10
佐伯竜司にとって、水沼絵里は血のつながらない姉だった。
父が再婚したときにやってきた、義母の連れ子である。
竜司の実の母は、彼を産んですぐに亡くなった。
父は真面目一筋で、寡黙だが優しい人だった。
裕福ではなかったが、二人の暮らしは穏やかで、夕食の食卓にはいつも小さな笑いがあった。
台所で、父の背中を見ながら竜司は「この人みたいになりたい」と何度も思った。
そのぬくもりが、竜司にとって世界のすべてだった。
――忘れもしない、十一歳の春。
学校から帰ると、玄関の鍵が開いていた。
不思議に思った竜司は、ランドセルを揺らしながら扉を開けた。
「ただいま、お父さん!」
珍しく仕事が早く終わったのだろう。
竜司の胸は少し弾んでいた。
だが、玄関先には見慣れない靴がいくつも並んでいた。
革のヒール。光沢のあるローファー。――来客?
家の奥から、明るい声がした。
「お帰りなさい。あなたが、竜司くん?」
現れたのは、金髪に染めた四十代ほどの女性。
細身の体に、どこか都会的な香りをまとっていた。
竜司は驚きながらも、思わずぺこりとお辞儀をする。
女性は微笑み、「いい子ね」と小さく笑った。
竜司は照れくさくなり、慌てて自室に逃げ込んだ。
ランドセルを机に置きながら、胸の中で呟く。
(あの人、誰だろ……)
宿題を広げかけたとき、扉がノックされた。
「竜司、話がある。入っていいか」
父の声だった。
「話って、なに?」
扉が開く。父の後ろには、さっきの金髪の女性と、その横に立つ高校生くらいの少女がいた。
父が、少し緊張したように言葉を選ぶ。
「竜司……お父さん、再婚することにしたんだ」
その言葉に、竜司は固まった。
金髪の女性が前に出て、真面目な表情で口を開く。
「竜司くん。私は伊奈といいます。……あなたのママになれるように――あら、駄目ね、緊張しちゃって。
これからよろしくお願いしますね」
言い終えると、伊奈は小さく息を吐いた。
その隣で、高校の制服を着た少女が元気に手を挙げる。
「私、絵里でーす! けっこう可愛いじゃん、竜司くん!お姉ちゃんだよ」
明るく場を和ませようとする声。
父は珍しくよく喋り、何度も笑った。
新しい家族――そう言われても、竜司の胸の奥はざらついていた。
その日から、家の空気が変わった。
笑いの音は増えたが、どこか遠く感じた。
竜司はその時、まだ知らなかった。
この瞬間から、自分の「家」は、ゆっくりと崩れていくのだということを。
伊奈と竜司の父が結婚して、半年が経ったころだった。
竜司にとって最悪の出来事が起こる。
――父が、帰り道の港で車ごと海に転落した。
警察の報告では「居眠り運転による事故」とされた。
棺の前で、竜司は泣き続けた。
伊奈も絵里も、泣いていた。
葬儀の夜、三人で抱き合いながら「もう家族だから」と言い合った。
あのときだけは、本当に家族だった気がした。
だが、その日を境に、少しずつ歯車が狂い始めた。
伊奈は父の残した金を使い、繁華街に部屋を借り、夜の仕事を始めた。
毎晩遅く帰宅し、化粧の濃い香りとアルコールの匂いをまとっていた。
頬は赤く、笑顔はどこか壊れたようで――
変わってしまった伊奈に対して、竜司は耐えるしかなかった。
「母親だから」と、自分に言い聞かせた。
ある夜、風呂場から伊奈の怒鳴り声がした。
「竜司、またタオル出しっぱなしじゃない!」
些細なことで怒鳴る声。竜司は慌てて謝った。
その時、廊下の奥で絵里が笑っていた。
「ちょっとママ、そんなに怒らなくてもいいじゃん」
その軽い調子の裏に、何かを見透かすような響きがあった。
――その夜から、家の中の空気は変わった。
伊奈は酒に溺れ、やがて薬にも手を出した。
家に帰れば常に焦げたような匂いが漂い、
テレビの音と、女の笑い声が混ざり合っていた。
ある夜、絵里が友人の家に泊まりに行った。
久しぶりに、竜司と伊奈、二人きりになった。
リビングに沈む静寂。
伊奈はグラスを持ったまま、酔った女の目で竜司を見つめた。
その視線に、竜司は酷く怯えていた。
「竜司……こっちに来なさい」
その声は妙に優しく響いた。
竜司は混乱したまま立ち尽くした。
それがどういう意味なのか、当時の彼にはまだわからなかった。
夜、伊奈は化粧を直しながら言った。
「仕事行かなきゃ。竜司、お留守番ね。……あと、絵里には言わないで」
放心した竜司は、ただ頷くだけだった。
やがて竜司が中学に上がるころ、
伊奈は新しい男を連れてきた。
水沼義男――
太った体に厳つい顔、だらしなく笑う口元。どこか堅気には見えない雰囲気だった。
髪は伊奈と同じ金髪に染め上げ、腕には薄い刺青の痕が覗いていた。
「へぇ、顔は悪くねえな。……明日から店に出てもらおうか」
義男は、テーブル越しに竜司と絵里を品定めするように眺めた。
伊奈が慌てて寄り添い、「ちょっと、絵里はいいけど竜司はまだ中学生よ。無茶言わないで」と笑ってみせた。
その声には媚びと恐怖が入り混じっている。
義男はそんな伊奈を突き飛ばした。
