見えるみたいで……」
村上は優しく説明する。
「正義君の感じる色や表情は、脳が恐怖や不安を象徴的に表現したものだ。
黄色は病死、青は自殺、どちらも現実の死そのものではない。
君の体験は特別で、普通の人には見えないものだ」
正義は俯き、声を震わせる。
「……怖いです。寝るのも、動くのも……」
村上は落ち着いた声で言った。
「怖いのは当然だよ。事故で受けた心と体の傷はとても大きい。
でも、これを現実だと思い込む必要はない。安全な場所で、
少しずつ慣れていくんだ」
由紀子は涙ぐむ。
「治るんですか……?」
村上は微笑む。
「少しずつでいい。まずは眠れる習慣を取り戻すこと。
そして心と体を慣らしていけば、枕元に現れる幻覚も弱まってくる。
焦らず、ゆっくりね」
正義はまだ恐怖でこわばるが、わずかに肩の力が抜けた。
村上は由紀子に静かに語った。
「息子さんは、
事故による解離性障害や心的外傷後ストレス障害(PTSD)が考えられます。
時間はかかりますが、不安を取り除き、
心を落ち着かせることで、必ず回復への道は開けますよ」
由紀子は微かに頷き、正義の将来に希望を見出そうとした。
しかし、その夜――。
正義が目を閉じて眠ろうとしたその枕元に、あの青い女性の姿が立っていた。
精神科で見た、リストカットの女性だ。
冷たく濁った瞳が正義をじっと見つめる。
「嘘ばかり……」
正義の声は震え、心臓が高鳴る。恐怖と絶望が胸を締め付ける。
どれだけ村上が説明しても、あの女性の存在は現実のように正義の脳裏に迫る。
その日以来、正義は病院や学校に行くことを拒み、自分の部屋に引きこもった。
外の世界との接触は極端に減り、
母親もどうすることもできず、ただ遠くから見守るしかなかった。