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 佐伯竜司にとって、水沼絵里は血のつながらない姉だった。

 父が再婚したときにやってきた、義母の連れ子である。


 竜司の実の母は、彼を産んですぐに亡くなった。

 父は真面目一筋で、寡黙だが優しい人だった。

 裕福ではなかったが、二人の暮らしは穏やかで、夕食の食卓にはいつも小さな笑いがあった。


台所で、父の背中を見ながら竜司は「この人みたいになりたい」と何度も思った。

 そのぬくもりが、竜司にとって世界のすべてだった。


 ――忘れもしない、十一歳の春。

 学校から帰ると、玄関の鍵が開いていた。

 不思議に思った竜司は、ランドセルを揺らしながら扉を開けた。


 「ただいま、お父さん!」


 珍しく仕事が早く終わったのだろう。

 竜司の胸は少し弾んでいた。

 だが、玄関先には見慣れない靴がいくつも並んでいた。

 革のヒール。光沢のあるローファー。――来客?


 家の奥から、明るい声がした。

 「お帰りなさい。あなたが、竜司くん?」


 現れたのは、金髪に染めた四十代ほどの女性。

 細身の体に、どこか都会的な香りをまとっていた。

 竜司は驚きながらも、思わずぺこりとお辞儀をする。

 女性は微笑み、「いい子ね」と小さく笑った。


 竜司は照れくさくなり、慌てて自室に逃げ込んだ。

 ランドセルを机に置きながら、胸の中で呟く。

 (あの人、誰だろ……)