「うるせえ。これから俺が親父になるんだ。子供に何したって俺の勝手だ」
そう言うと、ニヤリと笑いながら絵里に近づいた。
「仕込んでやる」
絵里の顔から血の気が引いた。
「や、やめて……!」
リビングの奥に引きずられる。
竜司の耳に、扉の向こうから絵里の悲鳴が響いた。
――お母さん、助けて――
けれど、伊奈は何も言わなかった。
その夜を境に、義男は家に居座るようになった。
機嫌が悪ければ竜司や絵里を殴り、暴言を浴びせた。
伊奈は怯えながらも、酒と薬に逃げるように義男にすがっていった。
台所の蛍光灯は常にちらつき、焦げたような匂いが家の中に染みついていった。
ある晩、男の怒鳴り声が響いた。
「おい、今月の上がりが足りねえんだよ、義男!」
扉が閉まり、義男の荒い息が続く。
「くそが……上がり兄貴に払えねえ」
怒りの矛先は、いつも子供たちに向かう。
「おい伊奈、酌をしろ!」
伊奈は震えながら酒を注ぎ、やがて二人は酔い潰れて眠った。
その夜、台所の隅で竜司と絵里は膝を抱えていた。
小さな声で泣く竜司の肩を、絵里は黙って抱きしめた。
絵里の視線が、シンクの上の包丁に向いた。
彼女の顔に浮かんだのは、涙ではなく――静かな決意だった。
絵里は立ち上がり、包丁を手に取った。
眠っている義男の横に立ち、ぼんやりとその顔を見下ろす。
「あんたなんて……いなければよかったのよ」
次の瞬間、銀色の刃が閃いた。
押し殺した悲鳴。何度も、何度も。
竜司は動けなかった。耳の奥で、何かが壊れる音がした。
やがて、義男は動かなくなった。
伊奈は泥酔したまま眠っている。
絵里は息を荒げながら包丁を持ち、ゆっくりと伊奈の手にそれを握らせた。
「……竜司、行くよ」
二人は靴を慌てて履き、夜の街に飛び出した。
公園の多目的トイレに身を潜め、明け方を待った。
竜司の手は血の臭いで震えていた。
翌日、竜司の家には警察と報道陣が押し寄せた。
ニュースでは「夫婦間のもつれによる傷害致死」と報じられ、
伊奈は呂律の回らない声で「わたしじゃない」と繰り返していた。
それをテレビの中継で見ながら、絵里は乾いた笑いを漏らした。
「ねぇ、簡単じゃない……?」
竜司は何も言えず、ただその笑みを見つめていた。
――それが、兄妹が“普通の人間”でなくなった夜だった。
その後、竜司は児童施設に送られ、
絵里は「遠くへ行く」と言い残して、都内の教育大学へと姿を消した。
竜司が絵里と再び出会ったのは、
A市で名の知れたハングレグループのリーダーとなって数年が経ったころだった。
もう、あの頃の面影はどこにもない。
金髪に染め上げた髪、擦れた顔、鋭く濁った目。
竜司の中に残っていた“少年”は、とうに死んでいた。
その夜、縄張り争いで勝利した竜司は、久々に機嫌がよかった。
仲間たちと朝まで酒を飲み、ふらつく足取りで夜明け前の街を歩く。
湿ったアスファルトの匂い。遠くで新聞配達のバイクが通り過ぎる。
そんな時だった。
「――久しぶりね、竜司」
唐突に呼びかける声。
竜司は足を止め、目を細めた。
街灯の下に立っていたのは、ひとりの女性。
黒髪をなびかせ、リクルートスーツをきちんと着こなした姿。
だが、その瞳だけは――どこか懐かしかった。
「……アンタは」
竜司の喉がひとりでに震えた。
女性は微笑んだ。
「そう、私よ。――絵里」
その名前を聞いた瞬間、竜司の胸の奥に、凍りついていた何かが軋んだ。
酔いが一瞬で醒めていく。
「……何しに戻ってきた、姉貴」
竜司の声は、感情を押し殺したように低く響く。
絵里は、静かに息を吐いた。
「ねぇ竜司。良い話があるの。あんたにも、悪くない話。」
風が吹き、彼女の黒髪が頬にかかる。
その横顔は――まるで、伊奈にそっくりだった。
竜司は一瞬、言葉を失った。
幼い日の悪夢が、再び背後から忍び寄るように。
水沼絵里が亡くなった事に警察に連れてかれた竜司は。
吉田の尋問を軽く聞き流して、竜司はふてくされた顔で帰宅した。
ドアを乱暴に蹴り開け、靴を脱ぎ捨てる。
部屋の中は煙草とアルコールの匂いでむせ返るようだった。
「……くそがっ」
テーブルの上の缶を蹴り飛ばす。
壁に拳を叩きつけ、息を荒げながら竜司は呟いた。
「姉貴が……金を持ってる。回収しねぇと、俺まで終わる……!」
焦りと怒りが入り混じり、思考がまとまらない。
散らかった部屋の中で、ただひとり息を吐く。
テレビの青白い光が、割れたガラスに反射していた。
そのときだった。
――携帯が、震える。
竜司は乱暴にポケットからスマホを取り出し、液晶を覗き込む。
着信の表示に、見覚えがあった。
だが、その番号を“登録した覚え”はない。
『1NΛ』
数秒、躊躇した。
だが自然と親指が動く。
――通話ボタンが押された。
耳に当てた瞬間、雑音混じりの音楽が流れ出す。
それは奇妙なリズムの旋律だった。
低く、蠢くような電子音。
そこに、透き通るような女の機械音が重なる。
♪ ――「Aries」……♪
竜司の心臓が、不規則に跳ねた。
聞き覚えのある曲。




