1 旅立ち
2010年3月17日、水曜日。
わたしはどでかいスーツケースを引きずって歩いていた。
始まりは、一年前。
就職先に面接に行った際、「免許は取るんだよね?」と当たり前のように聞かれたが、わたしは内心「は?」と思った。
資格については高校時代、それこそ洗脳に近い教育の末散々取らされた訳だが、まさかプログラマーで面接を受けに来て自動車免許について聞かれるとは思っていなかったのだ。
わたしにとって移動手段とは「=自転車」なわけで、何が悲しくてわざわざガソリンまで吸わせて死にに行かなきゃならないのか、と。
結局、喧嘩を売る訳にも行かず、その場凌ぎで適当に言った「はい。卒業直後に取得したいと思っています。」の一言が波乱への扉だった。
現実逃避しているうちに気がついたら卒業間近の2月になっていた。もちろん、その間段取りなど一切取っていない。
正直どこの教習所でも良かったので、手続きは母に一任していた。今更、釜茹でだろうと針山だろうと地獄に行くのは代わりはしない。
しかし、任せたはずの母からは「あんたはどこの合宿所がいいの?」と返事が返ってきた。
どこでもいいから任せたのに、どこがいいの、とはこれいかに。
とりあえず「料金格安」をテーマに検索した結果(そもそも通いよりも合宿の方が安上がりなので、最初から合宿前提だった。そのくせ今更、どこがいいの?とは納得いかない。)「那須合宿センター」に決定した。
日程は3月15日から30日。入社式は4月1日なので、31日に免許センターに行って、という綱渡りスケジュールだ。
もちろん、教習が伸びたりとか、免許試験に落ちたら、ということは考慮していない。考えたくも無かった。
しかし、インターネットでは○(空きあり)になっていたにもかかわらず、電話してみると15日は無理で、17日入学になってしまう、という。もちろん卒業も繰り下がり、31日になる。
なぜ入学が2日遅れるのに卒業は1日しか遅れないのかと疑問だったがそれはおいといて、別に入社に間に合わずともしったこっちゃなかった。釜茹でから針山に行くのが一日ずれるだけの話だ。
会社に電話し、1日だけ入社が遅れる旨を伝え、17日の入学が決定した。地獄行きの日程が決まったわたしは、再び現実逃避の日常に戻った。
自由登校を経て、卒業。また遊び狂い、目が覚めたらその日の朝になっていた。
早朝、スーツケースと旅行バッグを持ち、母と家を出た。
バスで宇都宮駅へ、そこから新幹線一駅で那須着というあっけない旅だが、文字通りお荷物のお陰で一気に苦行と化した。
ひいひい言いながら売店でおにぎりを買ってからやっとホームにたどり着くと、母は「どうせ10分であっちに着くからドアの前で待ってな。」と言う。冗談じゃない。
新幹線が到着し、乗り込む。乗って、車両に入ってドアに一番近い席に座ると、母がこっちを見ながら窓を叩いてくる。
別に座ったっていいじゃねえかよ、と思ってるうちに発車。
(ああ、やっと座って落ち着ける…)
深いため息を吐くと、母からメールが届く。
「そこは指定席だよ!」 (本文一行目)
那須に着くまでの10分間、わたしは通路に陣取り、トイレに入る人を眺める便所妖怪と化していた。