 宿題を広げかけたとき、扉がノックされた。

 「竜司、話がある。入っていいか」

 父の声だった。


 「話って、なに?」


 扉が開く。父の後ろには、さっきの金髪の女性と、その横に立つ高校生くらいの少女がいた。

 父が、少し緊張したように言葉を選ぶ。


 「竜司……お父さん、再婚することにしたんだ」


 その言葉に、竜司は固まった。

 金髪の女性が前に出て、真面目な表情で口を開く。


 「竜司くん。私は伊奈といいます。……あなたのママになれるように――あら、駄目ね、緊張しちゃって。

これからよろしくお願いしますね」


 言い終えると、伊奈は小さく息を吐いた。

 その隣で、高校の制服を着た少女が元気に手を挙げる。


 「私、絵里でーす! けっこう可愛いじゃん、竜司くん!お姉ちゃんだよ」


 明るく場を和ませようとする声。

 父は珍しくよく喋り、何度も笑った。

 新しい家族――そう言われても、竜司の胸の奥はざらついていた。


 その日から、家の空気が変わった。

 笑いの音は増えたが、どこか遠く感じた。

 竜司はその時、まだ知らなかった。

 この瞬間から、自分の「家」は、ゆっくりと崩れていくのだということを。

伊奈と竜司の父が結婚して、半年が経ったころだった。

 竜司にとって最悪の出来事が起こる。


 ――父が、帰り道の港で車ごと海に転落した。

 警察の報告では「居眠り運転による事故」とされた。


 棺の前で、竜司は泣き続けた。

 伊奈も絵里も、泣いていた。

 葬儀の夜、三人で抱き合いながら「もう家族だから」と言い合った。

 あのときだけは、本当に家族だった気がした。


 だが、その日を境に、少しずつ歯車が狂い始めた。


 伊奈は父の残した金を使い、繁華街に部屋を借り、夜の仕事を始めた。

 毎晩遅く帰宅し、化粧の濃い香りとアルコールの匂いをまとっていた。

 頬は赤く、笑顔はどこか壊れたようで――


 変わってしまった伊奈に対して、竜司は耐えるしかなかった。

 「母親だから」と、自分に言い聞かせた。


 ある夜、風呂場から伊奈の怒鳴り声がした。

 「竜司、またタオル出しっぱなしじゃない!」

 些細なことで怒鳴る声。竜司は慌てて謝った。


 その時、廊下の奥で絵里が笑っていた。

 「ちょっとママ、そんなに怒らなくてもいいじゃん」

 その軽い調子の裏に、何かを見透かすような響きがあった。


 ――その夜から、家の中の空気は変わった。


 伊奈は酒に溺れ、やがて薬にも手を出した。

 家に帰れば常に焦げたような匂いが漂い、

 テレビの音と、女の笑い声が混ざり合っていた。


 ある夜、絵里が友人の家に泊まりに行った。

 久しぶりに、竜司と伊奈、二人きりになった。


 リビングに沈む静寂。

 伊奈はグラスを持ったまま、酔った女の目で竜司を見つめた。


 その視線に、竜司は酷く怯えていた。


 「竜司……こっちに来なさい」


 その声は妙に優しく響いた。

 竜司は混乱したまま立ち尽くした。

 それがどういう意味なのか、当時の彼にはまだわからなかった。


 夜、伊奈は化粧を直しながら言った。

 「仕事行かなきゃ。竜司、お留守番ね。……あと、絵里には言わないで」


 放心した竜司は、ただ頷くだけだった。


やがて竜司が中学に上がるころ、

 伊奈は新しい男を連れてきた。


 水沼義男――

 太った体に厳つい顔、だらしなく笑う口元。どこか堅気には見えない雰囲気だった。

 髪は伊奈と同じ金髪に染め上げ、腕には薄い刺青の痕が覗いていた。


 「へぇ、顔は悪くねえな。……明日から店に出てもらおうか」

 義男は、テーブル越しに竜司と絵里を品定めするように眺めた。


 伊奈が慌てて寄り添い、「ちょっと、絵里はいいけど竜司はまだ中学生よ。無茶言わないで」と笑ってみせた。

 その声には媚びと恐怖が入り混じっている。


 義男はそんな伊奈を突き飛ばした。

 「うるせえ。これから俺が親父になるんだ。子供に何したって俺の勝手だ」


 そう言うと、ニヤリと笑いながら絵里に近づいた。

 「仕込んでやる」


 絵里の顔から血の気が引いた。

 「や、やめて……!」


 リビングの奥に引きずられる。

 竜司の耳に、扉の向こうから絵里の悲鳴が響いた。

 ――お母さん、助けて――

 けれど、伊奈は何も言わなかった。


 その夜を境に、義男は家に居座るようになった。

 機嫌が悪ければ竜司や絵里を殴り、暴言を浴びせた。

 伊奈は怯えながらも、酒と薬に逃げるように義男にすがっていった。


 台所の蛍光灯は常にちらつき、焦げたような匂いが家の中に染みついていった。


 ある晩、男の怒鳴り声が響いた。

 「おい、今月の上がりが足りねえんだよ、義男!」


