最も仲の良いチームメイトの話①
「ブルペンでは日本一のピッチャーだな」
これは、プロ野球チームの北信越ロケッツに所属している僕が、コーチや、同じくプレイヤーの先輩など、自分の投げるボールを見た人から、数えきれないくらい言われた言葉である。
つまり、練習でのピッチングは非の打ち所がないのに、肝心の本番では駄目なわけだ。試合でマウンドに上がると、ガチガチにはならないものの、やはり緊張することによって、余計な力が入るからではないかと思うが、どうしても制球が乱れてしまう。アマチュア時代もコントロールが良いとは言えなかったが、投手としてのレベルを上げるためにフォームを改造したり新しい変化球を覚えたりとなんやかんややっているうちに、もっとひどくなってしまった。
そうして、「右の本格派ピッチャー」「将来のエース候補」として、球団にも知人や友人たちにも期待され、僕自身もやってやると自信に満ちあふれてプロ入りしながら、何年もの間ろくな成績を残せずにいた。
「サイドスローで投げてみろ」
これもコーチから何度も言われた。わからない人のために説明すると、上から投げ下ろすオーバースローに対し、腕を下げて横から投げるサイドスローだと、ボールはコントロールしやすいのだ。
だけど、僕の持ち味は百五十キロを優に超える速いストレートだ。ずっとやってきたオーバースローをやめてサイドスローにしたら、その武器のスピードは落ちて、並の投手になってしまう。
「多少は遅くなっても、サイドからでも十分速いボールは投げられるし、ピッチャーに必要なのは球威よりもコントロールだ」
この台詞も何回聞かされたかわからない。ピンチを招くフォアボールを出したり、甘いところに球が行って打たれたり、散々痛い目に遭ってきたのだから、コントロールこそが生命線であることは僕だって十分理解している。今のままでは数年やそこらで戦力外にされてしまうだろうことも。
でも、本当にサイドスローにしてうまくいくのか? それに、やっぱり自分が投げられる一番速いボールで勝負したいからオーバースローを諦めたくない! サイドスローで成績が上向かず引退なんてことになったら悔やんでも悔やみきれない、といった気持ちがあって、踏ん切りがつかないでいた。
そんななか、ある出来事が僕に決断を促した。
新人なので今年からチームメイトになった、杉森圭吾という男がいる。僕がずっと思い悩んでいるのを、見ていられないほどひどかったのかもしれないけれども、ポジションが違うし、こちらが年上だというのに、気に留めてくれた善い奴で、それがきっかけでよく話すようになり、馬も合って、近しい関係になったのだ。
僕が吐露した、サイドスローに変えるべきかオーバースローを貫くべきかという迷いに対し、圭吾は他の多くの人たちのように「こうしたほうがいい」などとは口にせず、自らのことを語った。
「俺、本当は、右じゃなくて、左打ちなんです。両方で打つ選手は何人もいますけども、その方々は皆さん、最初は打ってなかったほうも違和感がまったくないか、あったとしてもわずかだったからこそ、両打ちをやり始めたんだと思いますが、俺は、右は元々しっくりいかずに全然打てなくて。それでも、本来とは異なる右打ちにすることで、結果が出なくても『まだ左が残っている』という心の支えがつくれたので、リラックスして思いきりプレーできてるんですよ」
「ええ?」
俺はその事実に驚き、尋ねた。
「いや、だって……いくらメンタルにプラスになるっていっても、そんなにも苦手な右打ちに変えるなんて、よくできたな。もしプロになれなかったらどうするつもりだったんだよ?」
圭吾は軽く微笑んで答えた。
「何が何でもプロになりたいっていう子どもじゃなかったんですよね。それよりも楽しんで良いプレーをしたいってほうが大きかったんです。あと、右打ちでもなれないようなら、俺はプロの器じゃないんだって気持ちもありました」
「……マジか」
とんでもない奴だなというのが最初に頭に浮かんだことだけれども、その話を聞いて「なるほど、そうか」と思い、僕はサイドスローに変える気になったのだ。うまくいってなかったとはいえ自分としては一番自信があるオーバースローを、「捨てる」のではなく、圭吾と同じように奥の手として「残した」のである。
その発想によって、わだかまりなく思いきりサイドスローに挑戦でき、確かに気持ちに余裕が生まれて、試合でも練習のときのような自分の思い描くピッチングができるようになったのだ。
結果、昨年までの僕は、一軍と二軍を行き来し、一軍にいるときは中継ぎでの登板がほとんどという立場だったのが、今季、他の多くの投手も良かったというのに、それを上回るくらいのピッチングをしたことが評価され、シーズンの途中から一軍の先発ローテーションの一角に食い込んで、自己最多の八勝をマークすることができた。お前のおかげだよ、サンキュー圭吾。
そんなありがたい言葉をくれた圭吾自身も成績がどんどん上昇していたが、なんとリーグ優勝を決める、しかも逆転サヨナラでのホームランを、今年の最多勝ピッチャーである六車からかっ飛ばしやがった。右打ちで一年間ずっと抑えられてきたし、その打席でアウトになったら優勝を逃すという状況だったから、勝負に出たんだろう、左のバッターボックスに入ってである。
本来の姿とはいえ、左で打つのは、一つ前の打席でも立ったものの初球をバントして終わっているから、実質プロで、いや、アマチュアでもやってなかったと言っていたので、実戦は生涯を通じても数えるくらいのはずだ。
それであんな漫画みたいなすげえことを現実にしちまうのだから、陰でよっぽど練習していたんだろう。だいたい、最初まったくしっくりいってなかった右打ちもプロで通用するまで上達したのである。長い年月、相当努力を重ねたに違いない。月並みな言い方だけれども、天才バッターの杉森圭吾は、努力の天才でもあったわけだ。
優勝によって、本拠地の北信越が大いにわいたのをはじめ、あの弱小ロケッツがというので、日本じゅうから注目されることとなった。
さまざまつらい思いをされてきたり、今現在している方などに、頑張れば報われることもあるのだとわかり励まされたといった言葉をいただき、涙を流すまでしてもらったときは恐縮したが、あのちょっとコワモテの石黒さんが感動して泣いたときはちょっと笑ってしまった。
圭吾も、そうやってたくさんの人に喜んでもらえて、自分が大仕事をやったことより、優勝を達成できて本当によかったと感極まったのだった。