 扉が閉まり、義男の荒い息が続く。

 「くそが……上がり兄貴に払えねえ」

 怒りの矛先は、いつも子供たちに向かう。


 「おい伊奈、酌をしろ!」

 伊奈は震えながら酒を注ぎ、やがて二人は酔い潰れて眠った。


 その夜、台所の隅で竜司と絵里は膝を抱えていた。

 小さな声で泣く竜司の肩を、絵里は黙って抱きしめた。


 絵里の視線が、シンクの上の包丁に向いた。

 彼女の顔に浮かんだのは、涙ではなく――静かな決意だった。


 絵里は立ち上がり、包丁を手に取った。

 眠っている義男の横に立ち、ぼんやりとその顔を見下ろす。

 「あんたなんて……いなければよかったのよ」


 次の瞬間、銀色の刃が閃いた。

 押し殺した悲鳴。何度も、何度も。

 竜司は動けなかった。耳の奥で、何かが壊れる音がした。


 やがて、義男は動かなくなった。

 伊奈は泥酔したまま眠っている。

 絵里は息を荒げながら包丁を持ち、ゆっくりと伊奈の手にそれを握らせた。


 「……竜司、行くよ」


 二人は靴を慌てて履き、夜の街に飛び出した。

 公園の多目的トイレに身を潜め、明け方を待った。

 竜司の手は血の臭いで震えていた。


 翌日、竜司の家には警察と報道陣が押し寄せた。

 ニュースでは「夫婦間のもつれによる傷害致死」と報じられ、

 伊奈は呂律の回らない声で「わたしじゃない」と繰り返していた。


 それをテレビの中継で見ながら、絵里は乾いた笑いを漏らした。

 「ねぇ、簡単じゃない……?」


 竜司は何も言えず、ただその笑みを見つめていた。


 ――それが、兄妹が“普通の人間”でなくなった夜だった。


 その後、竜司は児童施設に送られ、

 絵里は「遠くへ行く」と言い残して、都内の教育大学へと姿を消した。


竜司が絵里と再び出会ったのは、

A市で名の知れたハングレグループのリーダーとなって数年が経ったころだった。


 もう、あの頃の面影はどこにもない。

 金髪に染め上げた髪、擦れた顔、鋭く濁った目。

竜司の中に残っていた“少年”は、とうに死んでいた。


 その夜、縄張り争いで勝利した竜司は、久々に機嫌がよかった。

仲間たちと朝まで酒を飲み、ふらつく足取りで夜明け前の街を歩く。


 湿ったアスファルトの匂い。遠くで新聞配達のバイクが通り過ぎる。

 そんな時だった。


 「――久しぶりね、竜司」


 唐突に呼びかける声。

 竜司は足を止め、目を細めた。

 街灯の下に立っていたのは、ひとりの女性。

 黒髪をなびかせ、リクルートスーツをきちんと着こなした姿。

 だが、その瞳だけは――どこか懐かしかった。


 「……アンタは」


 竜司の喉がひとりでに震えた。

 女性は微笑んだ。

 「そう、私よ。――絵里」


 その名前を聞いた瞬間、竜司の胸の奥に、凍りついていた何かが軋んだ。

 酔いが一瞬で醒めていく。

 「……何しに戻ってきた、姉貴」


 竜司の声は、感情を押し殺したように低く響く。

 絵里は、静かに息を吐いた。

 「ねぇ竜司。良い話があるの。あんたにも、悪くない話。」


 風が吹き、彼女の黒髪が頬にかかる。

 その横顔は――まるで、伊奈にそっくりだった。

 竜司は一瞬、言葉を失った。

 幼い日の悪夢が、再び背後から忍び寄るように。


水沼絵里が亡くなった事に警察に連れてかれた竜司は。

 吉田の尋問を軽く聞き流して、竜司はふてくされた顔で帰宅した。

 ドアを乱暴に蹴り開け、靴を脱ぎ捨てる。

 部屋の中は煙草とアルコールの匂いでむせ返るようだった。


 「……くそがっ」


 テーブルの上の缶を蹴り飛ばす。

 壁に拳を叩きつけ、息を荒げながら竜司は呟いた。

 「姉貴が……金を持ってる。回収しねぇと、俺まで終わる……!」


 焦りと怒りが入り混じり、思考がまとまらない。

 散らかった部屋の中で、ただひとり息を吐く。

 テレビの青白い光が、割れたガラスに反射していた。


 そのときだった。

 ――携帯が、震える。


 竜司は乱暴にポケットからスマホを取り出し、液晶を覗き込む。

 着信の表示に、見覚えがあった。

 だが、その番号を“登録した覚え”はない。


 『1NΛ』


 数秒、躊躇した。

 だが自然と親指が動く。

 ――通話ボタンが押された。


 耳に当てた瞬間、雑音混じりの音楽が流れ出す。

 それは奇妙なリズムの旋律だった。

 低く、蠢くような電子音。

 そこに、透き通るような女の機械音が重なる。


 ♪ ――「Aries」……♪


 竜司の心臓が、不規則に跳ねた。

 聞き覚えのある曲。




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